杉山龍丸 
(すぎやまたつまる) 

インドのグリーン・ファザー 
砂漠化を防ぐ方法は植林  祖父の夢をインドで実現 

 現在、世界では年間約6百万ヘクタールの土地が砂漠化している。温暖化が進むと砂漠化のスピードがさらに加速すると言われている。この砂漠化をくい止めるために立ち上がった男が、杉山龍丸である。インドでは、彼は「グリーン・ファザー」と呼ばれ、今でも尊敬を集めている。

杉山龍丸


砂漠を緑化

 インドの北方、デリーからアムリッツァル(パンジャーブ州)を走る国際道路に沿って、緑のユーカリの木がうっそうと生い茂っている。470キロにも及ぶという。このあたりは、もともと砂漠地帯。ここを緑に変えた人物が杉山龍丸である。彼は砂漠を緑化したばかりではなく、この荒野を肥沃の大地に変えてしまった。パンジャーブ州は、いまやインド一の穀倉地帯となり、杉山龍丸は、インドでは敬愛の念を込めて「グリーン・ファザー」と呼ばれているのである。
 1919年に誕生した杉山龍丸は、3歳頃から祖父が起こした杉山農園で鋤を手にしていた。祖父の名は杉山茂丸。伊藤博文らと親交を結んでいた政財界の黒幕的存在である。茂丸は、「これからは、アジアの時代だ」と言い、福岡県の香椎の地に4万坪(約13万平方メートル)の土地を購入し、大農場を作り上げてしまった。アジア各国が独立した後、若き農業指導者が必要となると考え、その養成のために作ったものであった。龍丸は、そこで祖父や父から農業の大切さを教え込まれながら育ったのである。


祖父と父の死

 1935年7月、祖父の茂丸が脳溢血で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。その翌年の3月、父の泰道が祖父と同じ脳溢血で倒れ、47歳の若さで命を落とした。17歳になったばかりの龍丸は、敬愛する祖父と父を失ってしまったのである。孤独に打ちのめされた龍丸は、満たされない思いを抱えながら、何かに自分をぶつけたいという衝動に駆られるようになる。彼は軍人になることで、寂しい心を埋めようとした。中学卒業後、陸軍士官学校に入り、その後、陸軍航空技術学校で学び、軍人の道を歩み始めるのである。
 飛行整備隊長として、満州、東南アジアでの戦闘に参加したものの、戦争経験は彼の心の傷をかえって大きくしてしまった。フィリピン基地の整備隊長として、特攻隊を送り出した愚かさ、命の尊さを踏みにじった日本軍の愚かさ。これらを彼は、戦後「幻の戦闘機隊」という手記に書きつづった。「これを書かないと死ねない」と言って、夜遅くまで涙を流しながら書き続けていたという。
 戦後、龍丸は厚生省援護局で、元兵士の死亡記録を留守家族に知らせる仕事に当たっていた。ある日のこと、小学校2年生の少女がやってきた。聞いてみると、父親がフィリピンに出征したという。母は病気で死に、家には祖父と祖母がいるが、二人とも病気なので、その少女が父の安否を確認するためにやってきたのであった。調べてみると、父親は戦死していた。「あなたのお父さんは、戦死しています」。それ以上、声が続かなかった。
 一瞬、少女は目にいっぱい涙を貯めたが、必死にこらえている。それを見ている龍丸の方が、こらえきれなくなって、目から涙があふれ出てきた。少女は言った。「おじいちゃんに言われたの。泣いてはいけないって。あたし妹が二人いるの。お母さんも死んだ。だから、あたしがしっかりしなければならないんだって」。死亡の知らせは、伝えられる側はもちろんのことであるが、伝える方も辛く苦しいものであった。戦争は龍丸にとって辛い体験ではあったが、人間愛に目覚める契機となったことは間違いない。


インドとの関わり

 インドとの関わりは突然おとずれた。杉山農園に戻っていた龍丸が、生活の糧を獲るため、上京し秋葉原でプラスチック製品の販売店を開いていたときのことである。雑踏の中を歩いていた時、一人の見知らぬ僧侶に呼び止められた。よく見ると、陸軍士官学校の同級生佐藤幸雄である。彼は一人のインドの青年を連れていた。
 話を聞いてみると、戦後彼は僧侶となり、インドを解放しようと立ち上がったガンジーに共鳴し、農業開発の分野でガンジーを助けたいのだと言う。一緒にいた青年は、ガンジーの弟子であった。このことが機縁となって、龍丸の所に、しばしばガンジーの弟子たちがインドから訪ねてくるようになった。彼らは龍丸の紹介で陶器や和紙の伝統工芸を学び、あるいは農業技術を身につけて帰っていった。
 1961年11月、龍丸はガンジーの弟子たちによる「サルボダヤ・サンメラン(全ては立ち上がる)」大会に招かれて、はじめてインドに渡った。この時、デカン高原のワルダ地方にあるガンジー塾(ガンジーの住居、仕事場、治療施設)を訪ねた。ガンジーが毎日祈った菩提樹の木の下で、ひざまずき祈ってみると、生きたガンジーがそこにいるように感じられ、龍丸は感動に身を震わせた。ガンジーの弟子になりたいとすら思ったのである。龍丸のインドへの愛の始まりだった。
 その旅の12月、龍丸はインド北部のパンジャーブ州の総督ピラト氏に招かれた。ピラト氏は「インドを豊かにするには、どうしたらいいか」を尋ねたかったのだ。龍丸は、インドに来て感じた点を率直に語った。インドの歴代の文明は森林をことごとく伐採してきた。それを燃料にして煉瓦を作り、建造物を建てるためであった。その結果、森林がなくなり、大地の水が枯渇し、地面は砂漠と化してしまった。
 こう指摘し、彼は「今、インドに必要なのは植林です。ユーカリの木を植えるべきです」と提案した。ユーカリは根が深く伸び、乾燥している土地の底に流れる水を吸収する。しかも生命力に溢れ、成長が早い。この土地には、打って付けの木であった。
 身を乗り出して聞き入っていたピラト氏に龍丸は、デリーからアムリッツァル市まで走る国際道路沿いにユーカリを植えたらどうかと提案した。ユーカリの根は地下に水を溜める能力を持つ。そうなれば、穀物や野菜なども育てることができるのだ。ピラト氏はこの提案に飛びついた。さっそく事業化に着手し、龍丸にその指導をお願いしたのである。


ユーカリの奇跡

 龍丸が半年間のインド旅行を終えて帰国した翌年(1963年)、「インドで大飢饉発生」のニュースが飛び込んできた。雨が降らず、大地が渇き、作物が取れない。こんな日々が以後3年も続き、5百万人もの餓死者が出てしまった。それを座視するわけにはいかない。彼の決断は早かった。手元には資金はないが、祖父や父が残してくれた杉山農園の土地4万坪がある。この土地を切り売りして資金を作ればよい。この決断に何のためらいもなかった。アジアを救おうとして祖父が切り開いた農園である。それがアジアの砂漠化を防ぐ緑の大地として蘇るのである。 
 ちょうどその頃、パンジャーブ州から朗報が届いた。ユーカリの苗作りに成功したという。暗黒の中の一縷の光であった。意を強くした龍丸は、再びインドへと旅立った。彼が提案したユーカリの植林事業は、少しずつではあるが、着実に実を結びつつあった。国際道路沿いに植えたユーカリの木は見事に成長し、その土地にも変化が生じていた。予想通り周囲に水が蓄えられ、作物が育つ地質に変化していたのである。
 このことは、1973年に宇宙衛星が写した写真から、はっきりと確かめられる。ユーカリを植えた地域の砂漠は緑と化し、その地域のワジ(枯れた河)はなくなり、水を湛えていた。ユーカリが砂漠に水を取り込んだのである。今では、パンジャーブ州は、インド一の穀倉地帯となったのである。まさにユーカリの奇跡であった。


土砂の崩落を止める

 龍丸のインドへの貢献は、ユーカリの植林だけではない。インドのヒマラヤ山脈に続くシュワリック・レンジ(丘陵)で、大規模な土砂崩落が起きていた。日本列島よりも長い、3千キロに及ぶ砂漠の丘が崩れている。ひとたび集中豪雨があると、土砂が一気に押し寄せ、麓の村々を破壊し尽くした。世界の著名な学者たちも見捨てた土砂崩落に、龍丸は一人で立ち向かったのである。彼は砂漠地帯に生えているサダバールという木を採ってきて、砂漠の斜面に挿し木をした。そして、これが根をはったところにユーカリを植えていく。
 連日、こんな地道な作業を続けた結果、今やあのシュワリック・レンジには、目を見張るばかりの緑の木々が生い茂り、その木々が土砂の崩落をくい止めているのである。砂漠化の原因は、森を伐採し尽くした結果であり、それを防ぐには植林しかないという龍丸の持論は、ここでも実証された。インドの人々は、龍丸がもたらした緑の奇跡に驚き、感動し、そして、惜しみない拍手を彼に送った。龍丸は生前、「私の事業の中で、一番嬉しかったのは、シュワリックの土砂崩れの克服だった」と語っている。


世界の砂漠を緑に

 龍丸のインドでの植林事業は、文字通り身を削る戦いだった。4万坪あった杉山農園は全て売り払い、家も売って借家住まい。資産のほとんどを植林事業につぎ込んでいた。1984年、オーストラリアで開かれた国際砂漠会議があった際、インドでの緑化事業の成功を報告するチャンスが与えられた。しかし、参加する費用が工面できないほど、家計は逼迫していた。
 政府の対応は実に冷淡だった。「役人でも学者でもない一民間人が国際会議に出席するのは辞めてほしい」という。友人が協力してくれなければ、偉大な業績を発表することすらかなわなかったのである。この会議で、彼は植林によって砂漠地帯に緑が回復した事実を衛星写真を使って報告し、各国の学者の称賛を浴びた。
 インドと日本を行き来し、心身をすり減らした龍丸は、祖父、父を襲った同じ脳溢血で倒れてしまった。2年2ヶ月の闘病生活の末、1988年9月20日、69歳の龍丸はついに帰らぬ人となった。病床にありながら息子の前で、下唇が切れるほどの強さで噛みしめて泣いた。息子の目には、「悔しい」と叫んでいるように見えたという。もっと長く生きて、砂漠の緑化をやり遂げたかった。そんな無念な気持ちだったのであろう。
 龍丸の最終目的は、地球の全ての砂漠を緑に変えることだった。その壮大な夢は果たせなかったが、緑の尊さをインドの人々の中に育てることに成功した。4万坪の杉山農園は、今やインドで緑の大地として蘇り、杉山龍丸の名はインドの人々の中に「グリーン・ファザー」として永遠に生きている。

  


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