双葉山定次
(ふたばやまさだじ)
前人未踏の69連勝
強さの秘密はハンディの克服 「無意・無念」を求めた大横綱
世紀の大横綱双葉山の強さは、必ずしも恵まれた素質と環境のゆえではなかった。むしろ、母の死、父の事業の失敗等、数々の試練に耐えたからであり、力士として致命的とも言える右目の失明、右手小指の切断等、数々のハンディを背負いながら、精神と肉体を鍛え抜いた結果であったのである。
父に代わり家を支える
双葉山定次は、歴史に残る名横綱である。いまだに破られることのない69連勝の偉業を達成したばかりではない。相撲道を極めた人物として称えられている。しかし、その栄光は数々の逆境を跳ね返しながら、掴み取った栄光であったのである。
双葉山の本名は穐吉定次、1912年2月9日に大分県宇佐郡天津村(現在の宇佐市下庄)に生まれた。父の義広は漁師兼船乗りであったが、母の美津枝は定次が10歳の時に病死した。以来、一家は父と祖母と定次の3人だけ。父は家を留守にしがちであったから、定次を育てたのは祖母きつであった。双葉山自身、「自分はおばあさん子でした」と述懐しているように、祖母は孫の定次を溺愛した。
母の死後、穐吉家に次々と試練が襲いかかる。父の事業の失敗である。木炭の売買で、千5百俵を売った相手が代金を支払わずに雲隠れ。窮地に陥った父は、頼母子講(互助的金融組織)から金を借り、小さな帆船を購入。鉱石を運搬する事業を開始した。その船が嵐にあって沈没。海に投げ出された父と定次は、通りがかった船に助けられ、命拾いをしたものの、借金(現在の金で約2億円)はそのまま残ってしまった。
この一件で父はすっかり意気消沈し、働く意欲を失ってしまった。一家を支えたのは、14歳の定次であった。単身雇われて船に乗り、家計を支え、借金の返済の重荷までも背負ったのである。「私の生命は、あの時になくなっているはずでありました。だから、私はどんな苦難でも越えなければならない、どんな辛抱でもしなければならないと考えています」。後に双葉山は、少年時代に心に抱いた覚悟をこのように語っている。
強さの秘密
入門のきっかけは、15歳になった定次の立派な体格を見た父の知り合いが、相撲取りになるように父に勧めたことによる。父もその気になって、「いっそのこと、相撲取りになったらどうか」と勧めた。祖母は、どんなに困窮しても孫を手放すのを嫌がったし、定次自身も相撲は大嫌いだった。しかし、一家の経済状態は追いつめられていた。家族のため、定次は立浪部屋に入門を決断するのである。家を出るとき、祖母は「偉くならなくてもいい。身体を大切にしておくれ」と言って泣いた。
入門後の一日の生活は、朝6時に起床し、兄弟子が起き出さないうちに稽古。朝稽古の後は、掃除、そして炊事の仕度と続く。食事にありつけるのは兄弟子たちが食べ終わった後。風呂に入るのも一番最後。残りの時間は兄弟子たちの洗濯といった毎日。しかし、双葉山は「それほど苦痛とは感じなかった」と語っている。家計を支えるため、船上で、大人顔負けの重労働に耐えてきたのである。すでに肉体も精神も鍛えられていた。その上、相撲部屋は家族主義的だった。特に母親的な立場のおかみさん(立浪親方の夫人八重)は角界一の賢夫人と言われた女性。母のいない双葉山にとって、本当の母のように甘えることができた女性だった。
双葉山の強さの秘密は、恵まれた素質にあるだけではなかった。むしろハンディにこそあったと言っても過言ではない。実は彼は右目が見えなかったのだ。少年の頃、川で泳いでいたら、葦のような堅い物が流れてきて、右目に突き刺さって失明した。双葉山の現役時代、そのことを知る者はほとんどいなかった。親方が固く口止めしたためである。
これは力士にとって致命的なハンディである。しかし、彼はこのハンディを強さに変えた。できるだけ目に頼らず、相手の体の動きを感じ取り、その隙をつかむ修練をした。立ち会いで、相手の動きを瞬時にとらえ、受けて立つ相撲に徹したのである。また彼の相撲には、無駄がなかったと言われているのも、目の悪さを克服した結果であった。龍王山という力士が、まともにいっても勝てるはずがないとして、仕切り一回で猛然と立ち上がり、突っ張りで攻め込んだことがあった。不意打ちを食らわしたのである。双葉山は悠然と受けとめ、左上手投げで軽く投げ飛ばしたというエピソードが語り伝えられている。
彼のハンディは、それだけではなかった。父親の手伝いではじめて船に乗った時のこと。ウィンチ(回転ハンドル)で錨を巻いていたら、誤って右の小指を挟んでしまい、小指の先端が吹き飛んでしまった。右手小指の先が人より、短いのである。力士は相手のまわしを取るのに小指をこじ入れるという。その小指が短いのは明らかに不利であった。こうした致命的とも言えるハンディを徹底した稽古でカバーして、見事に克服した。
国民的英雄
双葉山には運も味方した。1932年、相撲界始まって以来の大事件が起こった。名門出羽ノ海部屋一門の大半が、協会側に「改革意見」を突きつけ、相撲改革を要求したが、交渉は決裂。力士30名が協会を脱退してしまった。
その頃、十両(幕内の下)にいた双葉山だったが、主要力士がこぞって脱退したため、一気に幕内の前頭4枚目に据えられた。多分にラッキーではあったが、20歳で入幕を果たしたことになる。負け越さずに食らいついていったものの、上位陣には全く歯が立たない現実に愕然とし、さらに稽古に打ち込んだ。
前人未踏の連勝記録が始まるのは、それから4年後の春場所7日目からだった。連勝の理由の一つに、彼の体重が急に増えたことが上げられている。1年間でなんと20キロ以上太ったのである。相撲に安定感が出てきたのは間違いない。しかし、そればかりではなかった。その年、9勝2敗(当時は11日間の取り組み)で春場所を終えた直後、最愛の祖母が死んだ。祖母は「夏場所がすむまでは、わしが死んでも定次には知らせるな」と孫の体調を気遣って息を引き取った。しかし、大分新聞で祖母の死を知ってしまった双葉山は、その時の心境を「晴天の霹靂。忘れることができない痛恨事」と語り、号泣した。
祖母は、まさに母親そのものであった。彼自身、次のように述べている。「弔い相撲のつもりで、力の限り闘おうと決心した」と。祖母の死後、5場所連続全勝優勝を成し遂げ、前人未踏の69連勝を達成するのである。折しも、日本が中国大陸制覇の野望に燃え上がった時期と重なった。国民は、中国大陸で勝ち進む日本軍と連勝街道を突き進む双葉山をオーバーラップさせ、その熱狂の渦の中で双葉山は国民的英雄となった。
「いまだ木鶏に及ばず」
26歳の双葉山は実力も人気も頂点に達していた。しかし、その内心は「また落ちなければいいが」と地位の転落を恐れる普通の青年だった。彼は人並み以上にコンプレックス(劣等感)を抱えていた。不自由な右目、短い小指など。とても慢心することはできなかった。頂点にのぼりつめても、誰よりも稽古に励んだのである。また、この弱さゆえに、彼には心の支えが必要だった。信仰心である。何事にも一途に取り組む双葉山である。その信心も並はずれて強かった。
入門した当初、尼僧の金丸妙正尼の教会所に足繁く通うようになったのも、引退後、世に言う「璽光尊事件」を引き起こしてしまうのも、並はずれた信仰心の現れだった。日本が戦争に負けたその年、彼は肝臓障害を引き起こし、33歳で引退を表明した。敗戦と引退という二重の痛みの中、彼には心の拠り所が必要であった。そこに現れたのが、金沢の女教祖璽光尊であった。「天変地異で地球の人口は3分の1になる」と予言するこの女教祖に心服した彼は、引退後の人生を信仰の道に生きようとした。旗をかついで金沢市内を練り歩くほどにのめり込んでしまったのである。
しかし、璽光尊が天皇制の再現を予言したことにより、GHQ(占領軍)の基本政策に抵触し、一斉検挙となり、双葉山も天変地異が起こらなかったことで、目が覚めた。ことほど左様に双葉山は信心深い体質の人間だった。だからこそ、栄光の頂点にあっても驕ることもなく、さらに精進を重ねるのである。自己の弱さを自覚していたからこそ、信仰心を必要とし、並はずれた稽古に励むことにもなった。彼の弱さこそが強さの秘密であった。
双葉山の70連勝を阻んだ力士は安芸の海。出羽ノ海部屋の新鋭だった。1949年1月15日、日本中が騒然となった。NHKのアナウンサーは「双葉山敗る、双葉山敗る、70連勝成らず」とマイクの前でふり絞るように絶叫した。敗れた直後、双葉山は安岡正篤(陽明学者)に電報を打った。「いまだ木鶏に及ばず」と。
これは、中国故事にある闘鶏を飼う名人と王の話に由来がある。名人は王のために一羽のすぐれた鶏を育てていた。鶏の成長を痺れを切らして待ちこがれている王に対し、数十日後、「もうぼつぼつよろしいかと思います。相手が挑戦しても一向平気でございます。ちょっと見ると木彫の鶏のようで、その徳が完全なのでございます。どんな鶏だって、もう応戦するものはございますまい」と名人は語ったという。この話を敬愛する安岡から聞いた双葉山はいたく感動しており、敗れたその日、「いまだ木鶏に及ばず」と安岡に打電し、自己の徳の不完全を嘆いたのである。双葉山は何事も一途であった。愚直なまでに自分が木鶏たり得ると信じ、「無意・無念」の境地を求めていたのである。
璽光尊事件の後、34歳の双葉山は時津風を襲名し、後進の育成に取り組んだ。1958年には相撲協会の理事長に就任し、「部屋別総当たり」制を導入するなど、相撲界の改革にも尽力した。晩年は日蓮宗を信仰する穏やかな仏教徒になっていたという。木鶏たらんとするその生涯に幕を下ろしたのは、1968年12月16日である。享年56歳。
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