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メレル・ヴォーリズ

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メレル・ヴォーリズ 

日本を愛するゆえの帰化 
「近江ミッション文化」の開花  近江八幡は天命の地
 

英語教師として来日したヴォーリズの赴任先は近江八幡、仏教の強い地域であった。キリスト教宣教の情熱に燃える彼の前に立ちふさがったのは、この仏教勢力。彼は解任の憂き目にあうが、その結果、「近江ミッション文化」と呼ぶべき文化遺産を後世に残すことに成功した。

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メレル・ヴォーリズ

宗教的家庭環境

  メレル・ヴォーリズは日本に帰化した米国人で、一柳米来留と名乗った。「米国より来て留まる」と洒落たのである。今日では、日本に数多くの西洋建築を設計した建築家として、あるいは塗り薬メンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家として、知られている。しかし、彼が来日したのは、建築家や実業家としてではなかった。キリスト教の布教のため、近江八幡市(滋賀県)に派遣された一伝道者であったのである。
  ヴォーリズが生まれたのは、1880年10月28日米国カンザス州レヴァンワース。簿記の仕事をしていた父ジョンと母ジュリアの長男として生まれた。父も、母も、共にカルビン派プロテスタントの熱心な信者で、特に母は海外伝道に行く夢を抱くほどの熱烈な信仰を持つ女性だった。
  両親は2度ほど移住をしているが、いずれも子供にとって必要な環境を求めての決断だった。アリゾナ州の新開地に移住したのは、病弱だったヴォーリズに大自然の環境が必要だと判断したからである。さらに16歳になったヴォーリズのために、今度は彼の教育環境を求めて、コロラド州の州都デンバーに移住した。


人生を決めた神秘体験

  ヴォーリズは、将来建築家になる夢を抱いてコロラド大学に入学した。ところが、3年生になる時、突然哲学コースに進路を変更してしまった。彼の人生を決定づける体験をしたのである。
  1902年2月26日から、カナダのトロントでSVM(海外宣教学生奉仕団)の世界大会があった。ヴォーリズはコロラド州からただ一人の代表として参加していた。そこで彼は、ジェラルディン・テイラーという婦人の講演に激しく心を揺さぶられた。彼女は中国宣教に携わっており、1900年に中国で起こった義和団事件の暴動により、多数の宣教師や信徒が殉教した様子を報告した。彼女は聴衆に問いかけた。「自ら喜んで一切を投げ出すことを妨げているものは何なのか」と。
  ヴォーリズは、一瞬まわりが真っ暗になり、テイラー夫人が自分だけに語りかけているような感覚に襲われた。次の瞬間、夫人の顔がキリストの顔に変わり、キリスト自らが壇上から彼に「お前はどうするつもりなのか」と尋ねているように感じた。建築家になりたいという自分の望みが、本来自分が担うべき道を妨げている。こんな思いが、彼の心にずしりと入り込んできたのである。一種の神秘体験であるが、この体験が彼の人生を決定した一大転機となった。生涯の目標が海外宣教へと変わってしまったのである。そして、迷うことなく建築家の夢を捨てて、哲学コースに転科してしまった。


近江八幡へ

  大学卒業後、YMCA(キリスト教青年会)に主事補としてつとめていた時、彼はSVM本部に海外宣教の志願書を提出した。しばらくしてSVM本部から、「日本の学校が英語教師を求めている」という返答の手紙が届いた。日本行きが決まった。
  1905年1月10日、ヴォーリズはサンフランシスコを出発し、1月29日に横浜港に到着。2月2日には近江八幡駅に降り立っていた。列車を降りて、彼は呆然と立ちつくしてしまった。駅の周囲は旅館や民家数軒があるばかりで、ほとんど田畑ばかりであったからだ。この日の日記に「ホームシック、寒い、頭痛がする、寂しい、しかももうここに来てしまったのだ!」と書いた。誰一人知り合いのいない、異境の地に赴いた24歳の青年の孤独な気持ちが伝わってくる。
  ヴォーリズが赴任したのは、滋賀県立商業学校(現在は県立八幡商業高等学校)。彼は生徒の中に積極的に溶け込む努力を惜しまなかった。放課後、生徒と散策したり、テニスをしたり、さらに夜は彼の下宿でバイブルクラスを開催した。彼のバイブルクラスには、常時50名前後の参加者があり、多い時には百人を越えた。学生数が、3百人ほどであったから、3分の1ほどの生徒が、彼のバイブルクラスに参加したことになる。さらに洗礼を受けた者も、着任1年間で19名にも達し、8ヶ月後の10月には、県立商業学校YMCAを発会するに及んだことは、驚異的なことであった。
  仏教徒を中心とする反対派勢力は、それを座視していたわけでなかった。彼らはYMCAに対抗して仏教青年会(YMBA)を発足させ、ヴォーリズ解任に向けて動き出したのである。キリスト教排斥を叫ぶ生徒らによるクリスチャン生徒への暴行事件も頻発した。憂慮した県当局は、バイブルクラスを閉鎖するならば、在職の継続を斡旋すると言ってきた。しかし、彼は英語教師になるために来日したのではない。これは論外の申し出だった。
  1907年3月、ついに解雇。しかし、彼は近江八幡の地を離れようとはしなかった。ここに来たのは、天命によると考えていたからである。


近江ミッションの展開

  ヴォーリズの解雇により、近江ミッションと呼ぶべき彼の活動が新しい局面を迎えることになる。手始めに、「ヴォーリズ建築事務所」を開設した。いったんは捨てた建築家の道が、こういう形で彼のもとに戻ってきたのである。関西学院大学、神戸女学院、東京の山の上ホテルなど、彼は日本全土に千数百ほどの建築物を残すことになった。
  「近江兄弟社」の前身「ヴォーリズ合名会社」を設立したのも、1910年のこと。近江兄弟社は、後に塗り薬メンソレータムの輸入販売を手がけることで、広く知られることになった。そのきっかけは、メンソレータムを発明したアメリカ人実業家、A・A・ハイドとの出会いに始まる。ハイドは、「生涯の美しさは、彼の富から生ずるのではなく、彼の奉仕から生ずるのである」という信念を持った人物で、ヴォーリズの活動を助けるため、メンソレータムの代理店の話を持ちかけてきたのである。
  さらに、1918年にはヴォーリズは近江療養院(現ヴォーリズ記念病院)を開設した。当時、死の病とされた肺結核絶滅への情熱が結実したものである。直接のきっかけは、比叡山の修行僧であった遠藤観隆の死による。彼は仏教を捨て、近江ミッションに身を投じたものの結核を患い、ヴォーリズの看病の甲斐なく、永眠してしまった。これに衝撃を受けたヴォーリズは療養院の開設を急いだのである。
  近江八幡の地に「近江ミッション文化」と呼ぶべき文化が花開いたのは、この地に必要なものを提供しようとひたむきに取り組んできた、一連の活動の結果であった。近江の人々のため、彼の持てる全てを投入し、提供し続けたのである。


日本への帰化

  1919年、ヴォーリズは、華族(爵位を持った貴族階級)出身の一柳満喜子と結婚した。この結婚で近江ミッションは新たな展開を見せることになる。満喜子はアメリカに9年間留学していた才媛で教育に並々ならぬ情熱を抱いていた。特に幼児教育の必要性を感じて、清友園幼稚園を設立。今日の近江兄弟社学園(幼稚園、保育園、小学校、中学校、高等学校)の走りとなった。
 ヴォーリズが帰化を考え始めたのは、満喜子との結婚からであった。正式に日本国籍を取得したのは、1941年1月24日。妻の籍に入ることで、日本人「一柳米来留」が誕生した。米国国籍喪失証明が届いたのは、その年の12月6日、日米開戦の2日前のことである。帰化に至った理由を彼は、「日本を愛するからだ」と語っている。「日本人の心の美しさに感動し、彼らとの温かい交流を持てたこと。これらは、天国に比すべき幸福だった」とさえ述べているのである。
  愛は受けるだけではなく、お返しすべきもの。こんな信念の持ち主であったヴォーリズの出した結論は、「日本から受けた恩に対し、お返しすべきものは、自分自身以外にない」と言って、帰化に踏み切ったのである。時は、日米開戦目前。「愛する日本の国民、国家と艱難を共にするため、あえてこの時期に帰化することを決めた」のである。


「死んでもいい御用」

  日本人になったとはいえ、戦時中は敵性人と見られ、ヴォーリズは憲兵の監視下に置かれ、辛い日々を過ごさざるを得なかった。1945年8月15日正午、昭和天皇の「終戦の詔勅」がラジオ放送で流された。それを聞き、深い感銘を受けたヴォーリズは、その日の日記に、「彼(昭和天皇)は、その崇高な理想のために惜しみなく自分を犠牲にする用意ができている」と書いた。キリストの犠牲的精神とダブらせて受け止めたのである。
  ヴォーリズは、終戦を迎えるやいなや、日本再建のために動き始めた。まず内閣に手紙を書き、国際平和相を設けるべきことを提言した。日本が世界的な平和運動のために貢献する時が来たと考えたからだ。また近衛文麿元首相からの依頼で、近衛とマッカーサー元帥(占領軍の最高司令長官)との会見の実現に奔走し、さらに天皇の「人間宣言」(1946年1月1日)の草案作りに尽力した。天皇を守るためである。天皇を戦争犯罪人として裁こうとする米議会勢力は、「天皇の神格化」を問題にしていたからだ。
  これらの一連の仕事を彼は「死んでもいい御用である」と語り、国家の再建に取り組む覚悟を固めていた。愛国心の発露からである。こうした貢献のゆえに、天皇との謁見を許されたヴォーリズは、「陛下は私の君主であると共に、私の兄弟であることを知った」と語っている。日本人として、またキリスト者として、彼の偽らざる気持ちだったのだろう。
  蜘蛛膜下出血で倒れて長い闘病生活の末、1964年5月7日、ついに天に召される時が来た。来日して59年、数多くの艱難辛苦にあいながらも、近江八幡の土と化すまで、この地を離れることはなかった。ここが神の命じた任地であるという自覚を終生持ち続けていたからである。一伝道師として来日した米国人メレル・ヴォーリズは、日本人キリスト者一柳米来留として、83年間の生涯を終えた。近江八幡のため、日本のため、自分の全てを捧げ尽くしたその生き方は、「真の国際人」として、高く評価されている。



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