森永 太一郎
(もりなが たいちろう)
洋菓子界のパイオニア
12年に及ぶアメリカ生活 キリスト教に帰依して
足かけ12年間に及ぶアメリカでの修業生活の末、森永太一郎は洋菓子職人となり、熱心なキリスト教徒となって帰国した。意気込んで渡米したものの、挫折の連続。自殺まで考えたどん底の中で、彼は洋菓子と出会い、我が国の洋菓子界のパイオニアとなった。安倍晋三首相の昭恵夫人は、曾孫に当たる。
孤児同然
森永太一郎は森永製菓の創業者であり、我が国の洋菓子界のパイオニアである。若くして単身渡米し、苦難と挫折の中、超人的な努力の末に勝ち得た栄光であった。波乱に満ちた彼の生涯は、6歳の時に運命づけられた。
太一郎は1865年6月7日、肥前国(佐賀県)の伊万里に森永常次郎、キクの長男として生まれた。祖父の太兵衛は、有田焼(伊万里焼)の陶器問屋を営み、伊万里一の豪商と言われた。しかし、父常次郎は幕末から明治維新の激動の波に翻弄され、莫大な借金を抱えたまま病没。太一郎は6歳にして人生最初の悲劇に見舞われた。1年後に再婚した母キクは、嫁ぎ先の事情で太一郎を祖母(キクの母)に預けて、家を出なければならなかった。孤児同然となった太一郎を育てたのは、祖母の力武チカであった。
力武家にばかり迷惑をかけるわけにはいかないと親戚筋が相談し、ほぼ半年交代で太一郎を引き取ることになった。親戚を転々とする中、太一郎の心はだんだんねじれていった。そんな彼を常に温かく、受け入れてくれたのは、祖母のチカであった。太一郎が、どんな困難にもくじけない強い精神力の持ち主に鍛え上げられたのは、幼い頃からの苦労体験と祖母の慈愛の故であることは間違いない。
商人道
太一郎が11歳になろうとしていた頃、叔父である山崎文左衛門が営む陶器問屋で、その仕事を手伝うことになった。この叔父は太一郎に商人道を叩き込んだのである。「正当な商品だけを扱い、粗末な品物は扱わないこと。正当と信じてつけた値段は、何と言われようと下げないこと」など。太一郎は生涯、この叔父の教えを守り抜いた。
文左衛門の訓育は峻烈を極めたものだった。他の店員なら大目に見るような失敗でも、叔父は許さず、太一郎を厳しく叱責した。しかし、幼い頃から親戚を転々とさせられた太一郎は、人の心を見抜ける少年に育っていた。叔父の厳しい指導が、自分への愛情の表れであることを充分に理解したのである。太一郎は終生、この文左衛門に深い敬愛の念を寄せ、晩年故郷に文左衛門の顕彰碑を建てることで、その恩に報いたのである。
18歳になった頃、叔父から太一郎に横浜行きの話があった。伊万里の陶器問屋仲間が、共同出資で有田屋という店を出すという。その店長の森川源治を支えて店をもり立てて欲しいという。願ってもないことであった。いずれ自分の店を持ちたいと思っていたので、有田屋で働くことが、その準備になるはずだ。彼は意気揚々と横浜に向かったものの、時期が悪かった。大蔵卿松方正義のデフレ政策により、深刻な不況に襲われ、伊万里の陶器問屋も有田屋から手を引いてしまった。店長の森川も夜逃げをする始末であった。
アメリカで菓子職人に
有田屋倒産という危機の中で、太一郎を雇い入れてくれたのが九谷焼の商店。しかし経営は不安定である。太一郎はここで、とんでもない決断をする。自らアメリカに乗り込み、九谷焼を売りさばこうというのである。
サンフランシスコに向けて横浜港を発ったのは、1888年7月。23歳の太一郎はその頃すでに結婚しており、妻子を妻の実家に預けての旅立ちとなった。彼のアメリカ滞在はなんと足かけ12年に及んでしまった。九谷焼の販売は甘くなく、ただ借金を背負い込む結果に終わっただけだった。深い挫折感に襲われ、自殺すら考えたという。何か技術を身につけ、借金返済を続けるしかない。太一郎の悩みは深かった。
鬱屈した思いで、公園のベンチで腰を下ろしたある日の午後、一人の老婦人が軽く会釈をして太一郎の隣りに腰掛けた。婦人はおもむろにハンドバックからキャンデーを取り出し、「プリーズ」と言って彼に差し出した。「サンキュー、マム」。素直に婦人の好意を受け入れ、キャンデーを頬ばった瞬間、「うまい!」と思わず叫んだ。とろりとした甘味が口いっぱいに広がった。こんなに美味しい菓子を日本では食べたことがない。「よし、洋菓子職人になろう」と決意したのは、まさにこの時だった。
しかし、当時のアメリカは人種差別の国。劣等人種と見なされていた日本人がなれるのは、召使いか、農場労働者、良くてホテルのコック。菓子職人など、夢のまた夢だった。しかし太一郎は諦めなかった。職を転々としながらチャンスをうかがい、ついにその時が来た。ジョンソン・ベーカリーの雑役夫として働いていた時である。パン焼きのチーフのネルソンが、太一郎の働きぶりを評価して、ネルソンの部下として働くことが認められたのである。洋菓子職人になると決めて、4年の歳月が流れていた。
太一郎の仕事ぶりに目をつけたケーキ工場のウイリアム職長は、「あの男は見どころがある。みっちり仕込んでやりたい」と申し出てくれた。こうして念願のケーキ職人への第一歩を踏み出したのである。その後、プルーニング・キャンデーストアで、キャンデー、アイスクリームの製法を学び、プルーニングから「これ以上、君に教えることは何もない」と言われるほど、一人前の洋菓子職人に成長した。
洗礼
米国滞在でのもう一つの収穫がキリスト教だった。オークランドのダニング家に家事手伝いの仕事を紹介されて行った時のこと。玄関に現れた老婦人を見て驚いた。なんと公園でキャンデーを恵んでくれた婦人ではないか。ダニング夫人も太一郎を覚えていて、再会を喜んだ。ダニング夫妻は、朝夕の祈りを欠かさない敬虔なクリスチャンだった。太一郎は、この夫妻の姿から大きな感化を受け、ついに洗礼を受けるまでになるのである。
洗礼を受けたその夜、自室で祈っていると天から荘厳な声が聞こえてきたという。「愛する太一郎よ、汝の名は天にある生命の書に書き入れられた」と。体が小刻みに震え、目から溢れる涙が床を濡らした。生まれ変わりを感じた瞬間だったのである。
この体験は、洋菓子職人になる夢を捨てさせるほど強烈なものだった。彼は一時、帰国したのも、キリストの教えを日本人に伝えようとしたためだった。しかし、叔父の文左衛門に諭され、「まだ人を救う資格はない」と悟り、洋菓子修業のため再度渡米したといういきさつがあった。伝道師にはなれなかったものの、キリスト教の教えは彼の心の深いところにしっかりと根を下ろしていた。アメリカの同僚から「ジャップ」と言われて蔑まれても、聖書の言葉「汝の敵を隣人のごとく愛せよ」を唱えることで自分の心を静めることができた。キリスト教なしに後の大実業家森永太一郎はあり得なかったであろう。
宮内庁御用達で飛躍
1899年夏に帰国し、東京の赤坂溜池に「森永西洋菓子製造所」(後の森永製菓)の看板を掲げたが、決して順風満帆とはいかなかった。懸命な売り込みにもかかわらず、どこの菓子屋も和菓子が専門で、洋菓子には実に冷淡だった。無理もない。日本人の舌に洋菓子はまだ馴染みがなかったのである。しかし、遅かれ早かれ、必ず自分の洋菓子が日本人から歓迎される時が来る。この信念は揺らぐことがなかった。人力車を改造して、ガラス張りにした箱車に洋菓子を陳列して、市街を練り歩き、宣伝活動に力を入れた。
転機となったのは、帰国1年半で宮内省御用達になったことである。1900年の大晦日、天皇皇后両陛下に召し上がっていただくため、太一郎は身を浄めて、工場に籠もった。数種類の洋菓子を作り上げ、年が明けた元旦に宮内庁に届けた。晴れ晴れしい20世紀の幕開けとなった。森永の信用と知名度は飛躍的に高まったことは言うまでもない。
1923年9月1日、関東大震災が発生。首都圏は壊滅的状況に陥った。幸い、森永製菓の被害は軽微で、千数百人の従業員は全員無事だと連絡が入った。太一郎の行動は速かった。「当社は、全力で被災者を救済する」と通達し、手持ちのビスケット、コンデンスミルク等を罹災者に寄附することを決めた。
召集された従業員は、ビスケットとキャンデーの袋詰めを6万個作り、ミルクキャラメル10万箱をトラック8台に積んで、罹災者に配った。また、工場の前では、井戸水でコンデンスミルクを溶かして通行人に配った。さらに新聞に「乳飲み子または病人でお困りの方へ 森永ミルクを差し上げますから、ご遠慮なくおいで下さい」と出すほどの徹底ぶり。常日頃、「困っている人は助けよ」と言っていた太一郎は、その言葉通り、未曾有の国難に際し、自ら陣頭指揮を執って全社を挙げて救済活動に取り組んだのである。
70歳の古稀を迎え、周囲に「神の僕としての余生を送りたい」と語り、社長を退いた。自分の体調を考えると残された人生の時間は、そう長くはない。太一郎は、伝道師として人生の最期を迎えたかったのである。こうして、彼の全国行脚が始まった。各地を回り、社長退任の挨拶を終えた夜、必ず教会の壇上に立ち、神の愛を説くのであった。体調を気遣う社員に対し、「伝道のために倒れるならば本望だ」と言い、耳を貸そうとしなかった。
1937年1月19日の夕方、自宅で便所に立った時、大きくバランスを崩し、大量の血を吐いた。死を覚悟した太一郎は周囲に永別の言葉を口にし、一人になると賛美歌を歌った。「主よ、みもとに近づかん のぼる道は十字架に ありともなど 悲しむべき 主よ みもとに近づかん」。最も愛した賛美歌だった。1月24日午後9時30分、家族に見守られて、太一郎は71年間の波乱に満ちた生涯に幕を下ろした。
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