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浅羽佐喜太郎 
(あさば さきたろう)


ドンズー運動を支えた医師 

ファン・ボイ・チャウとの交流   家族ぐるみで留学生を支える

 ベトナムの独立運動は、当初「日本に学べ」というドンズー運動が中心であった。それを私財をなげうって支えた人物が、医師の浅羽佐喜太郎である。独立運動の闘志ファン・ボイ・チャウによって建てられた彼の記念碑は日越交流のシンボルとなっており、ベトナムの研究者からも、その功績は徐々に認められるようになっている。(※文中の経緯には諸説有)


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帝大出の開業医

「浅羽佐喜太郎肖像写真」

 浅羽佐喜太郎肖像写真
(写真提供/袋井市)

 静岡県の浅羽町(現在は袋井市)に、浅羽佐喜太郎を顕彰する記念碑がある。浅羽佐喜太郎を研究する目的で来日したベトナム人研究者が、この記念碑や彼の菩提寺(常林寺)を訪れる姿が、最近目立つようになってきたという。一体、浅羽佐喜太郎とは如何なる人物なのか。彼は日越(日本とベトナム)交流に尽力した最大功労者の一人なのである。
 浅羽佐喜太郎が浅羽村に生まれたのは、1867年のこと。徳川幕府が倒れ、明治の新時代(1868年)が始まる時期であった。浅羽家は代々、神官の家系であったこともあり、父義樹は幕末、勤皇の義兵組織に参加し、討幕運動に邁進した。父は、後に東京芝銀行で専務取締役を勤め、金融界で活躍した人物であった。
 8歳で東京の父の元に呼ばれた佐喜太郎は、1894年に旧制東京帝国大学医科大学(東大医学部)を卒業した。卒業後はドイツに留学し、研究の道を志してはいたが、健康上の理由で留学を断念、開業医となった。開業した場所は、神奈川県の前羽村(現在の小田原市)。故郷浅羽村と東京の中間点を選んだと言われている。当時、帝大医科大学を出て田舎の開業医になるのは極めて異例のことだった。しかし彼のこの選択は、後に大きな意味を持つことになる。



ファン・ボイ・チャウとの出会い

 浅羽佐喜太郎は義の人であった。貧困で苦しむ人は、金を取らずに治療したという。そんな彼の元に、一人の若いベトナム人が現れた。名はファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)。フランスの植民地だったベトナムを解放しようと立ち上がった独立運動の闘士であった。
 ファンは、1901年に「抗仏維新会革命党」(通称「維新会」)を組織し、常日頃、日本から学べと主張していた。その根拠は次のようなものであった。日本はアジアの中で外国から植民地として占拠、蹂躙されていない国である。また旧体制を打破し、革命的新政府を樹立した。さらに大国ロシアと対峙し、その近代化された軍事力によって、ロシアと一戦を交えようとしている。まさに、「日本賞賛論」である。
 ファンは「日本に学べ」を実践すべく、日本への密航を企てた。中国人の姿に変装して、1905年1月にベトナムを脱出した。上海で日本に行くチャンスをうかがっていた時期、日露戦争で日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破したことを知った。意を強く持って、日本に向かったことは間違いない。日本への上陸は、1905年6月のこと。
 神戸に着いたファンは、東京を目指して一隻の船に身を隠して乗り込んだ。その船が着いた地が、神奈川県の前羽村であったことは、ファンにとって実に幸運なことであった。そこに「浅羽病院」があったからである。見慣れない船が海岸に着いた時、地元の漁師たちは風采ただならぬ一人の人物を発見した。言葉が通じない。漁師たちは、村で一番偉い人として尊敬していた浅羽佐喜太郎のところに連れて行った。これが浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウの運命的な出会いであった。



留学生を支援

 ファンの話を聞いた浅羽佐喜太郎は、その志に強く心を動かされ、協力を約束した。まずはファンの日々の生活の面倒を見た。また浅羽病院の近くに大隈重信の別邸があったことも幸いした。大隈重信や犬養毅の知遇を得たのである。二人とも政界の実力者であった。大隈は、ファンに「同志の来日を勧誘したらどうか。我々日本人は、礼を持ってその同志を迎えるであろう」と提案した。ベトナムの独立のため、日本に学べというドンズー(東遊)運動はこうして始まった。大隈の提案に感激したファンは、優秀な青年を日本に連れてくるため、一時帰国を果たした。彼は3人の学生を連れて再上陸、続けて6人が来日したので、合計9人の学生が日本で学ぶことになった。さらに、ベトナムの皇位継承者の一人クォンデ侯までも来日した。ファンは、クォンデ侯を維新会の党首に迎えており、独立の折りには元首に推戴しようと考えていたのである。
 来日した学生の内、優秀なメンバーは東京振武学校(陸軍士官学校を目指す中国人のための学校)、東京同文書院(中国人留学生教育のための学校)で学ぶことになった。つまり表向き中国人としての扱いであった。そして彼らの日常の生活の面倒を見たのは、浅羽佐喜太郎その人であった。彼は病院の一棟を彼らのために明け渡し、衣食住の面倒を全面的に見たのである。浅羽病院は病棟が3棟もある、田舎にしては珍しい大きな病院だった。
 その後、留学生はどんどん増え続け、最終的には3百人にまで達した。学校の入学資格が得られず、寮に入れなかった者たちは、浅羽病院に寄宿した。しかし、若い異国の学生たちが出入りする様子は、近隣の人々にとっては異様なことだった。「薄気味が悪い」「あの家には近寄らないほうがいい」とささやかれていたという。しかし、佐喜太郎の長女ゆき江は、娘の和子に「あなた(和子)のおじい様(佐喜太郎)が行っていることは、気の毒な外国の人を助けてあげているのです。とても立派なことです」といつも諭していたことを和子は記憶している。そして、ゆき江は学生たちのことを「礼儀も正しくとても立派だと感心して見ていました」と語っている。浅羽家みんなでベトナムの学生たちを支えていた様子がうかがわれる。
 浅羽はしばしばベトナムの留学生に教育訓話を行っていた。たとえば、「天の利・地の利」と題して語った内容は、天の利とは、炎天下に生まれ育ったベトナム人が、寒冷地のフランス軍に負けるわけがない。また、如何なる困難があっても、戦う決心と忍耐力があれば負けるはずがない。これが地の利だ。こう言って、彼らを励ましていたという。



浅羽の好意

 フランス当局は座視していたわけではない。日本政府に圧力をかけ、ついに日仏協約の締結に到った。これはファン来日の2年後のことである。この協約の主旨は、フランスが朝鮮における日本の優越的地位を認めると同時に、フランスのインドシナ支配を日本が認めるというもの。この協約を盾に、フランスはファン・ボイ・チャウとクォンデ侯、そして留学生の引き渡しを求めてきた。日本政府は、学生たちの引き渡しには応じたものの、ファンとクォンデ侯の引き渡しは断固拒否した。大隈らの政治力が働いたと言われている。
 しかし大隈や犬養の政治力もここまで。1909年ついに、ファンとクォンデ侯に対し国外追放命令が出たのである。ファンは苦悩のどん底にあった。政府の方針に逆らうことを恐れてか、有志からの援助が途切れてしまい、金銭問題が深刻だった。
 頼れるのは浅羽佐喜太郎しかいない。しかし、これまで大勢の学生がお世話になっているのに。今さら大金の援助を受けようというのは、あまりにも厚顔すぎる。しかし、他に頼れる人はいない。彼は手紙をしたためて、友人に浅羽宅に行ってもらった。とりあえず当座のお金を都合していただけないかという依頼であった。
 浅羽の回答は驚くべきものだった。浅羽はファン宛の手紙に「まことに小額ですが、家中かき集めて支度しました。これが有り金の全てです。当座のものに使って下さい。また今後必要があれば、遠慮なくおっしゃってください。できるだけの用立てはするつもりです」と書いて、一緒に封を渡した。その封には何と1700円(約4700万円)もの大金が入っていたのである。ファンは、浅羽の好意にむせび泣いた。



記念碑

 ファン・ボイ・チャウは日本を離れた後、タイに渡った。大隈の紹介でタイの法律顧問政尾籐吉に会い、タイの王室に知遇を得た。王室のはからいで農場を与えられ、そこに学生たちを呼び集め、革命運動の拠点としていたのである。
 離日して9年後の1918年、ファンは密かに再来日を果たした。日本に残っている同志との再会、さらに恩人たちを訪問しお礼を述べ、助言を得るためだった。真っ先に訪ねたのは、浅羽宅だった。しかし、浅羽はファンが離日した翌年に亡くなっていた。43歳の若さで。衝撃を受けたファンは、茫然自失、言葉も出なかった。浅羽から受けた恩を思えば、このままでは帰れない。彼は浅羽の記念碑建立を思い立った。
 彼は浅羽の故郷浅羽村に行き、墓参をすませた後、石屋に赴いた。記念碑建立の費用を尋ねたところ、石材と彫り賃だけで100円、それ以外に運搬費と工事費で100円、合計200円(約550万)はかかるという。彼の手元にあるのは、120円。
 彼は浅羽村の岡本節太郎村長に相談して言った。「とりあえず100円だけ村長に預けますので、これを石屋に渡してもらいたい。残りの100円は後日、東京で都合をつけますので」。感激した岡本村長は、村人を集めて彼らに語った。浅羽佐喜太郎の美談を紹介した後、「ここにおられるファン・ボイ・チャウ先生は、受けた恩を返そうと万里の波濤を越えて来日し、故浅羽博士の記念碑を建てようと、この浅羽村までやってきました。我らも、この義理堅い報恩の念に燃える若人に手を貸そうではありませんか」と訴えた。万雷の拍手が湧き起こった。こうして、記念碑の運搬費、据付作業などの費用は、満場一致で村人の手に託されることが決まったのである。記念碑が建ったのは、その1週間後、高さ2・7メートル、幅87センチの巨大な記念碑が完成した。この記念碑は浅羽佐喜太郎の人間愛、博愛の精神のシンボルであると共に、日越交流のシンボルとなっている。


 
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