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加藤 明 
(かとう あきら)

ペルーの国民的英雄に 

女子バレーボールを指導   日本式猛特訓を課す

 ペルーの女子バレーボールの黄金時代を築いた加藤明は、ペルーの国民的英雄であった。彼は、若い女子選手たちを師として、父として、時には友として愛した。だからこそ選手たちは明を父のように慕い、尊敬し、その訓練に耐えた。彼はペルーを愛し、ペルーの人々から愛され、ペルーの地で死んだ。


南米最強のチームに


 1967年4月、ブラジルのサントスでバレーボールの南米選手権が開催された。全ペルー選抜女子チームの評価は高くはなかった。おそらくブラジルには勝てないだろう。誰もがそう予想していた。しかし、蓋を開けてみると予想外の展開だった。回転レシーブをこなしている。これまで日本選手しかやれないはずだった。木の葉落としと呼ばれたサーブ。ストンと落ちた。二人の褐色のスパイカーが打つ球は強烈だった。誰もが驚嘆し、狼狽した。これまで南米では見たこともないバレーボールが目の前で展開しているのである。



加藤明写真gl

写真提供:月刊バレーボール

 誰もが信じられないことが起こった。強敵ブラジルをペルーの弱小チームが打ち破り、優勝してしまった。ブラジルに勝った瞬間、選手たちはコート中央で輪を作り、肩を寄せ合って泣き出した。これまで一度も勝てなかったブラジルを、しかも敵地で破り、優勝したのである。会場は大騒ぎになった。ペルー人はもちろん、他の国の観客も選手たちも入り乱れて、泣きじゃくるペルーの選手たちの肩を叩き、抱いて頬ずりして祝福した。

 ペルーの応援団は、一人の日本人をつかまえ、彼を肩車して、「アキラ!アキラ!」の歓声の中、会場を回り出した。全ペルー女子選抜チームのコーチ加藤明であった。ペルーから招請を受けて、わずか2年で南米最強のチームにした最大功労者である。彼はペルーの女子バレーボールの黄金時代を築き、ペルーの国民的英雄となった最初の外国人であった。



天才プレーヤー


 加藤明は神奈川県小田原市で、1932年11月3日に生まれた。幸太郎とたけの間に生まれた9人兄妹の末っ子だったこともあり、両親はほとんど溺愛した。父の仕事は物差屋で、この地方では資産家の一人と数えられていた。明は、美しい海と自然環境の中、両親の愛をたっぷり受け、明るく屈託がなく、自然児のように育っていった。

 小学校3年の時、大きな事故が起きてしまった。ローラースケートの最中、転倒して左肘を骨折。緊急手術をしたものの、医師から「左腕が完全に元に戻るのは難しい」と告げられた。両親は最愛の息子を不具から救う決心をした。箸を左手に持たせ、字も左手で書かせたという。明の人生で、この事故の持つ意味は決して小さくない。もともと右利きだった明は、左手も同じように使えるようになった。どこに球が来ても、その球に近い方の腕を使って楽にスパイクできる。攻撃力が格段にアップするのである。

 バレーボール選手としての明の人生は実に輝かしい。高校のバレーボール部で、主に前衛のセンター(9人制)をつとめていた彼は、アタッカーに球を回すかと思えば、後ろ向きで敵陣のコートに打ち込んでしまう。右手でやるかと思えば左手で。敵からすればまことに厄介な存在であった。両手を自由に使えたからである。彼が入学した慶応大学のバレーボール部は、向かうところ敵なしと言われたほどの史上最強のチームであり、そのフォワードには、いつも明がいた。入社した八幡製鉄の実業団チームでも、明はその黄金時代の一翼を担い、「八幡に加藤あり」と言われた。スター選手となっていたのである。



ペルーへ


 1960年に現役を引退した明は、八幡製鉄の東京本社で勤務しながら、請われて母校の慶大バレーボール部の監督を引き受けた。ペルー行きの話が飛び込んできたのは、慶大のチームを大学日本一へと導き、監督の位置を後任に譲った直後のことだった。

 東京オリンピックで、ホセ・ペセット氏(ペルー・バレーボール協会長)は「東洋の魔女」と言われた日本女子バレーボールの優勝に強烈な刺激を受けた。「日本から是非、指導者がほしい」との要請に、白羽の矢が立ったのが加藤明だった。聞くところによると、ペルーのバレーボールのレベルはゼロに等しいという。しかし、ゼロのチームであればこそ、育て甲斐があるというものだ。それに日本人が国際コーチになれるかどうかの試金石でもあった。 明はペルーの要請を受けることにした。会社には2年間の休職を申し入れて、首都リマに渡ったのは1965年5月のことである。この時、32歳であった。

 全ペルー選抜チームの練習を見て、「これはえらいチームを引き受けてしまった」と思った。基本ができていない。サーブもレシーブもスパイクもまるで未熟。これじゃ勝てるはずがない。しかし、考えを変えれば白紙のほうがチーム作りには好都合。思う存分、自分色に染め上げることができる。明はぞくぞくするような興奮を覚えたという。

 明が真っ先に取り組まなければならないことは、素質ある選手を探し出すことだった。今は下手くそでもいい。球に対するカンがあって、鍛えれば伸びる10代半ばの若い娘。明がペルーに来て1ヶ月も経たない6月1日には、新人と古顔を集め練習を開始した。



猛特訓


 明の猛特訓が始まった。練習時間は1日5時間。週5日の練習を課せば2年である程度のレベルに到達できると明は考えていた。まずは体作り。ランニングと柔軟体操。それとジャンプ力をつけるためのウサギ跳び。トスを上げる手首を鍛えるために指立て伏せ。こうした日本式猛特訓を課した。教えることは山ほどある。パス、スパイク、サーブ。そして回転レシーブ。選手たちはこれを日本式転倒と呼び、この練習を嫌がり恐れた。顔には傷ができ、腕や腰にも青アザをこしらえるのだから無理もない。

 こんな練習に反旗を翻す者も現れた。特に古顔の選手たちの中には、荷物をまとめて脱落する者も出てきた。個人主義的生き方が強いペルー人に対し日本式絶対服従を要求し、練習に来る時の化粧すら禁止したのだから、脱落者が出るのは当然であった。18人いたメンバーがわずか10人にまで減ってしまった。新聞各社は「非人道的練習を強要」と見出しを付け、「女性への東洋的な残酷な仕打ち」と非難した。明が道を歩くと、石が飛んでくることもあったという。ペルー国民の敵になったかのようだった。

 しかし、明の元に残った者たちの間には、強い親近感と連帯感が生まれたのも事実だった。練習中は鬼となって怒声を浴びせたが、練習後は日本料理屋などに連れて行ってご馳走した。そこで「上を向いて歩こう」の歌なども教えた。その上、明は礼儀作法にうるさかった。挨拶の仕方など、日本流の礼儀作法を叩き込んだ。その結果、彼女たちの立ち振る舞いは、日本の娘と似てきたと言われることもあったという。明は娘たちの師匠であるばかりでなく、友であり、父でもあった。チームはさながらアキラ一家であった。

 そして明がペルーに来て2年後、冒頭に述べたとおり、ついに王者ブラジルを倒し念願の南米一に輝くのである。明をあれだけ叩いた新聞は、明を写真入りで称賛し、スター扱いするようになった。さらに、その1年後のメキシコ五輪では、アメリカを破り4位入賞を果たした。メダルには一歩及ばなかったものの、僅差であった。強敵アメリカを破ったことで、ペルーは新大陸(南北米)の王者となったのである。



明の死


 世界のバレーボール界で、加藤明の名は一躍有名になり、各国から選抜バレーボールチームの監督就任の依頼が届いていた。「私たちを見捨てないで」と泣きすがる娘たちを前に後ろ髪を引かれる思いで、ペルーを去った。ブラジルに渡り、西ドイツに渡った。しかし、それらの国には明の居場所はなかった。ブラジルや西ドイツで受け入れられず、失意の中にいた明を受け入れたのはペルーであった。ペルーのバレーボール協会からは折にふれ、いつでも喜んで迎えると要請が来ていたのである。

 ペルーは彼を忘れていなかった。彼の心も常にペルーにあった。この時ほど、嬉しいことはなかったと後に彼は述懐している。1973年4月、彼はペルーに戻った。病魔が明を襲ったのは、その1年半後のことである。右脇腹に激痛が走り、発熱までおこし倒れてしまった。診断結果は肝炎、肝臓の機能が低下していた。選抜チームの監督は更迭。病と闘いながら、ジュニアチームの監督として若手選手の育成に力を尽くすことになる。

 肝炎が急激に悪化したのは1982年3月初旬。肝機能不全と診断され、大量の輸血が必要となった。新聞、テレビは大々的に明の入院を伝えた。「アキラに血を!」の新聞を見たおびただしい数のペルー国民が病院に押しかけ、献血を申し入れたという。

 3月20日、妻と教え子ビランチョの腕に抱かれて、明は静かに息を引き取った。49歳の若さであった。ほとんどの新聞はトップの大見出しで、明の死を報じた。「ペルーは泣いている」「バレーボールの最も偉大で美しいページが閉じられた」と。教え子たちは葬儀の場で、嗚咽しながら声を絞り出しながら語った。「父の死よりももっと辛い。アキラは私たちには、父よりも偉大な、人生の師にあたる人でしたから」。参列者の列は途切れることがなかった。朝10時に始まった式は、6時間経ってもまだ続いていた。

 午後4時になって、ようやく棺に釘が打たれる時、教え子の一人が弔辞を読んだ。「あなたの生徒であり、娘だった私たちは、いつまでもあなたを忘れません」。読む声は涙で途切れがちだった。選手たちは皆泣いていた。弔辞が終わると、選手たちの間から誰が歌い出すともなく歌声が起きた。「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思い出す 春の日 ひとりぼっちの夜」。明が教えてくれた日本の歌「上を向いて歩こう」であった。

 明はリマ市郊外のアンヘル墓地に葬られた。そこは国のために功績があった重要人物だけが葬られる特別な墓地であった。


 

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