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邱永漢

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邱永漢  



二人の母親に育てられて 
一週間の勾留で人間が成長  「金儲けの神様」の基礎が形成 

邱氏が学んだ日本は戦争の真っ只中であった。植民地からの留学生として来日し、戦争と終戦という過酷な時代を通過し、文学かぶれの青年は、政治青年へと変貌した。しかし、将来「金儲けの神様」と呼ばれる萌芽はその時すでに見受けられる。

戦後、正式な留学生に

邱永漢氏と言えば、作家として、経済評論家として、あるいは実業家として、日本で最も有名な台湾人の一人である。現在では日本国籍を取得しているので、台湾人と呼ぶのも不正確かもしれない。また邱氏の日本留学と言っても、当時台湾は日本の植民地であったから、厳密に言えば留学ではない。法的には日本人として台湾から東大に入学したのである。正真正銘の留学生となったのは、第二次世界大戦で日本が敗戦し、台湾が解放された時からであった。
氏が大学生として過ごした日本は、戦争の真っ只中の混乱期にあった。日本人の学生ですら、尋常ならざる体験をした困難な時期である。まして植民地出身である邱氏の大学生活は、特異で複雑なものにならざるを得なかった。

複雑な家庭環境

邱氏の日本との関わりは、日本が台湾の宗主国だったという事実だけに終わらない。その関係は血に及んでいる。母親が日本人であったのである。母(堤八重)が邱氏の父(邱清海)と結婚したとき、父にはすでに台湾人の妻(陳燦治)がいた。当時、日本国籍を有するものが、植民地の人と結婚することは法律的に認められていなかったため、邱氏の生母は邱氏の父と正式に結婚することはできなかった。
父と八重との間には、10人の子供が生まれたが、父と正妻の間には子供がなかった。そのため長女と長男の邱氏は父の籍に入り、ほかの8人は母親の籍つまり日本籍になった。母の八重が、子供たちが台湾人になれば、教育を受ける上で、差別されたりすることを懸念していたからである。
「私は二人の母に育てられた」と邱氏は述べている。厳しかった生母よりも、台湾人の母の方により強い愛着を感じていたとも語っている。国籍の違う二人の母、それと国籍を異にする兄弟たちとの同居。こうした少年時代の環境こそが、国境にこだわらず、世界とアジアを駆け回る邱氏の今日の活躍を生み出す萌芽であったのかもしれない。

一週間の勾留

邱氏が厳しい受験競争をくぐり抜けて、東京大学に入学することになった当時の日本は、戦時下の監視体制が徹底されていた。特に東大は帝国主義と軍国主義に対するレジスタンスの総本山という趣であった。また植民地であった台湾や朝鮮からの留学生は、全て特高や憲兵隊から監視されていた。台湾人であり、かつ東大生の邱氏が厳しく監視されていたことは当然であった。
1944年3月の寒い朝のことだったと言う。突然寝込みを襲われ、叩き起こされた。そのまま手錠をかけられ、憲兵隊の留置場の中にぶちこまれてしまう。嫌疑はスパイ容疑であったが、彼にまったく心当たりはなかった。取り調べにあたった憲兵の話から推測すると、どうも友人に語った冗談が発端であるらしかった。
冗談すら真に受けて検挙に踏み切るほど、当時の日本は追い詰められていたし、狂気と被害妄想に侵されていたのである。一週間の勾留の中、なんの証拠もあがらなかったので、無事釈放された。この時のことを思い出しながら、邱氏は「私は減らず口を叩いただけで、なんら世の中のためになることをしていないのに、牢屋に一週間入れられたというだけで、なんとなく自分が一回り大きくなったような気がした」と述べている。

東大社会科学研究会を設立

戦争は、多感な若者の思想や生き方に決定的な影響を残すものである。まして植民地の若者にとって、戦争が与える影響は想像を絶するものがある。台湾や朝鮮の有為な若者が憎悪の対象である日本のために死の戦地に駆り出されるのである。幸い邱氏は未成年であったために、学徒出陣の対象外であったが、知り合いの多くが二度と帰ってはこなかった。こうした戦争の悲劇を体験しながら、もともと文学かぶれの青年は、否応無しに政治青年に変貌していく。
終戦は、植民地の人々にとっては解放以外の何ものでもない。邱氏は希望に燃えていた。それまで巨大な重石として頭の上にのしかかっていた帝国主義日本がなくなってしまったのである。自分たちの手で新生台湾を建設できるという希望であった。
 「新生台湾建設研究会」という日本にいる留学生の組織ができたのは、その頃のことである。台湾人同士、横の連絡を取りながら、定期的に集まるようになった。台湾の将来について、口角あわを飛ばしながら議論した。誰もが希望に満ちていて、元気溌剌だったのである。
邱氏は大学院の専攻科目も財政学を選んだ。自分の国を持たない者が財政学を選ぶということは、ついこの間までは考えられないことだった。しかし時代は変わった。自分の祖国が蘇ったのである。財政学でも学んで国の役に立ちたいと思ったのである。
邱氏は友人と一緒に「東大社会科学研究会」を立ち上げた。結成大会には300人の入会者が集まったが、邱氏と友人の二人を除いては、ほとんどがカチンカチンのマルクス・ボーイばかりだった。活動として、『資本論』の輪読会をやろうという主張が目立ったが、邱氏の「読書なんか一人でもできる。せっかくみんなが集まるのだから、皆で手分けしてグループのメリットを生かした仕事をやろう」という提案が通って、世論調査などの具体的な活動を進めることになった。例えば焼け跡のバラックに住んでいる人たちの実態などに関する調査である。
この調査結果をまとめて「壕舎生活者の実態及び世論調査」と題して東大新聞に掲載してもらった。このレポートが大変評判になり、朝日、毎日、読売、日経までが、このレポートをニュースとして紹介してくれた。これが今日では、大新聞で行われる世論調査のハシリである。当時、米軍占領下におかれていた大新聞社には、そういうことを考える余裕がなかった。
 その後邱氏が台湾に帰国してしまうと、この東大社会科学研究会は彼の友人を追放し、全学連の母体として発展的に解消したという。戦後日本を震撼させた全学連運動の種を蒔いたのは自分であったと氏は自嘲気味に語っている。

現実への関心

 邱氏は日本で政治的青年に生まれ変わったけれども、観念的イデオロギー論争に明け暮れる青年ではなかった。戦時中は、部屋の雨戸をおろし、カーテンをかけて、こっそり左翼の禁書を読みあさっていたが、戦争が終わり、左翼の本が禁書でなくなると、一挙にその熱は冷めてしまった。もともと左翼思想は邱氏には馴染まないものだったのだろう。
 彼の関心は、あくまで現実であった。現実を足場に見据え、具体的にできることは何かを考え、行動しようと考えていた。台湾の建設に取り組む決意を固めつつ、焦土と化した日本を後にしながら、将来日本の経済発展が日本を世界的な富裕国にすると予見していた。後に「金儲けの神様」と言われる基礎はこの時すでに築かれていた。

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