岡倉天心
(おかくらてんしん)
インドへの根源を求めての旅
芸術家を指導する人 「アジアは一つ」
岡倉天心は東洋や日本の伝統美を世界に向けて発信した。それが可能であったのは、彼の英語力と共に本物の美と直接出会った体験によるものである。日本の古美術調査を皮切りに、欧米、中国へとおもむき、そしてインドへと収斂する。そしてインドへの旅は魂の救いを求める「魂の旅」でもあった。
日本美術界の巨人
岡倉天心とは何者か。芸術の分野で活躍したことは事実であるが、芸術家ではない。彼の手になる作品はないからである。美術評論家のようではあるが、どうも正鵠を射ているとは思えない。
日本画の大家であり、天心を師と仰ぎ、最後まで天心の付き従った横山大観は、天心について次のように語っている。「岡倉先生は、いわゆる筆を持たない芸術家でありました。つまり芸術の上に来るもの、芸術及び芸術家を指導するお方だったのです」。
芸術家を指導する教育者のようであり、弟子にとって宗教教祖のような人物、それが岡倉天心である。明治時代、日本には巨大な人物が多く現れた。岡倉天心は、芸術分野、特に日本美術界、東洋美術界で活躍した巨人の一人なのである。
英語力を身に付ける
岡倉天心を語るとき、まず英語との出会いを指摘しておかなければならない。天心の父は福井藩(現在の福井県)の藩士であったが、天心は横浜で生まれている。父は福井で生産される生糸の販売のため、藩主の命で横浜に石川屋という店を開き、そこの支配人になっていたからである。
つまり、父は横浜で外国人相手の貿易商を営んでいたため、店には常に外国商人が出入りしていた。天心は幼い頃から、外国語に慣れ親しんだ環境の中で成長したのである。7歳から横浜市内の英語専門学校に入ることになったのも、きわめて自然の成り行きであった。後に英語学者になった天心の弟によれば、「兄の英語の発音はアメリカ人と全く変わらなかった」ということである。
この英語力があればこそ、天心は日本の芸術や文化を西洋に英語で紹介できたし、日本文化への理解者を多く西洋人に持つことになった。新渡戸稲造の『武士道』、内村鑑三の『代表的日本人』と同じように、天心の代表的書籍である『茶の本』『東洋の理想』も英語で書かれ、日本や東洋文化の真髄を西洋人に紹介した名著である。
母の死
天心が7歳で英語専門学校に学び始めた頃、母が亡くなった。父が後妻を迎えると、彼は母の墓所である寺に預けられることになった。この寺で天心は和尚の指導で、漢籍(漢文で書かれた書物)を学び始める。孔子、孟子を学び、仏典にも接することになり、母を失った心の空白に東洋の思想と文化が流れ込み、心の空白を埋めることになったのである。東洋との出会いの始まりである。学生時代、南画(中国絵画の一派)や漢詩、また琴や茶道を習っているのを見ても、東洋文化への傾倒が見て取れる。
東大(法文学部)で卒論を提出するとき、その後の天心を暗示するできごとが起こる。天心の卒論テーマは「国家論」であった。それを書き終えて提出する直前、すでに結婚していた身重の妻と諍いが生じた。彼は17歳で学生結婚していたのである。腹を立てた妻は、彼が書き上げた卒論を燃やしてしまった。彼は急遽「美術論」にテーマを変え、急いで書き上げ、それを提出したという。
「国家論」を書きながらも、何かもどかしさを感じていたに違いない。妻の暴挙によって、内面の内なる声に素直に従う決断ができたのであろう。
フェノロサとの出会い
東大卒業後、天心は文部省に入る。そこで彼は当時東大講師としてアメリカから招かれていたフェノロサと日本文化財の調査を共に行うことになる。明治維新以後の日本は文明開化の嵐が吹き荒れ、西洋文物の摂取一辺倒であった。日本の伝統的芸術は崩壊の危機に瀕していた。そこに救世主のように現れたのがフェノロサであった。
彼は哲学者でありながら日本の伝統芸術を尊重し、伝統美の再発見に尽力し、日本芸術の新しいあり方を唱道し、指導していた。天心がフェノロサと出会ったのは、東大時代彼の通訳として呼ばれたことがはじめである。文部省に入った天心は、西洋一辺倒の時代潮流に抗うかのように、文化財調査の名目でフェノロサと共に日本の伝統的芸術作品の保護に奔走する。
奈良法隆寺の夢殿に人目に触れずに仕舞い置かれた秘仏(救世観音)があった。天心はフェノロサと共にこれを開いたときの様子を生々しく語っている。法隆寺の僧侶の間には、この秘仏を開く、つまり仏像をぐるぐる巻きにおおっている布を取り除けば、必ず雷が落ちて天罰が下ると信じられていた。事実明治初年、一度この秘仏を開こうとしたところ、突然雲行きが変わり、雷鳴がとどろいた。僧侶たちは恐れおののき、こと半ばにして中止したという。その時から16年しか経っていないのである。
天心らは、恐れる僧侶たちを説得し、ようやくにして秘仏を開くにいたった。布を除く段になると僧侶たちは恐れて皆その場を離れてしまったという。布から出てきた秘仏は千年の眠りから覚めた救世観音像であった。もちろん落雷は起こらない。聖徳太子生き写しの像とも言われるこの仏像に天心は、日本の美を見いだした。
調査に当たった社寺は60カ所以上、対象になった古美術は440品目以上。フェノロサの指導のもと、天心は数多くの古美術を見て回る幸運を得た。日本美の精髄ともいうべき何かを彼は自己の内面に刻印することになった。この時の体験がなければ、後に弟子の横山大観が芸術家でもない天心を「芸術の上に来るもの」と称した存在には、決してなり得なかったことであろう。
審美眼を磨く旅
1887年24歳の時、天心はアメリカ、ヨーロッパへの旅に出る。日本における美術学校、美術館、博物館などの設置を目的とした視察旅行で、約1年間の長期に及んだ。帰国後、25歳にして、東京美術学校(現東京芸術大学)の創設に参画し、その幹事に就任。開校準備に奔走する。3年後には同校の校長に任命。28歳という若さであった。
天心の美に対する見識、審美眼は、本物の芸術作品を数多く直接その目で観て回ることで養われたものである。おそらくもともと持っていた生得的才能が、本物を体験することで磨きかけられ、ずば抜けた審美眼を有するにいたったものと思われる。
天心の美意識を磨く旅は、日本の古美術調査、ヨーロッパの視察旅行では終わらなかった。東京美術学校の校長になって3年目、31歳の時、今度は中国旅行を命じられる。目的は美術調査で、訪れた仏閣の数は166カ所、6ヶ月間に及ぶ大旅行であった。
東京美術学校追放
1898年、天心36歳の時、東京美術学校の校長を辞職した。事実上の追放であった。政府と文部省の方針が文明開化、西洋化路線へとより強く傾斜したため、日本の伝統美術の維持や復興を主張する天心らの居場所がなくなったためである。この時、天心を追放する格好の口実が持ち上がった。女性問題である。文部省時代、直属の上司であった人物の夫人との不倫問題であった。
野に下った天心の行動は早かった。本郷湯島に日本美術院を創設。行動を共にしたのは、すでに美術界の大御所であった橋本雅邦を筆頭に、横山大観、下村観山、菱田春草など17名であった。この事件で天心は官界での栄達を捨て、裸一貫になって日本美術院のメンバーたちと共同生活を開始した。それまでの安逸な生活環境を振り捨て、彼らの理想美を追究するために助け合い、切磋琢磨する生活であった。それは芸術的行為というより、むしろ宗教的行為に似ていた。
またスキャンダルゆえの自責の念は、終生彼を苦しめた。苦悩を内に秘めながら、天心はインドへの旅を敢行する。これもまた10ヶ月という長期旅行であった。
インドで観たもの
インド旅行の目的は、東洋美の根源を探すことにあった。日本、中国のオリジンともいうべきインドで、彼は日本や中国にある美のさらなる根源に触れてみたかったのであろう。しかしもっと本質的な動機がある。自己の内面に生ずる懊悩。自己を責めさいなむ罪悪感。魂の安息を求めずにはおれなかった。癒しを求める旅であったことは想像に難くない。
インドで彼はタゴールと出会う。タゴールはインド文化を代表する詩人である。同時に哲学者であり、宗教者であり、予言者である。さらにもう一人、ヴィヴェカーナンダと出会うことになる。ヴィヴェカーナンダはインドの宗教指導者の一人であり、新しい宗教運動をインドに巻き起こしつつあった。
天心は彼らとの交流を通して、芸術、宗教、人間に対する本質的洞察に達した。東洋を東洋たらしめている理想の再発見である。彼は直感する。「アジアは一つなり」。日本、中国、インドにつらなる美の根源は一つであると。
インドは東洋美術の発祥地である。しかし天心はインドでそれ以上のものを見た。インドの人々は「宗教の海」の中で何の違和感もなく生活している。生活の隅々まで、宗教的感性がしみ込んだ世界。その海は全てを包み、全てを生み出している。それは東洋理想の再発見を超えて、人間理想の再発見を意味する。
さらに言えば、インドという「宗教の海」に包まれ、彼は幼児期に失った母の温もりを思い出していたのかもしれない。そして罪に苦悩する魂に一時の安息が訪れたのかもしれない。美の本質を探求する天心の旅とは、彼自身の苦悩に満ちた精神の旅に他ならない。「全ては一つである。全てを包み、全てを生み出す。そして全てはつながっている」。霊感ともいうべき天心の直感は、彼を芸術家以上のものにした。
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