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新島襄


新島襄 
(にいじまじょう) 

一国の良心たる人物の育成 
迫害越えて同志社英学校開校  知徳兼備の学校目指して 

江戸時代末期、鎖国政策の日本から、21歳になったばかりの青年が、国禁を犯して、日本を脱出した。オランダの軍艦を見た時の衝撃が、彼を突き動かしたのである。アメリカでキリスト教精神による徳育と学問の重要性を実感、日本にも知徳兼備の学校設立を決意して帰国した。

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新島襄

日本脱出の決意

  京都市の今出川通にある同志社大学の正面入口に「良心碑」が据えられている。知識偏重を避け、キリスト教精神に基づく徳育を目指し、「一国の良心」たる人物を世に送り出したい。そんな新島の精神を表したものである。しかし京都は仏教の中心地。そこにキリスト教系の学校を作ろうというのである。それは無謀な試み以外の何ものでもなかった。次々に困難が襲い、心身を磨り減らす戦いの連続であった。夢の実現は、自らの肉体の代価を伴うものであった。
  新島襄が生まれたのは、江戸時代末期の1843年2月12日。上州安中藩(現在の群馬県安中市)の藩主である板倉家江戸屋敷で、下級武士の子として生まれた。新島家では、すでに女の子4人が生まれていた。5人目が産声を上げたとき、祖父は男の子であったので、思わず「しめた!」と叫んだ。これゆえ、新島襄の幼名が「七五三太」と命名されたと言われている。
  父の民治は藩の記録を作成し、書類を保管する小役人で、机の前に座って字を書くことに満足している、穏やかな人物だった。英才とされた七五三太は、藩の命令で10歳の時、漢籍(中国の書物)を習い始め、13歳で蘭学(オランダ語による学問)を学んだ。
  いわゆる黒船が浦賀沖に姿を現したのは1953年、人々は天下大乱を予感し始めていた。この国難にあって、自分はいったい何をすべきか。多感な少年は、焦燥感に襲われていた。
  1860年10月、七五三太は江戸湾頭に出て、オランダの軍艦を沖合に見た。外国の軍艦を直接見たのは、この時がはじめて。その威容に圧倒され、強い衝撃を受けた。彼の関心が、海外先進諸国に向かい始めるのは、この時からであった。我々は外国に出て、外国に関する知識を身に付けなければならない。こう強く感じた七五三太は、航海術を学ぶため、週に3回、幕府の軍艦操練所に通い始めた。
  航海術の心得を学びながら、七五三太の心に沸き起こってきたのは、日本脱出であった。函館に向かう快風丸に乗り込んだとき、すでに七五三太の決意は固まっていた。見つかれば死刑は免れない。しかし、抑えがたき思いが彼を突き動かしていた。函館はその4年前に開港されたばかりで、外国船の出入りが多い港町。そこからアメリカに行くチャンスを窺っていたのである。

学校設立の夢

  1864年6月14日、ついに日本脱出に成功。上海に向かうアメリカ船に乗り込み、上海でアメリカ行きの貨物船に乗り換えた。その貨物船ワイルド・ローバー号の船主こそ、新島襄にとって生涯の恩人となるアルフュース・ハーディであった。ハーディ夫妻は過去に何度か貧しい青年を支援して、結果的にうまくいかなかった経験を持っていた。それゆえ、船長から新島のことを聞いたときは、支援にためらいがあったという。しかし、新島が提出した手記を読んで心を揺さぶられた夫妻は、日本のこの青年の将来に希望を持った。彼を援助しがいのある青年と見込み、全面的に支援することにしたのである。
  彼の書いた手記には、たどたどしい英語ではあったが、はじめてオランダの軍艦を見たときの衝撃、日本の青年はもっと外国に出てそこから学ぶ必要性があることなどが、切々と述べられていたのである。
  ハーディ夫妻の庇護のもと、新島はボストンの北の町アンドーバーにある名門私立学校フィリップス・アカデミーに入学。1年後には早々と洗礼を受け、禁酒禁煙、女色にふけらない、怒鳴らない、人の悪口を言わないなどの誓いを立てた。後に「道楽を知らない真面目人間」と言われたのは、この時の誓いを生涯守り通したからである。その後、アーモスト大学、アンドーバー神学校に学ぶ。結局9年間、アメリカで学生生活を送りながら、新島の心に一つの志が沸き起こっていた。日本にも、キリスト教主義の学校を作りたい。この思いが日増しに強くなっていたのである。
  新たに誕生した明治の新政府から正式な留学許可書を手にしていた新島は、帰国を目前にして、アメリカン・ボード(外国に宣教師を派遣するキリスト教組織)の年次総会に招待された。別れの挨拶を述べるためである。神学校を卒業し、聖職者の資格を持った日本の青年の挨拶に、聴衆は注目した。彼は壇上から、これまでの支援に感謝の辞を述べながら、日本の将来のため、キリスト教主義の学校を設立し、自治と自立に目覚めた青年を育てたいという志を語り始めた。
  そして最後に、その基金のお願いを訴えた。「学校建設のための基金を得ることなしに、日本に帰ることはできません。私はそれを得るまでは、ここに立たせていただきます」と締めくくった。壇上に棒立ちになった新島の目から、涙が溢れ出ていた。声をからしながら訴えた新島の熱意は聴衆の心を打ち、その場で5千ドルもの寄付が集まったのである。

同志社英学校の開設

  1874年11月26日、新島襄を乗せた客船コロラド号は、横浜港に到着。21歳で日本脱出を果たして以来、10年ぶりで祖国の土を踏んだ。名前はアメリカでジョセフと呼ばれていたことから、襄と名乗ることにした。
  当初、学校の候補地として神戸か大阪を考えていた。しかし、府知事の許可が得られない。それで、候補となったのが京都である。京都府知事の槇村正直は比較的進歩主義的考えの人物だったからである。
  しかし、京都は日本の古い都、天皇につながる神社も多い。さらに仏教の中心地でもある。そこにキリスト教の学校を作るという。暴挙に近いことだった。事実、僧侶と神官は学校設立反対を叫んで、繰り返し大集会を開き、連日府庁に押しかけて抗議した。
  反対が激化すればするほど、新島の信念はさらに強固になった。日本に信仰の自由が未だ根付いていない現状を憂い、「私は自由を尊び、それを守る精神を青年たちに植え付けるために学校を建てるのです。そのためなら、倒れることがあっても構わない」と言って、微動だにしなかった。
  難しい問題は他にもあった。学校に対する考えが、教師と予定されていた宣教師と新島の間に隔たりがあったのである。宣教師の考えでは、学校というのはあくまで建前で、本音は伝道師養成機関のようなつもりでいた。新島の考えは違っていた。聖書と神学だけを学ぶ学校では駄目だ。キリスト教精神に基づくものの、あくまで日本の独立のため命がけで働く人材を育成する学校を考えていたのである。この考えは、終始変わらなかった。
  新島の粘り強い説得に宣教師たちも折れ、ついに1875年11月29日、同志社英学校(同志社大学の前身)が開校した。生徒数わずか8名であったが、大きな志を抱いての出発となった。新島は32歳の若さで校長に就任した。

自責事件

  1879年大問題が勃発した。生徒の無届け集団欠席、一種のストライキである。学校側は、前年の新入生の数が少なすぎたため、79年1月に生徒の再募集をした。当初は、同じ1年生でも別々のクラスが設けられたが、経営難の折から、校長不在中に幹事らが相談して、それを一つのクラスにしてしまった。この一方的な決定に生徒たちは反発、それを学校運営にもともと不満を持っていた上級生たちが煽って、集団欠席となったのである。
  この問題自体は、新島が帰り、不満組を説得することで収まったが、ストライキを決行した生徒たちに対する処分問題が持ち上がった。校則の違反者を処分もしないで放っておくのかという非難が沸き起こったのである。この声を黙殺できない。また校長不在中に勝手にクラスを合併した幹事の軽率な行為も不問にはできない。悩み抜き、苦しみ抜いた結果、新島の結論は、1880年4月13日、朝礼の場で示された。
  新島は壇上から語った。「もともと今度の事件は、教師の罪でも、生徒諸君の罪でもない。すべて私の不徳のいたすところです。しかし、同志社の校則は厳然としたものです。されば校長である私はその罪人を罰します」。こう言うなり、右手に持っていたステッキで自らの左手を打ち始めたのである。あっという間の出来事だった。誰もが、ただ呆然と音を立ててうなるステッキを見ているだけだった。
  3度、4度と打ち続けるうちに、それは2つに折れてしまった。短くなったステッキでなおも左手を打ち続ける。処分を求めた生徒たちは、頬が引きつり、青ざめてうなだれていた。時折、嗚咽する声も聞こえてきた。その時、生徒の一人が壇上に駆け上がり、体を張って新島を制止した。処分を最も強硬に主張した生徒であった。
  折れたステッキを持つ手を押さえられたまま、目に涙を浮かべ、新島は生徒に向かって言った。「諸君、同志社がいかに校則を重んずるところかわかったでしょう」。新島はステッキを投げ捨て、朝礼が終わった。これが有名な自責事件である。

無理を重ね寿命を縮める

  新島が体調を崩し始めたのは、この自責事件があった頃からである。時折、視線を浮かせて、低い吐息を漏らしたり、「頭痛がする」と言って早くから寝込むことがしばしばだった。衰えることのない僧侶の反対運動。それと慢性的な経営危機。新島の心臓は、心労のゆえに蝕まれていた。無理に無理を重ねた結果である。心臓に爆弾を抱えながら、寄付集めのため、東奔西走する姿は痛々しく、目を覆いたくなるほどであったという。
  1889年秋、ついに過労のため前橋で倒れ込んでしまう。遊説と寄付集めの途上であった。年を明けた1月23日、静養で訪れていた大磯で、妻の八重や教え子たちに見守られながら、ついに息を引き取った。47歳の短い生涯であった。
  遺体は翌日自宅のある京都に運ばれた。小雪舞う夜、停車場から自宅まで、生徒たちによって、かわるがわる棺が担がれた。ぬかるんだ夜道をゆっくりと歩く生徒たちの誰もが、目を腫らし、嗚咽していたという。「一国の良心たる人物を育てたい」。新島は、その遺志を、自らの肉体を犠牲にしながら遺そうとしたことを誰もが感じていた。



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