魯迅  

愛国者、正義の人、誠実の人 
医学では中国を救えない  生涯の師、藤野先生 

今回から数回にわたって日本留学を経験した人物伝を掲載することにした。初回は終生中国を愛し続けた文学者・魯迅を紹介する。魯迅は日本留学を経験して、人生の決定的な転機を迎える。医学を棄て文芸の道を選択した。さらに生涯の師に出会うことになる。

愛国の文学者

魯迅は、生涯中国を愛し続けた文学者であった。愛するがゆえに、手厳しい批判を容赦なくぶつけ、愛するがゆえに、虚偽を許さない。愛するがゆえに、反動権力と戦い、革命を志向した。愛するがゆえに絶望し、愛するがゆえに書き続けたのである。彼は根っからの愛国者であり、妥協を許さない正義の人であり、誠実の人であった。「一番嫌いなものは嘘つきと煤煙、一番好きなものは正直者と月夜」という魯迅の言葉に彼の虚偽を憎む性格が表れている。
魯迅の愛国心は、日本への留学を契機として培われた。留学生の多くが祖国を離れて、異国の地から祖国を眺めることで、愛国心に目覚めるように、魯迅もそ
の例外ではなかった。彼が東京に留学したのは1902年。清国は風前の灯と化しており、日本が「排満」(清朝打倒)をとなえる革命派の最大拠点となっていた。20歳の多感な青年魯迅が、この政治的雰囲気に影響を受けないはずはない。急速に民族意識に目覚め、革命意識を育てることになる。

医学を棄て文筆へ

東京での2年半の生活の後、魯迅は仙台医学専門学校(現東北大学医学部)で学ぶために仙台に向かった。彼が医学を志したのは、父親が病のため長期療養を余儀なくされ、ついには死んでしまったことと、それに対して漢方医が無力であったことに因る。「私の夢は豊かであった。卒業して国に帰ったら、私の父のように誤られている病人の苦しみを救ってやろう」と夢を抱いて、彼は1904年仙台に向かった。しかし、この仙台で彼の医者になろうという進路を決定的に覆す事件が生じた。「幻灯事件」である。
1904年と言えば、日露戦争の最中であり、日本中が戦況に一喜一憂し狂気と化していた。魯迅にとっての事件は、細菌学の授業中に起こった。幻灯(スライド)を使って、細菌の形態を説明する授業で、時間が余れば時事のスライドを見せることもあった。
そのスライドの中身は、日本がロシアに勝っている場面ばかりであった。学生はそれらを見ながら、みな手を打って歓声を上げている。その中の一つに、中国人が日本軍によって銃殺される場面のものがあった。ロシア軍のスパイを働いたという嫌疑である。取り囲んで銃殺を見物している群衆も、中国人であった。教室で、「万歳!」の歓声が
上がる。「私にとっては、この時の歓声は、特別に耳に刺した」と魯迅は述べている。
彼の中に、常にどんな時でも傍観者的な中国人に対してやりきれない悲憤が生じた。医学なんか学んでいる時ではない。中国人の精神を改革しなければならない。それには文芸が第一である。彼はこのように考えて、文学の道を志すことになる。友人に「中国の馬鹿やろくでなしを医学で治療できるもんか」と語っているのだ。

恩師藤野儼九郎先生

1906年、仙台医学専門学校を中退して仙台を去るときに魯迅を苦しめたのは、恩師の藤野先生の存在であった。医学の勉強をやめる旨を伝えたところ、恩師の顔に悲哀の色を読み取った魯迅は、咄嗟の嘘が口から出てしまった。「私は生物学を習うつもりです。先生の教えてくださった学問は、やはり役に立ちます」と。彼は生物学など学ぶつもりは微塵もなかった。藤野先生の恩を裏切るような結果に対して彼の良心が痛んだのである。嘘をつくことを一番嫌った魯迅ではあったが、恩師のガッカリした様子に接し、慰めるつもりでこの嘘をついたのであった。
1年半の仙台での留学生活は、期間としては短いものであった。しかし、彼の進路を大きく変えた事件に遭遇したことと、藤野先生との間で結ばれた美しい師弟関係のゆえに、ひときわ輝きを放っている期間のように思われる。藤野先生の授業が始まって1週間が過ぎた頃、先生は魯迅を研究室に呼び、「私の講義は、筆記できますか」と尋ねた。「少しできます」と答えた魯迅に、「持ってきて
見せなさい」と言ってノートの提出を求めた。1、2日後に返却されたノートを見て、魯迅は仰天してしまった。ノートの始めから終わりまで、全部赤ペンで添削してあったのである。抜けた箇所が書き加えられているばかりでなく、文法の誤りまで、いちいち訂正してあるのである。こうした添削が彼が仙台で学んだ期間ずっと続けられたのだ。
彼が恩師をガッカリさせまいとして、嘘をつかざるをえなかったのも首肯ける。仙台を発つ2、3日前、先生は彼を自宅に呼んで、写真を一枚渡した。裏には「惜別」と書かれていた。先生は、時折便りを書いて状況を知らせるように切望した。しかし、その後の状況は先生を失望させてしまうだけだと思い、彼はとうとう一度も便りを出すことはできなかった。魯迅は先生の恩に対して不義理であったことを悔いながらも、次のように述べている。
 「なぜか知らぬが、私は今でもよく先生のことを思い出す。私が自分の師と仰ぐ人の中で、彼はもっとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである」。彼は藤野先生からいただいた写真を常に机の前の壁にかけていた。仕事に疲れて、怠けたくなるとき、先生の顔を見る。すると「たちまち、また私は良心を発し、かつ勇気を加えられる」と言うのだ。
藤野先生と過ごした1年半は短くても、魯迅にとって先生は生涯の師であった。先生は魯迅の心に住み続け、時に励まし、時に慰め、勇気を与えた。藤野先生との出会いで、魯迅の良心に命の息が吹き込まれたのである。





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