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高松凌雲 
(たかまつりょううん)

貧しい者に無料診察の道 
医学とは神聖なものである  武士の魂を持った医師

  豊かな者しか治療を受けられない現実を憂い、貧者が診察を受ける道を開いた医師、これが高松凌雲である。「医は仁術」とはこの人物のためにある言葉のように思われる。彼の医師としての精神は、フランス留学で得た体験によって形成されたものであった。

患者に奉仕するもの

  高松凌雲は、明治と大正の時代に活躍した民間の医師である。「医は仁術」と言われる。凌運は、この言葉をそのまま実践し、日本の医療界に多大なる功績を残した。
  明治初期、旧幕臣や会津藩士などが榎本武揚をリーダーとして、箱館(函館)に籠もって新政府に抵抗を試みた。箱館戦争である。幕臣であった凌雲はこの時、榎本武揚と運命を共にし、医師として負傷者の治療に当たった。この時、彼は敵である政府軍の負傷者まで、分け隔てなく治療を施したことで知られている。
  また後年、貧しさ故に治療を受けたくても受けられない人々のために同愛社を設立した。広く医師に参加を呼びかけるだけでなく、寄付を集めるために篤志家の参加を募った。若い頃、凌雲はこう考えていた。「医師というものは、患者に自分の全てを注いで奉仕するものであり、患者の貧富、地位の高低によって差別してならない」。この考えを実行に移したのである。

フランス留学

  1836年12月25日に現在の福岡県小郡市に生まれた凌雲は、22歳の時、勉学の志やみがたく、江戸(東京)で医学を勉強していた兄を頼って上京した。当時蘭方医(オランダ医学)として著名な石川桜所の門下に入り、オランダ医学を徹底的に学んだ。
  その後大阪に出て、適塾を開いていた緒方洪庵の指導も受けた。適塾には全国から天下の俊才が集まっていたが、その中でも凌雲はすぐに頭角を現した。西洋医学の知識を身に付けただけでなく、オランダ語を自由に操るまでになったという。その後、兄の薦めで幕府が開いた英学所で学び、英語までもマスターすることになる。
  1865年、凌雲に一つの転機が訪れる。彼の学才を知った一橋家が、凌雲を専属の医師として抱えることになるのである。この一橋家から出た徳川慶喜が第15代将軍となったので、凌雲は自動的に幕臣となった。大変な栄達である。
  1867年はパリ万博開催の年である。フランス政府は、徳川幕府に万博への参加を求めてきた。倒幕運動で国内が混乱している時期、幕府としても国際社会から認知を受け、幕府の主権を固めるチャンスである。将軍徳川慶喜は弟の昭武を名代として派遣することにした。随行医として選ばれたのが高松凌雲、30歳になっていた。彼の西洋医学の知識と語学力が評価されてのことである。この一行には、後の経済界の大御所渋沢栄一も加わっていた。
  パリ万博も無事終え、その後、昭武に随行して、ヨーロッパ各地を巡り歩いた後、ようやく随行の任が解かれた。留学生として、パリで自由に勉学に専念するように言い渡されたのである。もちろん資金は全面的に幕府負担である。思いがけない申し渡しであった。凌雲は歓喜し、フランス医学を本格的に学べることに胸躍らせた。
  彼が選んだのは、オテル・デュウという名の病院を兼ねた医学校である。フランス語の「オテル・デュウ」は、「神の館」という意味。新しい生命が生まれ、また消えていく神が宿る場所、これが病院ということなのだ。医学とは神聖なものであるということを凌雲は、この学校から学ぶことになる。

貧民病院

  学び始めて驚いたことがいくつかある。その一つは、外科手術。これは想像を絶するものであった。日本では人体を開くということはまずない。患部に膏薬を貼る程度の治療しか見てこなかったのである。ところが、ここでは変色した胃を容赦なく摘出する。しかも患者は麻酔薬のおかげで苦痛に顔をゆがめることもなく、平然とベッドに横たわっているではないか。一つ一つが驚きの連続であった。
  凌雲を最も驚かせ、医師としての後の人生に決定的な影響を与える出会いは、実は別にあった。「神の館」と言われる病院(兼医学校)に附属するもう一つの病院を知った時である。そこは貧しい者を無料で治療する貧民病院であった。貧民病院とはいえ、建物は壮麗で、設備も十分。医師も看護婦も、「神の館」に所属する者たちが担当し、一般患者と全く同じ診察を貧民たちに施していた。その上、国から一切の援助を拒んだ民間の病院だという。貴族、富豪、政治家などの篤志家の寄付によって成り立っているのである。
  「神の館」では、「医師は人間の生命を救う尊い職業である」という精神を徹底的に教える。故に医師に高尚な人格が求められ、患者には常に最良の治療を施し、貧富の区別をしてはならないとされた。貧民病院はまさにこの精神の実践の場なのである。これが凌雲に与えた衝撃の大きさは計り知れない。その後の彼の生涯がそれを証明している。

幕府再興に捧げる

  凌雲の留学はわずか1年半にすぎないものであった。日本で政変が起こり、帰国を余儀なくされたからである。徳川慶喜が政権を天皇に奉還し、日本各地で倒幕派と佐幕派の戦争が勃発していた。日本の先行きは全く不透明となり、彼らのスポンサーである徳川家もどうなるかわからない。最悪の場合、凌雲らは流亡の危険性すらあった。
  凌雲らが江戸湾に到着したのは、1868年5月16日。すでに幕府は完全に崩壊し、江戸城も薩長勢に明け渡され、凌雲の主君慶喜は水戸で謹慎中であるという。彼らが日本を留守にしていた間、日本はすっかり変わり果てていた。
  凌雲の選択には迷いがなかった。医師である前に、あくまで武士であり、忠孝の人であった。主君に対する恩義を忘れることはできない。こうして留学までさせてもらい、医師としての勉学に励むことができたのも、徳川慶喜のおかげである。その徳川家は今存亡の危機に瀕している。その徳川家を見捨てて、自分だけが安閑として生活する道もなくはない。しかし、彼の中の武士の魂はそれを許さなかった。
  同じ幕臣の榎本武揚が幕府の軍艦を率いて、蝦夷地(北海道)に立て籠もり、幕府再興を期す計画があるという。勝てる見込みは、限りなくゼロに近い。しかし、凌雲は武士であった。榎本と運命を共にする道を選択した。凌雲、31歳の決断である。

敵の負傷者を治療

  榎本武揚に付き従った兵士は総勢3千人に及んでいた。戦闘で負傷する者、蝦夷地箱館での環境に慣れず病床に伏す者など後を絶たない。榎本は西洋医学を学んだ凌雲を見こんで、箱館病院の頭取(病院長)になってくれるよう頼んできた。しかし、簡単に引き受けられるものではない。榎本軍は混成軍で、各隊には専属の医師がいた。漢方医の彼らが凌雲の指導に素直に従うようには思えなかった。しかし、一人の兵士も死なせたくないという榎本の熱意は痛いほどわかった。凌雲は、「病院の運営には一切口出ししない」という条件で、頭取を引き受けることにした。
  凌雲の考えが徐々に病院に浸透し始めた頃、農民らが6人の負傷兵を病院の玄関に運び込んできた。この負傷者は榎本軍と敵対する箱館府側の守備兵であり、内一人は片足切断の重傷だった。凌雲の助手は、負傷者が敵方であることに躊躇している。しかし、凌雲は直ちに病人寄宿舎に彼らを収容した。寄宿舎内は騒然となる。「外に放り出せ」と叫ぶ者。「死者の仇、殺す」と言って刀を抜く者。助手たちは顔をこわばらせて立ちすくむばかり。
  次の瞬間、凌雲の怒声が響き渡った。「私はこの病院の頭取である。全権を委託されている。たとえ敵であろうと、負傷者は負傷者だ。私がこの者どもを入院させる必要があると考えたから入れたのだ。彼らと一緒であるのがいやだと言うなら、ただちに退院せよ」。凌雲の気迫に圧倒されたのか、いきり立った患者たちに沈黙が広がった。凌雲は敵方の負傷者の治療を開始した。
  その日の午後、凌雲は患者たちにフランスでの体験を話したという。「神の館」は、富める者も貧しい者も同じ治療を受け、戦争にあっても敵方の負傷者を味方と同様に治療する。日本の良き伝統は守りながらも、こうした西洋の良き習慣は日本も積極的に取り入れるべきではなかろうか。凌雲の言葉に、負傷者の中には無言でうなづく者もいた。
  凌雲にとってうれしかったのは、病人寄宿舎内では敵も味方もなく、互いがすっかりうち解けるようになったことであった。敵方の負傷兵の寝台に近づいて家族や故郷のことを話したり、出歩くときには肩を貸したり、時には笑い声さえ聞こえてきたという。
  敵味方なく負傷者を治療する凌雲の名は、政府軍の参謀黒田清隆の知るところとなり、黒田は榎本との和議の仲介を凌雲に頼んできた。凌雲は「榎本ら首脳部を手厚く遇する」という条件で、この仲介を引き受けた。
  箱館戦争後、政府内では反逆者である榎本らを断固処刑すべしの声が高まっていた。しかし、黒田清隆は有為な人材を失うことは国家の損失だとして、彼らの赦免を主張した。黒田の尽力で榎本ら首脳部は処刑を免れ、榎本は北海道開拓使の役人として赴任し、後に海軍大臣、外務大臣などを歴任した。

同愛会の設立

  黒田や榎本から、凌雲に対し北海道開拓使に出仕するよう申し入れがあった。他のいくつかの県からも同様の申し入れがあったが、凌雲は全て辞退した。民間の一開業医師として、自由に生きると決めていたからである。
  開業医として、凌雲の名声は日々高まるばかりであった。待合室はいつも患者で溢れ、入りきれない者が外で列をなすことも稀ではない。しかし凌雲の心は晴れない。なぜなら、診察を受ける患者はいつも裕福な者ばかりであったからだ。当時の薬代や診療費はまだまだ高額で、庶民の手の届くものではない。重病に冒されても、医師に診せることもできず、死を迎える者が大勢いた。親を医師に診せるため、娘が遊郭に売られることもしばしばだった。凌雲の病院では、貧窮の家庭には治療費を無料にしていたが、彼一人でどうなることでもなかった。凌雲は医師が助け合って貧しい病人を無料で診察できる組織を作る必要性を痛感した。
  1878年12月、医師会の席上、会長であった凌雲は、貧民を無料で診察する組織「同愛会」の設立を提案した。彼はフランスで見た「神の館」に附属する貧民病院の説明をした上で、「貧民の困窮をただ傍観するのみではなく、我ら一致協力して、彼ら貧しい病者を救うために立ち上がり、将来、貧民病院を創設する一大事業を興そうではありませんか」と締めくくった。凌雲の顔は紅潮し、声は震えていたという。
  深い感動が会場全体を包み、静かな沈黙の時が流れた。一人が「賛成」と言って立ち上がり、「貧民救済は、我ら医師が社会でなすべき義務であり、一致協力してこの一大事業をなし遂げたい」と叫んだ。この言葉に万雷の拍手がわき起こり、凌雲は感極まって涙ぐみ、何度も何度も頭を下げた。凌雲はこの時、42歳になろうとしていた。同愛社は、医師による救療社員と篤志家による慈恵社員によって構成されていた。この同愛社によって診察を受けた貧民は、70万人に達し、篤志家は千人を越えた。1916年10月12日、81歳の凌雲は、家族に見守られながら、静かに息を引き取った。市井の医師として仁の道を貫き通したその功績は、医療界に燦然と輝いている。



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