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後藤田正晴 
(ごとうだまさはる)

両親を失った寂しさをバネに 
権力の怖さを知る  行財政改革に辣腕

 62歳で初当選(衆議院)した後藤田正晴は、「これほど警戒されて政治家になった人物はいない」とまで言われた。警察庁長官として、左翼過激派に対する取り締まりに辣腕をふるったからである。しかし、引退時には「これほど高い評価を受けた政治家は少ない」と言われた。

後藤田

両親の死

 後藤田正晴は、警察官僚のトップ(警察庁長官)にのぼりつめた人物。その後、政界に進出し、62歳で衆議院選に初当選した。後藤田は、ある時はタカ派と警戒され、ある時はハト派と懸念された。しかし、「自分は何も変わっていない」と彼はいう。左翼的風潮が強い世相にあっては、タカ派と言われ、世相が右傾化するとハト派と言われた。その時代の持つ危険性に対し警鐘を鳴らそうとしたのである。信念の政治家であった。
 後藤田正晴が生まれたのは1914年8月9日。徳島県の中央に位置する東山村(現在の吉野川市美郷)、典型的な山村である。父の増三郎は醸造業を営むかたわら、県会議員を務めた有力な地方政治家。後妻の母ヒデとの間には6人の子が生まれた。正晴はその末っ子で、父が63歳、母が42歳の時の子であった。
 両親、兄姉、使用人に囲まれ、なに不自由ない日々を過ごしていた7歳の正晴に突然、悲劇が訪れた。70歳の父が腎臓病で他界。憔悴しきった母は、7歳の正晴を手元に引き寄せて言った。「正晴、お前を父親のいない子にしてしまった。ごめんね」。母は息子を強く抱きしめ、こらえていた涙が堰を切ったように流れ落ちた。彼は母のお腹のあたりに頬を埋め、顔に温もりが伝わってきたことを後々まで、鮮明に覚えていたという。
 彼を襲った悲劇はこれにとどまらなかった。父を失った2年後、母が父と同じ腎臓病で帰らぬ人となってしまった。母の死が少年に与えた衝撃は計り知れない。晩年、彼は「親の死というのは、子供にとって辛いことだ。あの時の記憶は鮮明なんだ。年を取るとますます思い出す」と語っている。
 後に警察庁の警備局長の頃、アメリカのケネディ大統領が暗殺された。まだ4歳のケネディの長男が、父親の死も知らず、敬礼をしているシーンがテレビで放映された時のことである。それを見ていた後藤田は、「あの子がかわいそうだ」と言って、人目もはばからず声を上げて泣いた。そして、「こんなことがあってはならんよ。子供が不憫すぎる」と繰り返したという。幼い頃の自分の体験が蘇ったに違いない。
 しかし過酷な運命は、時に人間を逞しく鍛え上げることがある。後藤田は、両親のいない孤独感をバネにして強く生きようとした。彼は次のように語っている。「孤独になって悲しくなった時があったが、負けるものかといって頑張ったものだ」。
 正晴が身を寄せたのは、姉の好子が嫁いでいた井上家であった。井上家の人々は、正晴は涙もろかったと語る。ドラマを見ては泣き、小説を読んでは泣いていたという。井上家の温もりに包まれながらも、心の奥深くにある寂寥感はどうすることもできなかった。がむしゃらに勉強に打ち込んだのは、この寂しさを忘れようとしたからである。成績は常にトップクラスであった。


「戦争は愚劣なもの」

 水戸高校時代、後藤田を知る友人たちは、彼を努力、根気、我慢の人と評する。陸上部に所属し、棒高跳びを選択していた彼は、グランドが暗くなり、バーが見えなくなっても、一人で黙々と練習を続けた。まるで禅僧の修行のようであったという。後藤田の真骨頂はあの練習風景の中にあると友人たちは口をそろえて語る。
 ルールや規律にはきわめて厳格だった。陸上のトラックは神聖なもの、「下駄履き歩行は禁止」である。後藤田はこの立て看板を立て、下駄履きで入る者がいれば、大声で怒鳴って注意した。彼が仲間内で一目置かれたのは、その相手が親しい友人であろうと、先輩であろうと、見て見ぬふりを決してしなかったからだ。「正義を守る仕事に就きたい」と思い始めたのは、この頃である。
 東京帝国大学を卒業後、後藤田は内務省(戦後に解体)に入省した。当時、内務省は国家全体を統括する中枢的地位を占める官庁であった。彼が入省した1939年当時、日中戦争はどろ沼化し、内務官僚といえども軍隊への徴用は避けられなかった。後藤田も入省1年後、台湾歩兵第二連隊に入営することになり、6年間台湾で軍務につくことになる。
 連絡将校としてフィリピンのマニラに出張したとき、後藤田は日本軍の横暴さをいくつも目撃した。ゴルフ三昧の上、フィリピン人の愛人を持つ司令官。退屈しのぎにフィリピンの赤ん坊を突き刺して遊ぶ日本軍人。フィリピン人は日本の兵隊に脅えていた。「これが大東亜共栄圏の実態か」。後藤田はフィリピン人に同情した。
 戦後、後藤田は戦争体験をあまり語ろうとしない。眉をひそめながら、「あの愚劣さは、決して繰り返してはならない」と語るばかりである。「戦争は愚劣なもの」。これは、彼の中に深く刻み込まれた信念となっていた。
 戦争が終わり、帰国を待つ後藤田のもとに、彼が使っていた一人の中国人が餞別を持って訪ねてきた。「大尉殿(後藤田のこと)は、日本人と我々の間に一切の差別をしなかった。これはそのお礼です」。確かに後藤田には、差別意識は全くなかった。ルールの前では誰もが平等と考えていたからである。


爆弾テロとの戦い

 戦後、後藤田は自治省にいた一時期を除き、政治家になるまでの大半を警察官僚として過ごした。若い頃思い描いていた「正義を守る仕事」に就いたのである。官僚時代の後藤田に対する評価はほぼ一致している。上役にぺこぺこしない。行動力がある。言うべきことは言う。筋が通らなければ譲らない。派閥を作らない。
 事なかれ主義がまかり通る官僚の世界にあっては異色の存在であった。煙たがられることも少なくない。「後藤田は警察庁長官にはなれない」という噂が立つこともあったという。しかし、彼が警察行政の中枢にいた1960年代、70年代は左翼デモが荒れ狂っていた。時代は後藤田を必要としたのである。
 後藤田が警察庁長官に就任した2年後の1971年は、過激派の学生による爆弾テロが次々に起こった年である。警視庁の土田国保警務部長が狙われ、家に届いた小包爆弾が爆発、夫人が死亡した。新宿の派出所におかれたクリスマスツリーの入った紙袋が爆発、警官一人が重体、通行人2人が重傷。過激派は警察官を狙い撃ちしていたのである。
 この頃、後藤田の表情は険しく、どんな冗談も全く受け付けなかったという。後藤田家に届けられた小包のうち、金属探知器に反応した小包爆弾がいくつかあった。文字通り体を張って戦っていたのである。
 過激派に占拠されていた成田空港予定地に強制代執行を行った際、3人の警官が過激派に襲われて焼死する事件が起きた。工事を一時ストップしたいと言ってきた千葉県知事に対し、後藤田は激高し体を震わせながら断固として言った。「そんなことをすれば、過激派を喜ばせるだけではないか。やると決めたらやるべきだ」。彼は法と正義を犯す過激派には一歩も譲らず、容赦なかった。タカ派と言われたゆえんである。


行財政改革

 1976年、62歳で衆議院初当選を果たした後藤田は、政治家としての第二の人生を歩み始めた。82年に成立した中曾根政権では、官房長官や行政管理庁長官などを務め、行財政改革に取り組んだ。中曾根康弘首相は行政の効率化、財政の健全化のため「(総理)官邸主導型政治」と「小さな政府」を目指していた。
 この要となるのが官房長官である。中曾根は他派閥(田中派)の後藤田を指名した。官房長官は自派閥からというこれまでの慣例を破っての異例の抜擢だった。行財政改革を断行するには、後藤田以外にいないと考えていたからである。
 後藤田は「中曾根さんとは肌が合わない。どちらかというと決して好きではない。しかし、仕事となると話は別だ」と語る。二人は派閥を越え、肌合いの違いを越え、国家の改革を進めるという強い信念で結ばれていたのである。
 中曾根は、「自分は政治家としてスピードを出しすぎたり、政策を中道より、やや右に向ける傾向がある」と語っている。それにブレーキをかけ、バランスを取りながら政策を推進しうる人物として後藤田が必要だったのである。また行財政改革には、官僚の抵抗が予想された。そんな官僚を黙らせるには、後藤田が最適だった。
 官僚が省庁の権益に固執して抵抗すると、後藤田は担当者を呼びつけ、「君のところは、自分のことしか考えていないのか。国家あっての君らだろう。自省の縄張り本位の勝手な動きは許さない」と一喝する。官僚は縮み上がったという。彼は、官僚を恫喝できる数少ない政治家の一人だった。
 中曽根政権は行財政改革の一環として、日本専売公社(現在のJT)、日本国有鉄道(現在のJR)および日本電信電話公社(現在のNTT)の三公社を民営化させ、半官半民であった日本航空の完全民営化をやり切った。これらを実行し、さらに5年もの間、政権を維持できたのは後藤田の存在抜きにはあり得なかった。


「政界のご意見番」

 後藤田はしばしば「カミソリ後藤田」と言われて恐れられた。情報を的確につかみ、それに理知的な解析を加えて、鋭い判断を下したからである。そんな「カミソリ」の後藤田は、叱るときも尋常ではなかった。怒声が全身から出ているようだったと言う。
 後藤田に叱られなかった者はいない。しかし、恨んでいる者もいなかったと言われている。叱るにしても、一本筋が通っており、公平であったからである。怒りが一区切りつくと、今度は柔和な表情で励ました。強面の背後に「温かい人間性」を見た者は少なくなかった。「仏の後藤田」でもあったのである。
 後藤田は、元来が保守的政治家である。しかし、戦争や警察官僚としての体験を通して、権力は細心の注意を払って行使すべきものという信念を持っていた。国家権力の怖さを十分に知っていたからだ。それ故、政治指導者の権力の乱用に対しては、常に目を光らせていた。82歳で政界を引退して、91歳で人生の幕を下ろすまで、「政界のご意見番」として後藤田の存在感が薄れることはなかった。


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