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石井筆子


石井筆子 
(いしいふでこ) 

石井筆子


知的障害児に捧げた生涯 
苛酷な試練を乗り越えて  明治期屈指の才女で国際人 

  明治時代の才女・石井筆子は、フランス留学を経験した国際人。日本女性の自立のため、女子教育の必要性を自覚して帰国した。しかし、最終的に彼女の選んだ道は、知的障害児教育。当時、顧みられることがなかった分野である。彼女を次々と襲う不幸が、劇的な出会いをもたらしたのである。

日本最古の福祉施設

  東京都国立市に、滝乃川学園という日本最古の知的障害者のための福祉施設がある。明治時代に石井亮一によって創立されたもので、その妻となり、その仕事を支え続けた女性が、今回の主人公石井筆子である。彼女は、幾多の困難を乗り越えて、亮一亡き後も、この施設を守り通してきた。
  筆子は、家柄、才知、美貌に恵まれ、誰もが羨む女性であった。19歳でフランスに留学。フランス語、英語、オランダ語を自由に操る国際人でもあった。鹿鳴館(外国貴賓の接待所)の華ともてはやされ、大山捨松と人気を二分したという。その能力からすれば、研究者になることも、作家になることも可能であったろう。しかし、彼女が最終的に選んだ人生は、知的障害児のために一生を捧げる道であった。そして、その生涯は信じがたい不幸の連続であったのである。

フランス留学

  1861年4月27日、大村藩(現在の長崎県大村市)で渡辺清とゲンの間の長女として筆子が生まれた。父清はその弟昇と共に、大村藩の中堅的な武士で、早くから倒幕運動に目覚め、倒幕派の急先鋒として活躍していた。父は、西郷隆盛と勝海舟の「江戸無血開城の会談」に臨席を許され、この会談の様子を世に伝えた人物である。叔父の昇も、坂本龍馬を助けて、薩摩藩と長州藩の同盟に奔走した。筆子は、大村藩が生み出した二人の傑物を父と叔父に持っていたのである。
  明治新政府の官吏となった父は、1872年に家族を東京に呼び寄せた。11歳で東京生活が始まった筆子は、その翌年、日本最初の女子教育機関である東京女学校に学んだ。外国人を講師にする先駆的な教育が行われていたが、財政上の理由で廃校になってしまう。その後、筆子は語学力の向上を求めて、アメリカから来日していたウイリアム・ホイットニー家の英語塾、バイブル教室に通うようになる。早くから外国語と外国文化に触れた稀有な日本女性であった。
  1880年7月、19歳の筆子はフランスに向けて、横浜を出港した。上流階級の子女の教育者を養成するための留学であり、皇后陛下(天皇夫人)の強い推薦により筆子が選ばれた。国際的な見識とマナーを身に付けて帰国せよとのことであった。
  当時のフランスは、日本と比べてはるかに民主主義が充実していた。約2年弱の滞在で、筆子は自由、平等、博愛の人権思想を学んだ。人間の価値は、家柄、経歴、財力などで決まるのではない。こうした考えを新鮮な感動をもって受け止めていた。特にフランスの女子教育の充実には驚きを隠せなかった。さらに筆子を驚かせたのは、盲人や聾唖者に対する義務教育化の推進である。日本ではおよそ考えられないことであった。
  こうした女子教育、障害者教育の充実は、単に人権思想のゆえだけではない。むしろキリスト教会の活動に負うところが大きいと筆子は感じていた。修道院の多くは、附属女学校を持っていたし、修道士や信徒による慈善事業は社会の隅々まで浸透していた。都市の中心に常に教会があり、人々は日曜日に礼拝に参加する。文明国を底辺で支えている、こうした高尚な習慣に、筆子は深い共感を抱くようになっていた。

結婚と試練の日々

  留学を終え、帰国した筆子に待っていたものは結婚であった。彼女には、親同士が決めていたいいなずけがいた。大村藩で代々家老を務めていた小鹿島家の長男、小鹿島果である。幼少期から神童と言われた人物で、工部大学校(後の東京帝大)出身のエリート官僚。傍目には格好の良縁であった。
  しかし、筆子の心は複雑だった。フランスで自由と人権思想に目覚め、女子の自立を決意しての帰国であった。親が勝手に決めた結婚には、当然のことながら抵抗がある。気が進まぬままの結婚であった。ただ幸いだったのは、果が心優しい人物で、筆子のフランスで得た考えを十分理解できる進歩的な考えの持ち主であったことである。
  結婚して2年後、25歳の筆子に待望の長女が誕生。幸せを祈り、幸子と命名した。しかし、この子の誕生は、試練の人生の序章を告げるものであった。生まれつき虚弱体質で、幾度か生死の境をさまよった。そればかりではない。この子の反射神経の鈍さを心配した医師は、知的障害の可能性を示唆したのである。まだ、生まれて半年にも満たない可愛い盛りの赤ん坊である。あってはならないことであった。筆子は、全身から血の気が引いていくのを感じた。すがるような気持ちで、母子共にキリスト教の洗礼を受けたのは、その直後であった。心の支えが必要だったのである。
  幸子の成長は、筆子から希望を奪い取る過程でもあった。幸子の知恵遅れは疑い得ないものとなっていく。知的障害児の母は、恥とされ、蔑まれた時代である。まして栄光の中にいた筆子には、耐え難い試練のように感じられた。
  しかし、不幸はこれで終わらない。運命の神は、さらに苛酷な試練を彼女に与えた。幸子が4歳の時、次女の恵子が誕生後すぐ病死。翌年、三女の康子が誕生したが、やはり病弱で結核性脳膜炎を起こして知能と身体に障害を残した。三女誕生の翌年、傷心の筆子に追い打ちをかけるように、夫の果が肺結核で病に臥した。筆子の献身的な看病も空しく、夫は35歳の若さで帰らぬ人となる。筆子は31歳で寡婦となってしまったのである。それも二人の知的障害児を抱えて。

運命の出会い

  絶望と失意の闇の中に運命の出会いが待っていた。石井亮一との出会いである。亮一は、女子教育に情熱を燃やす若き教育者であった。1891年24歳で立教女学校の教頭に抜擢されていた時のこと。人生の転機が訪れた。濃尾平野(愛知県と岐阜県)にマグニチュード8を越える大地震が発生。死傷者2万9千人(死者7千人)、倒壊家屋28万戸という大惨事であった。
  とんでもない情報が亮一に飛び込んできた。親を失った多くの孤女が誘拐され、女郎屋に売られているという。クリスチャンであり、人一倍正義心の強かった亮一は、孤女たちを引き取る準備をして被災地に向かった。孤女を探し出し、十数人を引き連れて東京に戻ったのである。「滝乃川学園」の前身「孤女学院」の誕生であった。
  亮一の活動は、孤女救済で終わらなかった。たまたま孤女の中に知恵遅れの子がいたことが契機となり、知的障害児の教育に取り組もうとしていた。筆子が亮一に出会ったのは、ちょうどその頃である。亮一の孤女の救済活動に共感した筆子は、火の車の学院経営に少しでもお役に立ちたいと協力を始めたのであった。
  亮一から、知的障害児教育の計画を打ち明けられた時、筆子は驚きを禁じ得なかった。思わず自分の二人の娘のことを打ち明けてしまう。亮一は驚きながらも、きっぱりと言った。「私に預けてもらえませんか」。亮一の眩しいばかりのひたむきさと情熱。筆子は一縷の光が差し込んだような気持ちになった。亮一との運命の出会いであった。

二人三脚で学園運営

  1898年3月、長く病床にあった三女の康子が7歳の短い生涯を終えた。残された子は、長女幸子だけになる。幸子のためにも、悲しみに沈んではいられなかった。命に代えても、この子を守ろうと誓う。悲しみを心の奥にしまい込んで、亮一の仕事を手伝うようになった。バザーなどを積極的に企画し、資金集めに貢献。フランスで体験した慈善事業が役に立った。1903年6月、筆子は42歳にして、亮一と結婚。本格的な二人の二人三脚が始まった。
  1920年3月24日、学園の存続上、最大の危機に見舞われた。学園に火災が発生し、生徒6人が死亡するという大惨事であった。原因は、マッチによる生徒の火遊び。生徒を救うために火の中に飛び込んだ筆子は、足に大けがを負い障害を残してしまう。
  筆子が受けた衝撃は計り知れない。4年前には長女の幸子を失っていた。そのとき、「もう泣いてもいいのね」と言って、筆子は幸子の遺体と二人っきりで、長い時を過ごした。呻きにも似た嘆きの声が、絶えることなく聞こえていたという。自分の子は全て失ったが、私には学園の生徒一人一人がいる。そう思い直して、気力を奮い起こして、絶望の淵から立ち直った矢先の火災であった。筆子は、生徒の遺体にすがりつきながら慟哭した。
  さすがの亮一もついに学園閉鎖を決断した。「神は我々を見捨てられたのだ。この試練に耐えるだけの信仰の力は、私にはない」。夫の決断を止めるだけの気力は、筆子にも残っていなかった。しかし、彼らは決して見捨てられてはいなかったのだ。この惨劇が新聞等で報じられるや否や、全国各地からおびただしい数の義援金が届くようになった。また卒園生の父兄からも、励ましの手紙が寄せられ、なけなしの金が同封してあった。彼らはみな学園への感謝と再起を願う旨を伝えたかったのである。多くの人々の善意に支えられ、火災発生の半年後、学園は財団法人の認可を受けて再出発した。

福祉の母

  晩年になっても筆子は、苦労から解放されることはなかった。夫亮一が、1937年に70年の生涯を終えた後、筆子は自ら2代目の学園長に就任した。脳溢血の後遺症で半身不随の身を押してのことである。借金だらけの学園を人に押しつけるわけにはいかなかったからだ。
  戦時中では深刻な食糧不足に襲われた。「国家に役立たない者に食わせるものはない」と言われて、配給は常に後回しにされたからだ。食糧確保に奔走しながらも、飢えや空襲で幾人かの生徒が命を落とした。彼らの棺桶すら準備してあげられない現状に、筆子は身も心も引き裂かれるような思いであった。
  戦争末期の1944年1月24日、82歳の筆子は数人の職員に看取られ、眠るように息を引き取った。一人の血縁者もいない寂しい最期であった。不思議なことに、すでに息のない筆子の閉じられた両目から止めどなく涙が流れ出て、拭いても、拭いても溢れてきたという。戦争で命を落とした子供たちを思う涙であったのだろうか。職員たちは筆子の最期の言葉を聞いている。「たくさんの命が手のひらからこぼれていきました。どうして守ってあげられなかったのか。どうかお許し下さい」。
  また、それは胸の奥深くに閉じ込めてきた悲しみの涙であったのかもしれない。「もう泣いてもいいのね」。こんな筆子の言葉が聞こえてくるような気がする。信じがたい不幸を嘆きや怨みに終えることなく、恵まれない子供たちに対する愛情へと昇華させた筆子の生涯であった。「福祉の母」と称えられている。




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