Top向学新聞>グローバル時代の言語教育を考える 対談 羽田正氏×佐々木瑞枝氏 2020年4月1日号

グローバル時代の言語教育を考える


対談
東京大学副学長 羽田 正 氏
武蔵野大学名誉教授 佐々木 瑞枝 氏


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日本の大学の学部の授業は日本語で



 グローバル時代の大学における言語のあり方、日本語教育のあり方はどうあるべきだろうか。東京大学副学長の羽田正氏と、武蔵野大学名誉教授の佐々木瑞枝氏が、東京大学のグローバルコミュニケーションセンターで行った対談の内容を掲載する。


写真左:羽田 正(はねだ・まさし)
大阪出身。東京大学大学執行役副学長・東京カレッジ長。専門は世界史 。京都大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。京都橘女子大学文学部助教授、東京大学東洋文化研究所教授、同所長。2012年東京大学副学長・国際本部長、2016年東京大学理事・副学長。2019年から現職。

写真左:佐々木 瑞枝(ささき・みずえ)
京都出身。横浜国立大学教授を経て武蔵野大学大学院教授、現在、武蔵野大学名誉教授、金沢工業大学客員教授。専門は日本語教育学。主な著作に『外国語としての日本語』(講談社現代新書)、『クローズアップ日本事情15』(ジャパンタイムズ出版)他多数。



 
グローバルの負の側面


佐々木 羽田先生は、「グローバル」というものには負の側面もあると指摘していらっしゃいますね。


羽田 均一化することで、人間や人間集団の個性と価値観が失われていく。それがグローバルの負の側面です。その意味で先生のご専門の「言葉」はとても大事です。私は留学生には日本語をしっかり教えないといけないし、日本の大学の少なくとも学部教育では、英語の授業も大事ですがそれだけでは絶対ダメなんだと国際本部長でありながらも言い続けてきました。


佐々木 様々な大学の学長とお話すると、「私の大学では英語の授業がこれだけあります」とよくおっしゃいます。私は「英語は必ずしも各言語に翻訳できないし、日本語から英語にすると違ってくる意味もたくさんあるのに、どうしてそんなに誇らしげにおっしゃるんですか」と言うのです。これからの大学における言語のあり方についてはどうお考えですか。


羽田 『グローバル化と世界史』にも書きましたが、日本語でものを考えて表現するのはひとつの知の体系に基づいて行っています。この知の体系は、英語とも中国語とも重なってはいますが完全には一致しません。その重ならない部分こそが重要で、多様性が大事だと言っている以上はその部分をこそしっかりと身につけないといけないのです。英語だけにしてしまうとそういう部分の理解が全くなくなり、どこに行ってもみんな同じような価値しか認めなくなります。それはまさにグローバル化の悪い側面です。やはり日本の大学の学部の授業は日本語で行い、少なくとも日本語の意味と価値の体系をしっかりと教え込むことです。
 しかし現代においては外国人と付き合わないわけにはいかず、コミュニケーションのツールとしての英語は必要だという現実があります。


佐々木 私の著書の一冊で「外国語としての日本語」でも書いていますが、日本語には日本人が使う日本語と、外国人に教えるグローバルな日本語との二つがあります。グローバルな日本語は、共通語としての英語を日本語にしたようなものでもいいと思います。


羽田 グローバルな日本語はあっていいと思います。よく日本人が外国人に、発音がちょっと悪い、日本語ではそんな言い方はしませんなどと言いますが、それを言ってはいけないんですよ。


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理系留学生と日本語


羽田 留学生に関して言えば、東京大学には今四千人を超える留学生が在籍していて、そのうち学部は三百人程度、残りは全部大学院です。特に工学系を中心とした人たちが二千人台後半ととても多く、その他数百が文科系の人たちです。文科系の院生は日本の文化や教育、政治など日本関連の研究をしているので日本語が必須ですが、残りの三千人以上は日本語を学ばなくてもいい人たちなんです。学業だけなら理科系は授業も英語でできますし、日常レベルでも研究室は完全にマルチナショナルで共通語が英語になっているので、それほど日本語は必要ではありません。
 一方、生活するための日本語は必要です。問題はサバイバルジャパニーズと、かなり高度な論文を書くような日本語の二つに完全に分かれてしまうことです。両方に合わせるのは大学全体としては非常に大変ですので、結局工学系と文科系それぞれで特化された自分たちの日本語教室を作ってしまっているんですね。


佐々木 でもそれができる点では東京大学は素晴らしいと思います。普通はレベル別のクラスを作ります。ただ理系は必ずしもレベル別クラスが必要なわけではなく、例えば私は金沢工業大学で英語で日本語の授業をしています。アメリカからの工学系留学生などは研究を英語で出来てしまいますので、英語で「これは日本語ではこうなっています」と説明しています。


編集部 日本語には日本語独自の体系があり、価値観もそこに含まれていると思います。例えば日本人が「人に迷惑をかけない」ということのとらえ方は、外国人とは違っているので直訳できない場合があります。


佐々木 老人が「家族に迷惑をかけたくないから」といったシーンがよくドラマに出てきますが、留学生に教える時は「迷惑をかけたくない」がどういう意味だと具体的に言わないとダメなんです。価値観は国によっても違うし、日本の中でさえ、例えば大阪の人たちは気さくに他者に話しかけますが、お隣の京都の人たちはあまり他者に干渉しない傾向があります。それぞれそれなりの歴史的な積み重ねの中での歴史を持っているのに、それをグローバルの一括りで全部同じ解釈にしようとするのは間違いだということですね。


羽田 それはしようとしても無理ですよね。そうすべきではないと思いますし、そうならないとは思います。


佐々木 でも価値観の違いによる衝突は現実の世界で起きています。先生は昨年11月の地球システム・倫理学会のシンポジウムで、「バベルの塔」についてはみなと違う解釈をしていて、逆に、それぞれの価値観を持っていていいんじゃないかとおっしゃっていましたね。


羽田 そのかわりお互いに理解し合わないといけません。なぜそれを言っているのかという部分のコミュニケーションが必要なのですが、それが英語一本やりになってしまっているのをどうするかが大きな問題です。私は言語は横に平たいネットワークのようになるべきであって、英語にだけ集中するのはやめたほうがいいという意見です。


佐々木 絶滅言語も相当出てきているので、言語が集約されていく方向性は仕方ないとしても、やはりいくつかは地上に残って欲しいなとは思いますね。あるオーストラリアの映画で、裁判の時に絶滅言語を話す人の言葉を誰も理解できず裁判できなかったという話がありました。結局は最低限コミュニケーションできる言語が生き残っていくのだろうとは思いますが、私はやはり日本語は生き残って欲しいなと思うんです。


羽田 日本語は抽象的で高度な内容を表現でき、しかも日本語に独特の価値と意味があるので、簡単には英語になりません。外国人には難しい言語でしょう。しかし宇宙から人間、ミクロのレベルまですべてを日本語で理解できるというのは、実はすごいことなんです。私は昨年12月にモロッコの研究集会で、全て英語で済ませようとするのはダメだという意見を発表して気が付いたのですが、モロッコでは特に学術界、理科系科目は全てフランス語で教えているのです。アラビア語は文系の研究言語の一部になっていて、文系ですらアラビア語とフランス語がパラレルになっているんです。承知してはいましたが、実際私が英語で発表するとそれがフランス語に翻訳されるのです。アラビア語と並んでフランス語が半分国語のようになっていて、その上にさらに英語がかぶさっているという状況なので、そう簡単に「ネイティブのローカルな言語と、グローバル言語」という形にはなりません。
 だから日本のように全て日本語で扱えるのはある意味ですごく恵まれています。ヨーロッパの一部の国やアフリカ諸国だと、おそらくローカルの言葉だけでは全てを説明できなかったり議論できなかったりするところもあると思います。


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編集部 ここで羽田先生のご専門である世界史のお話をさせていただきたいのですが、先生はご著書で「グローバルヒストリー」の有効性を説いていらっしゃいます。それがこれまでの西洋的な歴史観のドグマを脱した新しい世界史であるならば、当然それは新たな東洋的な歴史観の構築とも異なるものでしょうか。


羽田 西洋と東洋と二項対立的にものを見る見方は、よく西洋中心的だといいます。西洋の人は「西洋と東洋」というふうにものを見るんだといいますが、実は日本人がその典型なのです。元々中国では日本などのことが「東洋」と呼ばれていました。中国から見て東方を東洋といい、中国から南に向かいその後西に回る航路上の陸・海域を西洋と呼んでいたのです。小東洋、大東洋があり、小西洋・大西洋という表現が用いられていました。今でも大西洋は使われますが、それはこの中国的世界認識の名残です。東洋は元来日本、琉球、フィリピンなどと太平洋地域を意味したのですが、十九世紀半ば過ぎの日本で、日本、朝鮮半島、中国などを指す語に転用されました。一方、現在「欧米」と言われることの多いアメリカと西ヨーロッパをまとめて「西洋」と呼び、西洋と東洋を対立的に捉えるようになりました。その意味で、西洋対東洋という見方は、日本に独特のものです。
 いずれにせよ、グローバル化が進む現代において、二項対立的に世界を理解しようとするのはよくないと私は思います。特に、日本で、「西洋に対する日本を含むその他」という十九世紀から二十世紀前半の世界認識が未だに改まらないのは残念です。
 アメリカと西ヨーロッパを同一のカテゴリーに入れて論じるのは、日本語の知に見られる大きな特徴です。例えば「欧米の大学」とすぐ言いますが、アメリカとヨーロッパは相当異なる世界です。例えば、フランスやドイツの大学は、日本の大学と同様に、英語の知への対応を迫られています。欧米ではこうだから日本もそれに従うべきだ、あるいは、西洋対東洋ないし日本という対立構造で論理を組み立てることは、明治以来、日本語に一貫して見られる特徴です。そろそろそこから脱して、グローバルな世界の中で日本はどうあるべきかという議論が主流になってほしいところです。


編集部 世界の現状に基づくグローバルな世界認識が必要ということですね。


佐々木 同じ英語圏でさえニュージーランドとオーストラリアとは互いに認め合わない面がありますし、カナダとアメリカもそうですし、それらを一括りにして考えてしまうのは多様性を認めないということになります。
 その意味では先生もお書きになっていますが、これからは異なる言語どうしの双方向交流が必要になると思います。いま留学生が絶えず「どこかの言葉に同化しなくては」、「日本語で授業を受けなくては」、「日本語で話さなくては」という一方的な圧力にさらされているのは、かわいそうですよね。ですから私はなるべく皆が共通語として話せるような日本語を使ってはどうかと言っています。
 言葉自体は自然な積み重ねですからその体系は壊せないにしても、価値観は誰かが壊せば壊れるんです。世界にはこれだけの国があるのだから、英語だけではなくもっと色々な言語を大事にしようと言えば、価値観はひっくり返せるものだと思います。


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◆書籍紹介
『グローバル化と世界史』
東京大学出版会 刊
羽田正 著

グローバル化する世界のなかで人文社会科学が果たす役割と、グローバルヒストリーの有効性を示す。現代世界をどう理解すべきか、その問いに歴史学が答える。







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