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横川省三 
(よこかわしょうぞう) 

国家に殉じた愛国の志士 
民間人の工作員  所持金をロシア赤十字社に寄付 

  横川省三は、民間人でありながら、溢れる愛国心の持ち主であった。日露戦争勝利のため危険な工作活動を志願し、日本をロシアの脅威から救おうとした。銃殺刑という悲劇で人生の幕を下ろしたが、死に臨む態度が敵であるロシア人の心に深い感銘を与えた。

ロシア人を感動させた工作員

横川省三

  今日、横川省三を知るものは極めて少ない。明治時代に活躍した歴史上の人物としては、ほとんど無名に近い存在である。しかし、明治という近代日本の揺籃期に、大きな志と大義に生き、最後は国家のために殉じて死んでいった彼の生涯は、特筆されるべきであろう。
  横川省三は、日露戦争時に「特別任務班」の一員として、蒙古、満州(中国東北地方)地域に潜入した。ロシア軍を後方から攪乱する破壊工作の使命を受けていたのである。今で言うスパイ工作である。軍隊経験のない民間人の彼が、こうした危険な破壊工作に携わるようになったのは、溢れる愛国心の故であった。
  運悪く逮捕され、処刑される身となってしまったが、裁判中の堂々たる態度、またその人格は、ロシア人の心を打つものがあった。裁判に携わった判事などが、ロシア軍総司令官に対し減刑の請願書を提出したほどである。彼の波瀾万丈の生涯は、銃殺刑という悲劇で幕を閉じた。しかし、その生き様、死に様は、当時の日本人の心を揺さぶっただけではない。敵であるロシア人にも深い感銘を与え、強く記憶されることとなった。

家族を捨て上京

  幕末の1865年4月4日、南部藩(現在の岩手県)の盛岡で横川省三は生まれた。父の名は三田村勝衛、母の名はくに。次男として生まれ、幼名は三田村勇治。横川の名は、後に結婚して妻の実家に養子入りしたためである。代々南部藩に属する武士の家系であり、少年期に受けた武士道的訓育が勇治(後の横川省三)の人間形成に多大な影響を与えた。
  横川省三の社会人としての出発は、小学校の教師からであった。家庭の事情で岩手中学を中退し、わずか16歳で小学校に奉職した。その3年後の1884年5月、横川家の次女・佳哉と結婚、横川家に養子入りした。
  ところが結婚の2ヶ月後、驚くべき行動に出る。新妻佳哉を残し、単身東京に出てしまった。佳哉はただ無言で、村を去る夫の後ろ姿を見送ったと言われている。この時、彼女の体には彼ら二人の新しい生命が宿っていた。
  いったい何故彼は突然、妻を捨て出奔したのか。妻を嫌っていたわけではない。その後の彼の人生がそれを証明している。では何故だろう。一言で言えば、抑えがたき向学心であったと思われる。10代半ばで、彼は自由民権の強烈な洗礼を受けていた。明治新政府の藩閥的傾向に対して、民権の拡大を要求する政治運動である。その渦中に10代の少年が飛び込み、決定的な感化を受けたのである。
  新婚生活自体に何ら不満はない。しかし、このまま田舎に閉じ籠もって人生を終えるのか。東京に出て、もっと勉強し、日本や世界を舞台に活躍したい。内面にわき上がる抑えがたい衝動が、19歳の少年の心を突き動かした。後ろ髪を引かれる思いで、村を出て上京の途についたのである。

帰郷

  東京で横川省三は、自由党の政治結社「有一館」に寄宿した。自由党急進派に対する政府の弾圧は苛烈を極め、そのあおりで省三も逮捕され、1年9ヶ月にわたり収監された。彼が帰郷するのは、釈放された直後のことで、東京退去の命を受けてのことである。家をあけて、3年9ヶ月が経っていた。
  省三の足は、佳哉のいる横川家に向かった。しかし足取りは重い。新妻を残して、勝手に東京に出たことは、弁解の余地のない許し難い行為である。何と言って詫びようか、思案するばかりである。さすがに直接家に入る勇気がなく、隣家の旅館の一室から、垣根越しに家の中の様子をうかがっていたという。
  省三に気づいた旅館の奥さんが、そっと佳哉に告げに行ったが、佳哉は胸の高鳴りを覚えつつも、その時は夫に会おうとはしなかった。心にわだかまりがあったばかりではない。省三を危険人物と見なす世間の冷たい目を気にしてのことでもあった。省三が家族と直接再会するのは、それから2、3ヶ月後のこと。親戚の仲介によってであった。

サンフランシスコへ

  1890年の末、友人の口利きで朝日新聞社に職を得、家族そろっての東京生活が始まった。次女が誕生した直後のことで、家族は4人となっていた。死を恐れぬ彼の精神は、その取材ぶりにいかんなく発揮された。
  日清戦争時、海軍の従軍記者に志願したときのことである。彼は記者として水雷艇に乗り込むことを希望した。しかし、それはあまりにも危険すぎる。当然許可が下りない。「僕を人間と思わずに、器具の一つとして積み込んで下さい」と食い下がった。艦長はあきれつつも、彼の勇気に敬服して、許可を与えた。
  こんな取材ぶりであったから、読者から好評を博し、たちまち看板記者の一人となる。しかし、ここを6年間ほど勤めて、突然退社してしまう。おそらく家計の問題があった。妻は眼病(白内障)と肺結核を患っていた。収入の多くはこの治療費で消えていく。その上、省三は横川家と実家の三田村家の両方の家族を養っていた。
  生活は常に困窮していた。省三はアメリカに農業経営の夢を託すようになる。1897年5月、単身でサンフランシスコの土を踏んだ。32歳のことである。

妻の死

  カリフォルニアは日本人移民の受け入れもよく、農業生産も有望と伝えられていた。しかし、移民の現状は惨憺たるものであった。彼らの多くは夢が萎み、酒と賭博の日々。同胞としての協調性もなく、日本人の誇りすら見失っていた。このまま彼らを放っておくことはできない。持ち前の義侠心が頭をもたげた。省三は、自ら農業経営者になる夢を据え置き、移民たちが夢と誇りを取り戻すため、新聞発行を決意する。
  省三の活動は、新聞発行と日本人移民のケアーに費やされた。約1年半後、悪い知らせが届いた。佳哉の病気が思わしくないという。省三は急ぎ、帰国の途についた。
  久しぶりに会う佳哉は、病気も一段と進み、床に伏せたまま起きあがることができない状態であった。夫の顔を見て、佳哉は安心したようにやつれた顔に笑みを浮かべた。佳哉に添い寝をしながらの必死の看病にもかかわらず、その1週間後の夜半、佳哉は夫の腕の中で静かに息を引き取った。36歳という若さであった。
  翌朝、目を覚ました二人の娘を抱きしめながら、省三は母が死んだことを告げた。「びっくりしてはいけないよ。お母さんが昨晩死んだよ。でもお父さんがいるから心配ない」と言って、二人を慰めた。妻には苦労ばかりさせ、一日も楽をさせてあげられずに死なせてしまった。そんな思いがこみ上げてくる。妻の最期に立ち会ったことだけがせめてもの償いであった。

特別任務班

  佳哉を失って3年が経ち、省三は清国公使内田康哉の要請で中国大陸に渡る。ロシアの脅威が現実的になりつつあった1901年10月のことである。内田は、満州・蒙古地域へのロシアの進出状況を調査するため、有能な民間人を必要としていたのだ。
  省三の唯一の心残りが、二人の娘のことである。「お父様、もう何処にも行っちゃいや」と泣く娘たちに、「もう、これっきりじゃ。すぐに帰るから」と言って、弟に二人を預けて日本を発ったのである。国の危機に直面して、じっとしているわけにはいかない。横川省三とはそんな男であった。
  1904年、日露戦争が勃発。内田公使は特別任務班の編成を決断した。ロシアの生命線とも言えるシベリア東清鉄道を破壊し、その輸送路を遮断することを目的としていた。危険な任務である。生きて帰る保証はどこにもない。省三に声がかかった。「喜んで参加させていただきます。もとより一身を投げ出す覚悟はできています」と即座に返答した。
  特別任務班は、7班に分かれており、総勢47人、大部分は民間人であった。一同は、祖国のために命を捧げることを誓い、2月21日、厳冬の満州、蒙古に向けて北京を出発した。横川の班は、満州の雪原を約50日間、千2百キロ歩き、ようやく鉄道の見える場所、チチハル付近の目的地に到着した。

名誉の銃殺刑

  目的達成を目前にして、省三と同班の沖禎介は、巡回中のロシア軍コザック騎兵にあえなく捕らえられてしまった。二人は即ハルピンに移送される。軍法会議にかけられるためである。検察官は彼らは民間人であるとして、絞首刑を求刑したが、省三はそれに異議を唱えた。「どうか軍人に対する礼をもって、銃殺刑に処していただきたい」と嘆願して、名誉ある銃殺刑を強く希望した。
  裁判長は、慎重な審議の末、二人を軍人として扱い、銃殺刑とすることを決めた。しかし驚くべきことに、裁判長はロシア軍総司令官クロパトキンに彼らの減刑を請願したのである。二人の礼儀正しさ、その落ち着き、そして国家のために命を捧げ、潔く死に臨もうとする姿に心打たれていた。「こんな立派な人間を殺すのは惜しい」と思ったのである。しかし、クロパトキンの判断は、「判決通り、銃殺刑に処すること」であった。銃殺刑の判決を聞いて、二人は満足そうに笑みを浮かべ、裁判長と法務官に深々と一礼したという。
  死に臨み、省三は唯一心残りであった二人の娘に遺書を書いた。「健康に気をつけて国のために尽くせ」と書き、最後に所持金(500両)を娘たちに送る旨が記されていたが、これはすぐに訂正された。「この手紙と共に500両を送ろうとしたけれども、全てロシアの赤十字社に寄付した」と記されていた。手元に残った所持金は工作資金であり、いわば公金である。これを私的に用いることはできないと考え、ロシア赤十字社に寄付したのだ。
  4月21日、処刑当日。刑場にはロシア軍将校、外国観戦武官、一般ロシア人などが集まり黒山の人だかりであった。敵国の赤十字社に所持金全てを寄付した省三の前例のない行動は、ロシア人を驚嘆させ、感動させた。二人を一目見ようと押し寄せたのである。
  死刑執行官は、射撃手に「射撃用意」と命じ、その後次のように付け加えた。「愛をもって撃て」。尊敬すべき二人の日本人が苦しまないように、正しく心臓を狙えということである。二人は最期に「天皇陛下万歳」を叫び、39歳の若さで刑場に露と消えた。
  後に死刑執行官シモノフは、ロシア革命後、日本に亡命し、盛岡を訪ねた。そして長女の律子と会って言った。「お父さんの立派な最期の様子をいつか直接お伝えしようと思って、今日まで待っていたのです。あなたに会えてこんなに嬉しいことはない」。シモノフの目から、大粒の涙が流れていた。彼は横川省三の最期に軍人の理想を見たのである。



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