山本慈昭 
(やまもとじしょう) 

山本慈昭


中国残留孤児の肉親捜し 
最後の一人まで捜す  国を動かし予算化に成功 

 第二次世界大戦末期、中国の満州に開拓移民として渡った山本慈昭は、敗戦後そこで地獄を見た。家族から引き離され、シベリアに送られた山本は、帰国後、妻子が満州で死んだと知らされた。山本の残留孤児の肉親捜しの運動は、自らの満州体験に裏付けられたものであった。

「中国残留孤児の父」

  1932年、現在の中国東北部に満州帝国が建国された。日本の関東軍の画策によるもので、清国最後の皇帝溥儀を元首に立ててはいるが、事実上は日本の支配下にあった。以来、日本政府は大々的に満州移民政策を推進し、それは第二次世界大戦末期まで及んだ。
  しかし、日本の敗戦により、満州移民は悲劇を味わうことになる。この地域に侵攻してきたソ連軍からの逃走。彼らは乳飲み子や幼児を満州の中国人に預けて帰国するという苦渋の選択をせざるを得なかった。これが中国残留孤児の悲劇である。
  山本慈昭は、満州に残された残留孤児たちを捜し出す活動に生涯を費やした。「中国残留孤児の父」と呼ばれている。一人でも多くの孤児たちを肉親に会わせてやりたい。その思いが、「日中友好手をつなぐ会」の設立となり、ついに政府を動かすまでに至る。実は、山本慈昭にとって、この残留孤児捜しは、我が子を捜し出すことでもあったのだ。

8歳で出家

  山本慈昭は、1902年長野県飯田市に生まれた。小学1年の時、父を亡くし、東京で働かざるを得ない母と別れ、祖父母に育てられた。放蕩三昧の生活に溺れて死んだ父に対して、身内の者たちの怒りは激しく、葬式もまともにしてあげることができなかった。信心深い祖母は、そのことをずっと気に病んでおり、8歳になった梅雄(慈昭の本名)に僧侶になるよう懇願した。自分の息子、つまり梅雄の父の供養を願ってのことである。
  8歳で出家した梅雄は、少年期、青年期は、まさに仏教の修行に明け暮れる日々を過ごすことになる。12歳で名を慈昭と改め、19歳で京都の比叡山に移り住んだ。本格的な修行を開始するためである。その後、ハワイで比叡山延暦寺の別院創設に携わり、1937年、35歳で故郷に近い阿智村の長岳寺の住職となった。この寺は戦国の武将武田信玄の亡骸を焼いたことで知られる由緒ある寺ではあったが、所詮は貧しい田舎寺。慈昭は小学校の教員を兼任することで、収入の足しにせざるを得なかった。

最後の開拓団

  山本慈昭が住職となって長野に戻った時期、日本は全国的な不況に襲われていた。政府の満州移民政策がすすめられたのは、この時期のこと。県や国の役人は、農村を足繁く通い、「満州に行けばいきなり大地主になれる」とその夢を語った。長野県の貧しい農民たちはこれにとびついた。長野県から満州、蒙古に渡った「満蒙開拓団」は約50開拓団、人数にして約3万人、全国最大規模となった。
  山本が属していたのは阿智郷開拓団。330名からなっていた。山本は、妻の千尋と二人の娘、啓江(4歳)と生まれたばかりの純江を連れて、教師の立場で同行することになった。彼らが開拓地に到着したのは、第二次世界大戦の末期1945年の5月中旬、日本の敗戦は時間の問題となっていた時期のことである。しかし、国民にはその事実は全く知らされることはなかった。開拓地は、現在の中国黒龍江省の宝清県北哈馬。ソ連国境まで約80キロという満州最北端の地であった。日本が戦争に敗れるのは、その3ヶ月後のこと。阿智郷開拓団は、満州に渡った最後の開拓団であったのである。
  8月8日、広島に原爆が投下された翌々日、ソ連は日ソ中立条約を無視して、日本に宣戦布告。ソ連軍は国境を越え進攻した。悲劇の始まりである。この逃避行は、ソ連軍に捕まる8月30日まで続いた。ソ連機の機銃掃射で撃たれて死ぬ者、病気や飢えで命を落とす者、川に流されて行方不明になる者、それはまさに死の逃避行であった。山本は次のような光景をも目撃していた。大きな川を渡ることができない年老いた老人。仕方なく川岸に残し、ありったけの食料を置いて別れざるを得なかった家族の涙。残された老人も、すべてを悟り、おだやかな表情を浮かべ、一行が渡っていく川の遠くを眺めていたという。

ほぼ全滅した開拓団

  8月30日、ソ連軍に捕縛。ついに逃避行は終わった。満州での収容所生活が始まったのも束の間、山本をはじめとする男性の大半は、妻子と引き離されシベリアに連行。シベリアでの1年7ヶ月に及ぶ抑留生活を強いられた。満州に残した妻子や教え子との再会を夢見ながら、極寒の地での重労働に耐え忍んだ。
  1947年春、ついに帰国の時が来た。家族との再会を思い描きながら、故郷の自宅に到着した山本を待ち受けていたのは、悲しい知らせだった。留守を守っていた年老いた母が、目に涙をためて語った。妻の千尋が赤ん坊の純江を背負ったまま、川に流されて母子共に死亡し、長女の啓江も死んだという。
  山本は体から力が抜け、仏前で崩れ落ちてしまった。とめどなく涙が溢れてくる。母の話によると、阿智郷開拓団のうち、8割は戻らなかったという。51名の教え子たちも、戻ったのはわずか6名にすぎなかった。自分にできる何かを始めよう。何かをしなければ、悲しみに押し潰されてしまいそうだった。彼はまず「阿智村・満州死没者名簿」を作り始めた。開拓団の家を一軒一軒回り、彼らの辿った運命を記録に残そうとした。山本慈昭の戦後の第一歩がこうして踏み出された。

日本人孤児は生きていた

  1964年秋、山本は訪中した。目的は、満州の地に眠る家族や仲間の遺骨収集の許可を得るためである。周恩来首相は会談に応じたものの、遺骨収集の許可は下りなかった。訪中の1年後、中国にいる一人の女性から山本のもとに手紙が届いた。黒龍江省チチハル在住の日本人孤児からのものだった。
  訪中した山本のことを何かで伝え聞いたのであろう。肉親捜しを求める手紙であった。山本の体に電撃が走った。死んでいると思っていた子供たちは生きている。他にも大勢生きている孤児たちがいるはずだ。ならば、なんとしても親と再会させてやりたい。それが自分がやるべき仕事ではないか。
  しかし、その年、中国では文化大革命が起こっていた。孤児が日本人だと知れると迫害される恐れがある。何もできないまま数年の時が過ぎた。1969年のこと、さらなる衝撃が山本を襲った。開拓団の一員であった田中与一という老人が死の病に伏していたとき、病床に山本を呼んで語り出した。
  24年の沈黙を破って、田中老人が語った内容は驚くべきものだった。「阿智村の子供たちは、みな死んだと言ったが、それは作り話だった。子供たちの命を助けようと中国人に渡した。山本先生の長女の啓江ちゃんも、中国人に預けられたはずだ」。老人は何度も「本当にすまなかった」と泣きながらわびた。そしてすべてを告白し、肩の荷を下ろしたかのように老人はその2日後に息を引き取った。4歳だった長女も、教え子たちも生きている。山本に希望が見えてきた。なすべきことがさらに明確に見えてきた。

「日中友好手をつなぐ会」

  1972年9月、日中国交が回復するや否や、山本は本格的に動き出した。その翌年、全国の32人の有志と共に「日中友好手をつなぐ会」を結成。厚生省(現在は厚生労働省)をはじめ政府関係者やマスコミを訪ね歩いた。この時、山本はすでに70歳を越えていた。
  1980年、山本は「手をつなぐ会」メンバーと共に訪中を決断した。孤児たちとの手紙のやりとりでは曖昧な点が多すぎた。直接聞き取り調査をする必要性を痛感したからである。訪問地は吉林、長春、ハルピン、瀋陽の4都市、滞在期間は2週間、26名からなる訪中調査団であった。
  吉林市では、政府が認めた約30人の孤児たちと面会した。山本は涙と共にこみ上げてくる思いに言葉が途切れながらも、「私は長生きして、皆さんの親を最後の一人まで捜します」と挨拶した。その頃、ホテルの外では異状事態が生じていた。政府が面会の許可を与えず、調査にあぶれた孤児たちが、大勢ホテルの外に座り込んでいた。
  この光景を見た山本は、いてもたってもいられず、外に飛び出した。制止しようとする役人の手を振り切って叫んだ。「彼らを見捨てて日本に帰ることはできない。わかってくれ」。山本の気迫に圧倒された役人は、それ以上止めようとはしなかったという。この時、聞き取りをした孤児の数は300人にも及んだ。
  同年12月、山本は園田直厚生大臣と会談し、運動の予算化をお願いした。予算化は即刻認められ、翌年81年から残留孤児の集団訪日調査が実施される運びとなった。この時、山本は「もういつ死んでもいいと思った」と後に語っている。民間から始まった運動が、ついに政府を動かしたのである。山本は79歳になっていた。

娘との再会

  1981年3月2日、第1回集団訪日調査のため、47人の中国残留孤児たちが、成田空港に到着した。孤児たちの肉親捜しの来日が、ようやく実現した瞬間であった。2週間の滞在中、身元が判明したのは約半分の24人。肉親が見つからなかった残りの孤児たちは、山本ら会のメンバーの胸で声を上げて泣いた。山本は彼らの手を何度も固く握りしめ、目に涙をいっぱいためながら「今日から、私が皆さんの父親になります。いつでも日本に来て下さい。私の家に来て下さい。待っています」と言った。
  山本の言葉は、単に口先だけのものではなかった。長岳寺の門前に「広拯会館」という施設を建設した。長野県に永住帰国してきた残留孤児家族の生活支援のためである。5世帯25人まで収容可能で、これまで200世帯以上を送り出してきたという。残留孤児家族が、日本語や日本の生活習慣を学び、日本社会に溶け込むための訓練を受けるための施設であった。自らの老齢年金や家も抵当に入れて資金を捻出したという。85年に、この会館ができるまでは、山本は長岳寺近くの自宅を孤児たちに開放した。まさに、言葉どおり山本は彼ら孤児たちの父親となって、最後まで面倒を見ようとしたのである。
  1981年5月、中国から山本のもとに一本の電話が入った。2ヶ月前、訪日した孤児からのものだった。電話の声は弾んでいる。「あなたの娘・啓江さんを捜し出しました」。肉親が見つからなかった孤児たちが、中国に帰った後、山本のために手分けして山本の娘を捜し歩いてくれたのだった。
  山本はすぐに黒龍江省に飛んだ。山村のみすぼらしい民家で36年ぶりに再会した啓江の顔には、40歳とは思えない深いしわが刻まれていた。父も娘も、ただ手を握りしめ、声を上げて泣くばかりであった。啓江が永住帰国を果たしたのは、8年後のことである。
  山本は常々語っていた。「100歳まで生きて、孤児のために尽くす」と。しかし、88歳の山本は、1990年2月15日、慢性呼吸不全のため、病院で息を引き取った。葬儀場は、山本のお陰で帰国を果たした孤児たちで埋め尽くされた。彼らは、山本に最期の別れを告げるために、全国から集まってきたのであった。最後の一人まで捜し続けるという山本の情熱は、「日中友好手をつなぐ会」のメンバーにしっかりと受け継がれ、現在もこの運動は続けられている。



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