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夏目漱石

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夏目漱石 
(なつめそうせき)

個人主義を超える価値へ
西洋的近代自我の発見  精神の危機を超えて

  夏目漱石は数多くの名作を生み出し、近代作家として頂点を極めた文豪である。彼の小説家としての人生に、イギリスでの留学体験が決定的な影響を与えている。しかしその経験は苦渋に満ちたものであった。その中で彼が掴み取ったものはいったい何だったのか。

34歳でイギリス留学
  夏目漱石は、明治時代に活躍した文豪である。『吾輩は猫である』『坊ちゃん』など数多くの名作を生み出し、日本の近代作家として最高峰に上りつめた人物である。彼が作品の中で描こうとしたのは、近代自我に他ならない。それは時には、正義心や独立自尊の精神として現れる反面、エゴや嫉妬として人間を苦悩へと引きずり込む要因にもなる。
  漱石文学の核とも言うべきこうした自我意識が、漱石自身の中で明確に自覚されるのが、イギリスでの留学体験であった。イギリス留学の文部省命令が届いたのは、漱石が34歳の時である。第五高等学校(現在の熊本大学)の教授の職にあり、結婚し子供もいた。決して若くはなかったのである。
  当初文部省の辞令があったとき、彼は留学を躊躇した。辞令に「英語研究のため、満2年間英国へ留学を命ず」とあったからである。彼の関心は、「英語研究」ではなく、「英文学」であった。文部省の見解は、留学の目的を幅広く解釈していいという柔軟なものであったので、彼は留学を決意した。
  漱石の留学生活は苦渋に満ちたものであった。そして異常でもあった。神経衰弱(ノイローゼ)に陥り、被害妄想的状態が続き、それが因で胃弱にも悩んでいた。下宿の女主人は、漱石を心配し、「毎日毎日、幾日でも部屋に閉じこもったなりで、真っ暗の中で、悲観して泣いている」と漱石の友人に報告したほどである。心配した友人も10日ほど彼の側にいて、「異常だという確信」を深めたと言っている。
  ある日女主人が、気晴らしのために漱石に自転車の練習を勧めたことがある。しかし、彼はそれを「自転車責」と称して、自分を苦しめるための工夫だと受け止める始末である。ついに、「漱石が発狂した」といううわさが日本にまで届くようになってしまった。

幼年期のトラウマ
  漱石が神経衰弱に陥り、被害妄想や抑鬱症に苦しむのは、これが初めてではない。その生涯に何度か体験している。その原因は、幼年期の辛い記憶にあることはほぼ間違いない。夏目家の末っ子(6人兄弟姉妹)として生まれたとき、母は41歳になっていた。こんな年になって懐妊して面目ないと母は思っていた。生活が苦しいこともあって、漱石は生まれてすぐ、貧しい古道具屋の夫妻のところに里子に出された。
  ある日、漱石の姉が四谷界隈を歩いているとき、古道具屋が出していた夜店で弟を発見した。がらくたの中に混ざって、小さなざるの中に赤ん坊の漱石が入れられていた。かわいそうに思って家に連れてきたという。しかし実家の父は、漱石を歓迎しなかった。
  3歳の時、漱石は夏目家に仕えていた奉公人の家の養子にさせられた。しかしこの養父母は漱石にとって理想的な親ではなかった。欲しいものは何でも買ってくれたが、漱石には単に子供の機嫌を取って、将来自分たちの利益を図ろうとする親にしか見えなかった。やがて養父に別の女ができて離婚する。漱石は、いったんは養母に引き取られたが、10歳の時、実家に引き取られた。
  しかしやはり実家の父は、漱石を厄介者と感じていた。彼は生涯にわたって、この父に対して心を開くことはなかったのである。実家に戻った彼は、実父母を自分のおじいさん、おばあさんだと言われて育った。ある日、家の女中から本当の父母が、彼がおじいさんおばあさんだと思っていた人だと聞かされたとき、彼は非常に嬉しく感じたと言う。それは事実がわかったからではなく、女中が自分に親切にしてくれたそのことが嬉しかったからであった。漱石は愛情に飢え、心にトラウマ(心的障害)を抱えていた。

イギリスでの葛藤
  幼年期のトラウマにより、漱石は成人になってからも幾度か精神の危機に陥っている。もともと生真面目で律義者であり、正義心が人一倍強かった彼は、深奥の苦悩を理性の力で抑えていた。しかしその理性の力を踏みにじるような、ある現実の壁に直面するとき、彼は悩みの淵にさまよい出す。イギリス留学がその時であった。
  イギリスに渡った漱石が最初に目撃したものは、日本とは違った個人のあり方であった。「文学の本質を理解できるだろうか」。漱石の問題意識はこの一点に集約される。自我に関する深い考察抜きに文学を語れないとすれば、「日本と違った個人のあり方」は、実に大問題であったのである。
  漢学をこよなく愛し、俳句をたしなみながら、東洋的あるいは日本的精神文化に浸りきって生活していた漱石にとって、イギリスは好ましい国ではなかった。むしろ嫌悪すら感じていた。その嫌悪すべき国の文学を研究するのである。繊細な漱石にとってそれは苦痛以外の何ものでもなかった。研究対象に対するある種の感情移入なしには、研究は難しいものである。文学という人間を扱う分野では特にそうだ。ここに漱石の葛藤があった。この葛藤が漱石の精神を徐々に蝕み、眠っていた幼年期のトラウマを呼び覚ましてしまったのである。

勝ち取った「個人主義」
  漱石は、この精神の危機を見事に克服した。精神の危機が時に人生の転機となり、次の人生のステップとなることはよくあることである。この危機の経験なしに、その後の漱石の作品は生まれなかった。
  彼は後年、学習院大学で講演したとき、ロンドン留学で勝ち取ったものについて語っている。「私は多年の間懊悩した結果、ようやく自分の鶴嘴をがっちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです」(『私の個人主義』)。彼が掘り当てた「鉱脈」とは何か。
  次のように語っている。「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました」。この「自己本位」こそが、彼が掘り当てた「鉱脈」だと言うのである。しかし彼の言う「自己本位」とは、自分だけが良ければいいとする利己主義や、自分の利益追求だけに関心を向けるエゴイズムのことではない。むしろ個人主義と言うべきものである。彼の言う個人主義とは、「他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬する」もので、「自分の自由を愛すると共に他の自由を尊敬する」ような自由を前提として成り立つものである。
  漱石はイギリスを好んではいなかった。しかし、イギリスにて西洋的自由と個人主義を学び、それを身に付けて帰国した。漱石は言う。西洋人がこれはいい詩だと言っても、自分がそれを心からそう思えなければ、受け売りすべきではない。われわれ日本人は、イギリスの奴隷ではない。一個の独立した日本人である限り、自分のしっかりした見識を持つべきだ、と。
  彼は西洋の近代的個人主義(近代的自我)を身に付け、無批判な西洋化の風潮を拒絶する一方、帰国後は日本の封建主義的残滓ともいうべき「世間」からの脱皮を計ろうとした。彼の一連の小説は、彼の近代的個人主義と日本的社会との格闘の産物であったのである。

「則天去私」
  漱石の「個人主義」は、文学の中だけではなく、その後の生き様の中に垣間見ることができる。総理大臣が招待した文化人の集いへの出席を断ったり、またある時には文部省が作家としての漱石の活躍をたたえて博士号を与えるという申し出があったが、それも辞退した。何ものにもおもねることをせず、自由人としての気骨を示そうとしたのであろう。また、漱石は彼の作品を自然派とか象徴派という範疇に分類されることを嫌った。「文壇に濫用される空疎な流行語を自分の作品の商標としたくない」と語り、「ただ」自分らしいものが書きたいだけである」と言っている。
  晩年、漱石は友人へ次のような内容の手紙を書いている。気に入らないこと、癪に障ること、憤慨すべきことがたくさんある。それを清めることは人間の力ではできない。それと戦うよりも、それを許すことが人間として立派なものならば、できるだけそのための修養をしたいと思う、と。
  心の内部を掘り下げながら、近代的自我をぎりぎりまで追及した漱石が最後にたどり着いた境地は、許すことを理想とする立場であった。それは最晩年に彼の揮毫に見られる「則天去私」の思想に通ずる。個人の自我を超えた大きな存在(天)に自分を委ねる生き方である。天に委ねることで、人に寛容であり、何ものをも包摂できるのである。
  イギリスで「個人主義」を発見した漱石は、長い人生行路の末に、個人を超える生き方を発見した。彼の最後の作品『明暗』は未完に終わった。しかし人生という作品の中で、最も大切な何かを掴んで、彼はその生涯を終えたのかもしれない。



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