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柳宗悦 
(やなぎむねよし)

美に見る人類の普遍的価値
「日本と朝鮮は兄弟」  美しい品物への恩返し

 柳宗悦はナショナリズムの熱狂の渦の中に生涯身を置くことはなかった。それは朝鮮の李朝陶器との出会いがあったからである。朝鮮芸術の中に発見した美を通して、人類の普遍的精神のあり方を見いだしていく。支配する側の国民でありながら、支配される側の痛みを感じ取ろうとした希有な日本人であった。

李朝陶器との出会い

 柳宗悦は、日本民芸運動の創始者である。白樺派の文人でもあり、日韓併合(1910年)以降の日本の植民地政策を断固として批判した思想家でもある。1926年4月に「日本民芸美術館設立趣旨」を発表し、それから10年後の1936年10月、東京の目黒区に日本民芸館が完成し、宗悦はその初代館長に就任した。
 柳宗悦が推し進めた民芸運動とは、民衆が日常使用する用具(壷、膳、棚、家具、水滴などの工芸品)に美を見いだそうとするもので、一種の文化運動であった。普段何気なく置かれ、使われている工芸品に柳が関心を向けたのは、朝鮮(当時の一般的呼び方)の李朝陶器に魅せられたのが、きっかけであった。日本の朝市で李朝陶器や朝鮮の工芸品を蒐集し、たびたび朝鮮に旅行してはこれらを買い漁った。こうして集めた作品を彼は朝鮮に送り、京城(現ソウル)の景福宮内に「朝鮮民族美術館」を設置したのである。これは「日本民芸美術館設立趣旨」を発表した2年前(1924年)のことで、宗悦は35歳であった。
 朝鮮民族美術館の設置は平穏に行なわれたわけではなかった。当時、朝鮮は日本の植民地であり、総督府が置かれていた。総督府は「民族」の2文字に敏感に反応し、これを削除せよと言ってきた。しかし、彼は断固としてこれを拒絶した。反感は日本側からだけではなかった。朝鮮の人々からも、「焼き物などは下賎な民の作ったもので、そんな品々で朝鮮の美を語られては、とんだ迷惑だ」と非難された。陶器をはじめとする日常の工芸品に美を発見するということは、それほどに革命的なことであったのである。

朝鮮を思う心

 1919年3月1日、日本の植民地支配に反対して、「独立万歳」の声が上がり、半島全域で反日独立のデモが勃発した。有名な3・1独立運動である。
 宗悦はこの事件を黙って見過ごすことができなかった。朝鮮芸術への思慕の情が彼の心を突き動かしたのであろう。当時、日本のほとんどの識者が沈黙した中で、読売新聞に「朝鮮人を想う」という一文を投稿した。彼のこの原稿は、日本人でありながら、被支配者である朝鮮の人々の立場を想う心情に溢れていた。彼は朝鮮支配を正当化する政治家や学者の論説を読み、「ほとんどなんらの賢さも深みもなく、また温かみもないのを知って、余は朝鮮人のためにしばしば涙ぐんだ」と述べている。そして「我々日本人が今朝鮮人の立場にいると仮定してみたい。おそらく義憤好きな我々日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であろう」とさえ言っているのである。
 彼は反抗する朝鮮の民衆より、一層愚かなのは圧迫する日本人のほうではないかと論じ、日本人の良心の覚醒を促そうとした。「刃の力は決して賢い力を生まぬ」とし、「国と国とを結び人と人とを近づけるのは科学ではなく芸術である。政治ではなく宗教である。智ではなく情である。ただひとり宗教的もしくは芸術的理解のみが人の心を内より味わい、そこに無限の愛を起こすのである」と語った。
 こうした宗悦の考えは当時の日本にあっては、きわめて特異なものであった。植民地支配を疑う者は非国民であり、朝鮮の独立に同情する者は売国奴とされた時代である。宗悦の精神は、人間の本質をしっかりと見据えていた。だから、時流に流されることはなかったし、自己の内面に沸き上がる良心の叫びに忠実であったのである。

柳夫妻の朝鮮行

 3・1独立運動に直面して、宗悦は彼の考えを文章で伝えるだけでは満足できなかった。朝鮮に渡ろうと決意する。彼の心を朝鮮の人々、あるいは朝鮮にいる日本人に伝えたかった。声楽家である夫人(兼子)の音楽会と彼の講演会を開き、その収益金を朝鮮の人々のために使いたいと考えたのである。
 1920年5月、柳夫妻は朝鮮に旅立った。まだ3・1デモが起こって1年も経っていない時期のこと。日本人に向けられた憎悪は収まってはいなかった。彼の内情はどうあれ、日本人であるというそのことが、憎悪の対象になる可能性があった。危険な旅である。それに総督府からみても、彼は危険分子とされることは一目瞭然であった。
 しかし彼は心に秘かに期するものがあった。「もし朝鮮に入って憎悪の刃を受けるならば、自分の情がまだ不純なものである証拠である。国と国とが情愛によって結合される世界がある。そのことを朝鮮に渡ることで味わいたい」。
 京城での音楽会は、妻兼子が滞在した10日間で7回開かれ、宗悦の講演会は滞在20日間で4回開かれた。ある講演会の控え室で、宗悦が待機しているときのこと。一人の朝鮮人が近づいてきて言った。「今晩あなたがたにまで警察の監視がひどいようです。どうか注意してください。あなたの身の上にもしものことが起こっては、申し訳ありませんから」。一人の見知らぬ人の言葉に宗悦は感動した。日本人が朝鮮に味方するように祈ってきた彼ではあったが、この時かえって朝鮮の人に味方されていることを感じたからである。
 微笑ましい光景にも出会った。一人の若い日本の女教師が12、13歳の頃の朝鮮の生徒たち5、6人を連れて遠足にでも行くのだろう。プラットホームを後にするとき、若い教師は子供たちに囲まれ、彼らを抱くようにしてかかえていた。子供たちは先生の名前を呼びながら、しっかりと先生の着物を握りしめ、一緒に列車を降りていく。そこに彼が見いだしたのは、民族の壁を越えた、一人の教師とその教師を慕う生徒たちの麗しい師弟愛そのものの姿であった。彼の目から、急に涙がとめどなく落ちた。

妹の死

 さて柳宗悦の朝鮮との関わりをさらに深める事件が起きた。妹の死である。妹千枝子は朝鮮総督府に勤務する今村武志に嫁いでいた。そのため、夫と5人の子供たちと一緒に京城(ソウル)で生活をしていたのである。この千枝子が6人目の子供を出産し、その産褥熱が命取りとなり、30歳で他界した。不幸は続く。千枝子の葬式の朝、彼女の4番目の子供が急死。その日、千枝子とその子供の大小二つの棺をその家から出すことになった。1921年の8月のことである。
 千枝子は宗悦の2歳下の妹である。父親が死んで6ヵ月後に生まれたため、父親を知らない。父親を知らずに育った千枝子は、死ぬ直前、意識朦朧の状態で、未知の父と会って話をしたという。さらに東京にいる母とも会ったと夫に告げている。宗悦はこうした妹を不憫に感じてならなかった。父親の記憶を持たない点では、宗悦においても同じである。死に際して親に一度会いたいと念ずる千枝子の心の中に、自分自身の姿を見いだしていたのかもしれない。
 多くの思いを京城に残し、ひとり東京に戻った宗悦は手記をしたためた。「私は昼も夜も彼女の思い出に襲われている。おお、愛する妹よ。異邦の都、北岳が聳え、南山が対し、漢江がそのほとりを流れるあたり、汝の霊は今も愛に燃えつつ漂っているであろう。夫を思い、また多くのいとし子を思って、身は別るるとも心は別れじと思うであろう。身は死すとも愛は彼らの内に甦るであろう。おお、妹よ、再び汝の笑顔を見えないとはいえ、汝の兄は汝を訪ねに、また海を渡って旅するであろう。」
 宗悦の妹への愛情は、その死をもってますます深められ、妹の記憶は京城と不可分となった。朝鮮は宗悦の情念のなかに焼き付いてしまったように思われる。

美に恥じない人格

 柳宗悦の李朝陶器との出会いは、朝鮮芸術への欽慕の情へと発展し、さらには朝鮮の人々への愛情へと昇華した。彼は日本の朝鮮に対する同化主義を断固として批判した。彼にとって朝鮮は日本の兄弟であって、奴隷であってはならなかった。日本の古来からの芸術品は、虚心に調べるならば、朝鮮にそのツールを持つものである。文化的には朝鮮は日本の師であるのだ。宗悦は言う。「その恩を忘れて、日本が武断主義をもって、朝鮮の文化を破壊したり、彼らの自由や人倫を蹂躙すれば、滅びるのは朝鮮ではなく日本である」と。
 宗悦は、自分の収入の大半を朝鮮や日本の民芸品の購入に惜しみなく使った。その数は膨大なものになる。しかし、一つとして彼は自分の所有としなかった。朝鮮の人々が作った作品は、朝鮮の土地に置くべきだというのが、彼の理想であった。そのため、朝鮮の作品のほとんどを朝鮮民芸美術館に寄付したし、日本の作品も日本民芸協会に寄付してしまった。自分の家すら、民芸協会に寄付したため、子供たちには遺産を一切残さなかった。
 これらの行為は、宗悦にとってはむしろ当然であった。彼は「多くの美しい品物から私が受け取らせていただいたもろもろの恩へのお礼」をしたかった。そのお礼として、朝鮮の作品は朝鮮に帰すべきだと考えたのだ。さらに彼は言う。「美しい品物を持つ者は、その美にあやかって、心の美しい人間にならなければならないし、自分を清め、自分を深める必要がある」と。
 宗悦にとって、美を愛するということは、その美に対面する自己の人格と離れてはありえなかった。その美に恥じない自分自身となれるかどうか。作品の美を希求することと自分の中に聖なるものを見いだそうとする精神は、彼の中では同じことであったのだ。芸術の本質は、美である。美の本質は精神であり、それは人類普遍の価値である。その本質をしっかりと捉えていたがゆえに、偏狭なナショナリズムの時流に流されることなく、自分自身の生き方を貫くことができたのであろう。