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孫平化

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孫平化  



心と心で付き合う友情が大切 
日本で抗日運動へ  日中友好の井戸掘り 

日中友好の歴史で孫平化氏の名前を忘れることができない。満州出身の彼は、日本の傀儡政権の税務局に勤務する。彼の抗日思想は徐々に形成され、日本留学を契機に決定的なものとなる。しかし、帰国後の彼の人生は親日で彩られていた。

日中友好の灯

来年、日本と中国は国交正常化30周年を迎える。1972年9月29日、周恩来首相は訪中した田中角栄首相を歓迎して、次のように語った。「水を飲むときには、井戸を掘ってくれた人々のことを忘れてはいけない」。あまりにも有名な言葉である。
 日中友好の歴史の中で、この井戸掘りに携わった一人が孫平化氏である。孫氏は日本留学経験を買われて、新中国成立後、対日接待組の組長に任命された。この人事が彼が本格的に日中友好の仕事にかかわるきっかけとなった。
 周恩来首相と廖承志氏(中日友好協会会長)の指導と指示の下、日中の友好のために奔走してきた。両国の間に国交がない時代、常駐の貿易事務所(東京連絡処)を東京に開設することになり、孫平化氏がその初代首席代表(事実上の大使)に就任した。東京オリンピックが開かれた1964年のことである。72年の国交正常化実現に向けて、粉骨砕身の努力を重ね、廖氏亡きあとは、中日友好協会会長になって、晩年まで日中友好の灯をともし続けたのである。

満州国の税務局に就職

 孫氏と日本との関わりは、少年時代に遡る。彼は中国東北地方(旧満州)の地主の長男として生まれ、1934年、奉天省第二高級中学校(日本の旧制高校に相当)に入学した。高級中学校での3年間は、ちょうど満州国の成立当初と重なっていた。この満州国は、五族共和を旗印にして、日本が大陸への足場を固めるために作った傀儡国家であった。
 高級中学校での彼は入学以来、卒業までずっとクラスでトップの成績を通した。当時の奉天省から成績優秀ということで、「省長賞」として置き時計を授与された。この置き時計を彼の父親は94歳で亡くなるまで、実家の宝物のように大事にしたという。しかし、傀儡政権の地方政府からもらったものだから、あまり名誉なことではなかったかもしれないと彼は後に述懐している。彼の日本との出会いは、日本と中国との不幸な関係を背負ったものであったのである。
 高級中学校卒業後、彼は満州国の最高学府、「建国大学」を受験し、見事合格した。しかし、大学か就職かを悩んだあげく、彼は就職を選択した。早く収入を得て親に恩返しをしたかったと述べている。就職先は、長春(当時の新京)の「満州国経済部」税務局関税課であった。

日本人から殴られる

 関税課で約2年半働いた頃、高級中学校時代の同級生が突然彼を訪ねてきた。友人は卒業と同時に、東京工業大学付属予備部に留学していた。「奉天省長から賞までもらった成績優秀の君が、このままでは堕落してしまう。早く東京に来て一緒に勉強しないか」と彼を励ました。その頃、彼の中に徐々に民族意識が芽生え、抗日の思想を固め始めていた。このままではいけないと、悶々と日々を過ごしていた彼にとって、日本留学の勧めは何かしら新しい活路を予感させるものであったのである。
 彼が抗日運動に走る最初のきっかけは14歳の時の事件であった。1931年9月18日「満州事変」が勃発した。日本の関東軍が瀋陽郊外の柳条湖で鉄道爆破事件を起こし、これを機に東北地方の大半を占領した事件である。この事件を孫氏は初級中学校の寮で知った。学生の全員が学校から退避を余儀なくされ、彼も「南満鉄道」で家に帰ることにした。彼が生涯忘れることができないという事件がその時に起こったのである。
 列車は非常に混雑していた。彼は空いた席を見つけようと通路を歩いていた。その時ちょっとした不注意で反対から来た日本人の4、5歳の男の子とぶつかってしまったのである。男の子はよろけた。怪我はなかったが、一緒にいた男の子の父親が、怒っていきなり彼の顔を殴ったという。当時14歳の彼は、黙って耐えるだけだった。彼はこの日のことを忘れないという。この事件が後に彼を抗日運動に走らせる遠因だったかもしれないと彼は語っている。

抗日運動とマルクス主義

 日本への留学は、1939年1月に実現した。中国人留学生一行はまず、長春の神社で参拝した。その後列車で朝鮮半島南端の釜山まで行き、釜山から下関までは関釜連絡船に乗り込んだ。日本到着後は真っ先に訪れた先が、伊勢神宮だった。すでに抗日思想に固まっていた孫氏にとって、こうした一連の強要された神社参拝は、彼の抗日意識をさらに強化することになったことは想像に難くない。
 日本到着後、彼は一生懸命に勉強して無事東京工業大学付属予備部に合格した。入学当初彼は建築科に入ろうと決めていた。1年間に1枚設計図を書けば食べていけるという安易な考えであった。その頃は、まだ革命のことなど念頭にはなかった。
 そんな彼に接近してきたのが、同郷の先輩米国鈞氏(後の初代駐日公使)である。米氏は彼に「建築科は難しいからやめなさい。易しい科に行けばいい。日本にはいろいろ面白い本もあるから、読んで下さい」としきりに勧める。米氏は、実は中国共産党の外郭団体の指導グループの一人だった。いわゆるオルグ活動を進めていたのである。建築科を諦めさせたい彼の狙いは、マルクス主義の勉強をさせることにあった。
 その年の夏、孫氏は決意する。「民族を救うためには学校の勉強をいくらやっても意味がない。郭沫若さんや魯迅さんの例もあるから、私もやはり米さんたちの仲間になろう」と。こうして彼は学業を事実上放棄し、マルクス主義に熱中する。翌40年に中国共産党の外郭団体に秘密裏に加わることになった。
 彼の日本での生活はマルクス主義の勉強と抗日運動の展開にあった。しかし、抗日青年であった彼は、同時に日本の生活にも馴染んでいった。東工大の近くの自由が丘で日本人宅に下宿し、畳の生活を満喫した。朝食には生卵と納豆が欠かせなくなり、夏は浴衣とゲタで銭湯に通い、帰りはかき氷で涼をとったという。
 彼は融通のきかないガリガリの共産主義者ではない。また心底、抗日に徹し切れたわけでもない。戦争という時代が、彼を共産主義者にし、抗日運動に駆り立てた。確かに日本留学は、皮肉にも「抗日思想」の決定的契機となったと彼は語る。しかし、新中国成立後は一転して日中友好の掛け橋として、道なき道を作り上げる仕事に尽力する。
 「日中友好で一番重要なことは、人間と人間の関係だということだ。お互いに心と心で付き合う友情が大事だと考えている」。晩年の彼の言葉である。様々な困難に遭遇しながらも、日中の友好関係に諦めることなく尽力してきた彼の言葉には、重みがある。人間と人間が「情」を通じ合えれば、分かり合えるという信念が彼の言葉にはにじみ出ている。体験と実績がそう言わしめるのであろう。

日中友好の掛け橋として

 彼の生涯において「空白の5年間」がある。66年頃から始まった文化大革命である。当時彼は東京連絡処の首席代表の立場であった。67年、一時帰国のつもりで北京に帰った彼を迎えたのは紅衛兵だった。中国共産党内の劉少奇氏、鄧小平氏などが「実権派」「走資派」とレッテルを貼られてつるし上げられた。東京連絡処の彼も「実権派」と決めつけられてしまったのである。
 彼は家族と別れ、山東省の五七幹部学校で労働と学習をする毎日を過ごした。この期間は5年間に及ぶ。71年頃から、文革はようやく鎮静化した。彼の「空白の5年間」に終止符を打ってくれたのが、周恩来首相の一言であった。「文化大革命以前に、中日関係の仕事をしていた孫平化は今どこにいるのか。どうなっているのか」。72年5月彼は北京に呼び戻され、中日友好協会に復帰した。
 日中の友好の掛け橋として、彼の経験、人脈が中国政府には不可欠だったのである。日本の政界、財界に何でも話し合える友人が彼には多い。これは日中友好にとってかけがえのない財産であると彼自身語っている。この財産を最大限に生かしながら、彼は72年の日中国交正常化を成し遂げ、その後の日中友好関係に貢献した。まさに最初に井戸を掘った人物の一人として歴史に名を残すことになった。
 日本は、彼の貢献に感謝して、1992年彼に勲一等瑞宝章を授与した。さらに94年には母校の東京工業大学は、彼に名誉卒業証書と名誉博士号を授けた。彼は1943年に翌年の卒業を前にして、祖国救国と抗日のため帰国していた。50年目の卒業証書である。木村孟学長からこれらを手渡されたとき、彼の目には涙が浮かんでいた。
 50年の歳月は、彼にイデオロギーの差異を越えさせ、抗日を親日に変えさせた。「大切なのは人と人との交流である」。これは彼の信念であると共に、次の世代の人々への遺言である。



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