浜口 雄幸
(はまぐち おさち)
金解禁断行のライオン宰相
謹厳実直、無私無欲の人 「議場で死ぬのは本望」
軍事費削減を拒否する軍部、行政改革に反発する官僚、不況を嫌う財界。彼らを敵に回して、浜口雄幸は金解禁を断行した。日本の将来にとって、その先送りは断じてあってはならないと確信したからである。信念の政治家だった。文字通り、命をかけて信念を貫いたのである。
寡黙な少年
浜口雄幸はライオン宰相と呼ばれた。角張った大きな顔、つり上がった太い眉、ぎょろりとした目、容貌は魁偉であったからである。そればかりではなく、信念の政治家であったからでもある。金解禁はその必要性を認めつつも、極端な不況を伴うがゆえに、歴代の内閣が先送りしてきた政策だった。軍部、官僚、財界などを敵に回して、浜口は不退転の決意で断行した。文字通り命を懸けた戦いである。そんな浜口を支えたのは、国民だった。清廉潔白にして信念の塊のような浜口を国民は信頼し、彼についていったのである。
浜口雄幸は、1870年4月1日に高知県長岡郡五台山(現在は高知市)に生まれた。水口胤平と繁子の間の3男であった。父は山林官であり、山林を見回る仕事に従事していた。雄幸が浜口姓となったのは、後に浜口家に養子入りしたからである。
雄幸は寡黙で孤独な少年だった。幼い頃から、ひとりぽっちで過ごすことが多かった。小学校の成績は学校始まって以来の成績。高知中学に進んだ雄幸は、相変わらず寡黙で、勉強ばかり。友人がいなかったわけではないが、その付き合い方は一風変わっていた。友人の家に遊びに行っても、自分から口をきくことはほとんどない。部屋の隅に座って何か考え込んだり、時には寝ころんで天井を黙って見つめている。しばらくすると不意に思いついたように帰っていく。そんな雄幸に友人たちは戸惑いつつも、温かく見守ったという。
政治家志望
雄幸の養子縁組の話が持ち上がったのは、高知中学5年の時。相手は資産家の浜口家。男子のいない浜口家では、娘の夏子に婿養子を迎えることが悲願であった。白羽の矢は雄幸に向けられた。抜群の成績、品行良し、その上3男坊。容貌は少々難ありだが、男は顔ではない。夏子の父は、雄幸にすっかり惚れ込み、水口家に乗り込んで懇請した。困惑する父を尻目に、雄幸は表情も変えず、「どうでもいいよ」との返事。雄幸の養子入りが決まった。正式に結婚したのは、三高(京都大学の前身の一つ)在学中の20歳の時である。
その後、東京帝国大学法科に入学した浜口は、ひそかに政治家を目指していた。弁舌は苦手だが、後で訓練すれば間に合う。今は地道に勉強する時期であると割り切り、財政方面の勉強を黙々と積み上げて行った。
東大卒業後、高等文官試験(高級官僚採用試験)を受ける。官僚になることが、政治家への第一歩と考えたからである。しかし、不幸が襲った。2歳になる長女和子が、高熱と下痢のため、高文試験最終日を前にして、危篤状態に陥ってしまった。浜口は試験を捨てるつもりでいた。しかし、妻夏子は言った。「あなたが介抱したからと言って、良くなるものではありません。この一日のことで、あなたの将来を台無しにしないで下さい」。妻に背中を押されて、試験場に向かった。幸い試験には合格し、大蔵省に入ることになったが、娘は死んだ。辛い人生の門出となった。
後藤新平が惚れこむ
大蔵省での浜口はパッとせず、地方回りが9年も続いた。本省に戻り、その後専売局長官となった時、浜口の真価が発揮された。塩の製造をコストの安い大規模な塩田に集中する計画が持ち上がった時のことである。当然、零細の塩田は廃止となるため、激しい反対が起こってきた。浜口は国会でつるし上げられることになったが、その答弁は実に堂々たるものであった。資料を手にすることもなく、必要な数字はほとんど暗記しており、見事に論破した。論敵までも「ただいまの答弁は明快で、大いに満足するところであります」と褒めるほどであったという。
こうした浜口の姿にすっかり惚れ込んだ人物がいた。満鉄(満州に設けられた半官半民の国策会社)の初代総裁後藤新平である。謹厳実直で、並はずれた責任感と優れた見識、こうした男こそ、満鉄の理事に相応しい。後藤は浜口を口説いた。当時の満鉄理事は、中央官庁の次官級以上のポストで給料は10倍以上。しかし、浜口は辞退した。手がけている仕事を中途で投げ出すのは、卑怯だと言う。後藤は、ますます浜口に惚れ込んだ。
後に、桂太郎が新党(立憲同志会)を作ることになったとき、浜口は後藤に誘われて、この政党に参加した。まさに後藤との出会いが、政治家への契機となったのである。
金解禁内閣
1929年、浜口内閣が成立。浜口は秘かに期するものがあった。金解禁、つまり金本位制への復帰である。彼は家族に告げた。「すでに決死だから、途中で殺されるようなことになっても、決してうろたえることのないように」。浜口は文字通り、命を投げ出す覚悟でいた。妻の夏子は、毎日出陣の武士を見送る心境で夫を送り出したという。
組閣にあたり、浜口は井上準之助(元日銀総裁)を断固として蔵相に迎える決意であった。井上なしには金解禁はなしえないと思っていたからである。井上の専門性もさることながら、義理や思惑などに流されない男として、高く評価していたのである。
浜口は井上を説得した。「この仕事は命がけだ。すでに自分は一身を国に捧げる覚悟を決めた。君も、国のため覚悟を同じくしてくれないか」。もともと嘘や偽りがないのが浜口である。本気で死ぬつもりなのだと井上は感じた。この男に殉じよう。井上の腹も固まった。金解禁内閣の成立である。
しかし、それは簡単なことではなかった。解禁に先立ち、為替相場をできる限り、法定レートに近づけておかなければならない。それには、財政の健全化、つまり緊縮政策を強いられるのである。浜口と井上は、歴代の内閣の誰もが先延ばしにしてきたこの問題に果敢に取り組んだ。不景気が進み、街に失業者が溢れ出る。浜口は叫んだ。「緊縮節約は、最終の目的ではありません。国家財政の基礎を強固にし、発展の素地を作るためです」と。
国民は浜口を信頼した。浜口という男をよく知っていたのである。公私を厳格に峻別し、私用で部下を使うことは金輪際なかった。官邸の電灯代金に至るまで、公用と私用を厳密に計算して、私用に関しては自費で支払ったような男である。
1929年11月21日、ついに金解禁の大蔵省令が出された。しかし、結果論ではあるが、時期が悪すぎた。その1ヶ月前にニューヨークのウォール街で株式が暴落していた。当初は誰もが一時的な混乱と思い、まさか大恐慌に発展するとは思ってもいなかったのである。不況はますます深刻化し、さらなる緊縮財政に取り組まざるを得なくなった。特に陸海軍の経費削減が大きく、軍部の恨みを買うことになる。
浜口の死
翌年の11月14日午前9時、浜口は東京駅にいた。突然、銃声が鳴り響いた。わずか3メートルの至近距離から、右翼結社の一員に狙い撃ちされた。銃弾は左下腹部に命中、浜口はその場に崩れ落ちた。瞬間、「殺られるには少し早いな」と思ったという。命が惜しかったからではない。「国家のために死ぬのは、むしろ本懐とするところだ。しかし、自分の責任だけは解除してからでないと申し訳ない」という気持ちだった。ここで彼が倒れれば、政権が崩壊し、金本位制も崩れ、財政膨張への逆戻りは必至。これまでの努力が全て無駄になる。何が何でも復帰しなければならない。浜口は登院を約束した。
自力で起き上がれないほど、浜口の衰弱ぶりは激しかった。周囲は彼の衰弱ぶりに驚き、登院を見合わせるよう勧めた。しかし、責任感の塊のような浜口は「国民を欺くことはできない。宰相たるものが嘘をついてしまえば、国民は何を信頼すればいいのか」と言って、「断固、登院する」と言ってきかない。「命の保障はできません」と言う医師に対しては、「命にかかわるなら、約束を破ってもいいというのか!自分は死んでもいい。議会壇上で死ぬとしても責任を全うしたい」と怒り出す始末である。もう誰にも止められなかった。
1931年3月9日、正装した浜口が官邸前で待ち構える記者団の前に立っていた。顔面は蒼白、頬はそげ落ち、足元はふらついていたが背筋はしっかりと伸ばしている。「ご心配をおかけしました。明日から議会に出ることになりました。もう大丈夫です」。どう見ても大丈夫ではなかった。しかし、彼の毅然とした姿に記者たちの間から、拍手がわき起こり、中には目を潤ませている者もいた。一人が「万歳!」と叫ぶと、官邸の廊下に記者たちの「万歳」の声がしばらく鳴り響いていたという。
翌日、浜口は衆議院本会議場に入った。議員たちは全員総立ちで、万雷の拍手を持って首相を迎えた。その日は、浜口の簡単な復帰の挨拶の後、政敵である犬養毅総裁(政友会)が心のこもった労りの言葉を述べた後、拍手の嵐の中を退場した。その後、浜口は周囲の反対を押しきって登院を続け、国会答弁にすら応じた。4月に入って、病状は悪化。一進一退を繰り返し、8月26日、激しい発作の後、ついに息を引き取った。死の報を受けて、駆けつけた井上準之助は、玄関に入るなり、その場で大声を出して泣き崩れてしまった。静まりかえった官邸の中に、しばらく井上の泣き声だけが鳴り響いていたという。
浜口の死後、井上準之助も銃弾に倒れてしまった。二人の死により、信念の政治家が姿を消した。困難な課題を先送りにする保身の政治家ばかりがはびこってしまう。その結果、軍部の横暴と圧力が、政党政治を葬り去り、戦争への坂道を転げ落ちていくのである。私利私欲のない潔癖な政治を目指した浜口の死は、日本の死でもあった。
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