萩原 タケ
(はぎわら たけ)
日本のナイチンゲール
ポーランド孤児救済に尽力 行き届いた気配り
当時、女性が自立できる職業といえば、教員か助産婦しかなかった時代、萩原タケは看護婦の草分けとして活躍した。貧しい家に生まれたハンディを持ち前の向学心と努力と忍耐で克服し、看護婦界の頂点にのぼりつめた。女性の優しさと男性に劣らぬ働きぶりで日本社会を支えていくのである。
苦学して看護婦へ
萩原タケは日本看護婦界の第一人者。後れていた日本の看護婦(今の看護師)を世界レベルに押し上げた功績で、「日本のナイチンゲール」と呼ばれている。タケが生まれたのは、1873年2月7日。五日市村(現在の東京都あきる野市)に藁屋を営む萩原喜左衛門とちよとの間に生まれた。藁屋を営む父は、米作り農家から買い集めた藁を売り歩いていたが、愛想が言えない無口な性格で、商いには向いていなかった。その上藁は利幅が少なく、家計はきわめて苦しかった。
母ちよはそんな夫に愚痴一つ洩らすことなく、次々に生まれる子供を抱えて、内職に励んで家計を支えていた。母のこうした献身的な性格は、そのままタケに受け継がれたように思われる。母の口癖は、「貧乏は恥ではない。知らぬが恥」であった。家計が苦しい中、タケが5歳で勧能学校(小学校)に通うことができたのは、こんな母の後押しがあったからである。しかし、3年ほどで退学を余儀なくされた。家計が逼迫していたのである。
この退学は逆にタケの向学心に火をつけた。弟たちの子守や風呂たきをしながら、親戚から借りた本を貪り読んだ。さらに寺の夜学に通って、漢学の手ほどきを受けたりもした。そんな彼女が医療の世界に関心を向けたのは、12歳の時に村に開業した小島医院の手伝いを始めた時。従来の漢方医とは違う医療器具を目にして、彼女は胸のときめきを抑えることができなかった。医学の道に強い憧れが生まれたのである。
タケに大きな転機が訪れた。日本赤十字社で看護婦生徒の募集があることを知った。月謝が不要なうえ、学費まで支給されるという。目の前が突然、開けた思いであった。さっそく日赤の看護婦養成所に応募し見事合格。その時、タケは20歳であった。
寄宿舎生活は、軍隊さながらの厳しいものだったが、それまでの苦労を思えば、なんでもなかった。手が細くて器用な彼女は、包帯やガーゼの交換が上手で、身ごなしが機敏であった。戦時中には、傷病兵一人一人に優しく接し、彼らの病状から好みまで覚えていて、その行き届いた気配りは評判になった。看護婦としての素質が開花したのである。
そんなタケの人柄と技量は、院長や医師たちに見込まれ、養成所卒業後も日赤病院に残ることになった。3年後には一等看護婦(看護婦長)に昇進。その後、日露戦争では救護看護婦長として現場の指揮をとり、獅子奮迅の働きぶりであった。しかし、所詮彼女は平民、それも貧しい山村出身。まだ士族(旧武士)出が幅を利かせていた時代である。看護婦監督になる力量も人格も十分備わっていたが、士族出の後輩にその席を譲らざるを得なかった。しかし、このことは彼女の人生には幸いした。
ヨーロッパ行き
1907年、皇室(伏見宮家)から山内侯爵家に嫁いだ夫人が洋行することになった。その随行員の一人にタケが選ばれたのである。夢のような話であった。これには病院幹部の配慮があったと言われている。家柄が士族ではなく、学歴も乏しいタケを看護婦監督にするには、箔付けが必要だったのだ。
約1年半、ヨーロッパ各国を巡りながら、行く先々で病院を訪れ、看護の実際を見聞した。また、この期間ロンドンで開催された第二回看護婦国際会議にも参加。世界各国から集まった5百名ほどの看護婦の熱気溢れる討論を聞いて、タケは驚いた。日本では、女性は人前で顔を伏せ、物静かにする習わしだった。ここでは違う。女性が積極的に意見を主張していた。その雰囲気にタケは圧倒され、深い感動を覚えた。
帰国後、タケは一躍脚光を浴びた。ヨーロッパの看護事情を見学してきた最初の女性として。そして、帰国1年後には、看護婦監督にすんなりと就任。日赤では初めての平民出身の監督であった。37歳で名実共に日赤の看護婦のトップに立ったのである。以来28年間、日赤の監督として勤務。これは日赤の最長記録だという。
ポーランド孤児の救済
1920年は、タケにとって多忙な年となった。シベリアで流浪していたポーランドの孤児を日赤が受け入れることになったからである。実はその前年タケは、日本軍のシベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦)に伴い、シベリア各地を回ってきたばかりであった。それだけにシベリアを彷徨う孤児たちに深い同情を寄せていた。
当時、シベリアには20万人を超えるポーランド人がいたと言われている。18世紀後半から、ポーランドはロシアとプロシアに睨まれ、国を失う悲劇に見舞われた。その時、ロシア領となった地域で独立のため立ち上がった人物やその家族が、シベリアに流刑されていた。さらに第一次世界大戦では、ポーランドは戦場となり、多くの流民がシベリアに流れ込んでいたのである。
そこに起こったのがロシア革命。その内戦の戦火の中、食料も医薬品もなく、シベリアにいる多くのポーランド人は餓死、病死、凍死に見舞われた。冷たくなった母親の死体に覆いかぶさって凍死している幼児たち。凄惨な生き地獄が待っていたのである。
立ち上がったのがウラジオストック在住のポーランド人たちである。彼らは「ポーランド救済委員会」を設立し、せめて親を失った孤児だけでも救いたいと、欧米各国に働きかけたが、その試みはことごとく失敗。最後の頼みの綱が日本だった。日本政府の決断は早かった。要請を受けてから17日目には受け入れの決断を下し、この孤児救済事業を日赤に要請してきたのである。孤児に同情を寄せていたタケは、日赤の看護婦たちを指揮して、できる限りの温かな介護を孤児たちに施した。
来日した孤児たち
孤児受け入れの朗報が伝わると、「興奮と混乱、笑いと喜びの爆発だった」と会長(救済委員会)のビエルケヴィッチ女史は語っている。孤児たちは2回に分けられて来日。第1回の375人は東京に、第2回の390人は大阪に運ばれた。12、13歳が大半で中には2歳の幼児まで含まれていた。ほとんどの子供は破れた服を着、穴のあいた靴を履いていた。日赤がまずやったことは、衣服、肌着、靴、靴下などを新調して子供たちに与えることだった。タケも忙しい合間を縫って、孤児の部屋に足を運び、折り紙を折ったりしながら、彼らを励ました。また民間による支援も多く、慰問の人々も後を絶たなかった。
これには新聞記者たちも貢献した。彼らは子供たちにカメラを向け、質問した。孤児たちは通訳を介して丁寧に答えていたが、親のことを聞かれたときには、花がしぼむように沈黙し、はらはらと涙をこぼしたという。後悔したのは記者たちだった。「すまなかったね」と頭を下げ、その拍子に記者の目から思わず涙が滴った。涙した記者たちは、互いに励まし合いながら、良い記事を書き、日本中に、否世界中に知らせようと決意したという。
一つの悲劇が起こった。タケの指揮下にあった看護婦松沢フミは昼夜の別なく、病気にかかった子供たちの看護に当たった。「この子らは、両親も兄弟もいないのです。私は決めたのです。この子たちの姉になると」と言って、休まず介護を続けた。無理がたたってか、彼女は子供たちが持ち込んだ病気に感染し、23歳の若さで殉職した。その死を知らされたとき、子供たちは号泣し、声がかれてしまうまで泣きはらしたという。
看護婦たちの献身的な看護やもてなしで、来日時には衰えていた孤児たちの体力はみるみるうちに回復した。彼らの元気な姿を見るのは、タケにとっても大きな喜びだった。いよいよ彼らをポーランドに送り出す日。タケは横浜の埠頭で孤児一人一人と別れを惜しんだ。しかし、子供たちは乗船しようとしない。見送るタケたちにすがりつき、「日本にいたい」とポロポロと涙を流しながら必死に懇願した。その姿は見送る人々の涙を誘った。
ようやく乗船した孤児たちは、船のデッキから覚え立ての「アリガトウ」を連発し、「君が代」を歌って感謝の気持ちを表した。見送る人々は、彼らと共に「君が代」を歌い、目に涙を浮かべながら、子供たちの姿が見えなくなるまで手を振り続けていたという。
献身の生涯
50代を迎えたタケにとって、たった一つの心残りがあった。日本にはまだ看護婦協会ができていないことだった。その頃、持病の喘息が昂じ、体力の衰えを感じていたタケであったが、それを押して、組織作りに奔走した。そして、ついに1929年3月に日本看護婦協会の設立にこぎ着けたのである。会長には満場一致でタケが選出された。
4年後の1936年5月27日、タケはその生涯に幕を下ろした。彼女を知る者は、その後半生は修道女同然だったと言う。破格の年俸を受けていたにもかかわらず、万事節約を信条としていた。他人の面倒を見続け、交際費もほとんどが私費だったため、貯えがほとんどなかった。自分が病床に伏すとき、入院費を心配するほどだったという。
驚くべきことにタケの墓には、名前と生年没年のみしか刻まれていない。生前の栄誉が一切記されていないのだ。ナイチンゲールの墓は質素であったと言われている。彼女を理想としていたタケが、自分の墓も彼女に倣おうとして、遺言したのであろう。臨終に際し、「私の願いは静かに死んで行きたい。あまり人に知らせないで」と弟に言ったという。自分の死で人を煩わせることを心配したのである。死の直前に至るまで、人への気遣いを忘れることがなかった。享年63歳、献身の生涯であった。
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