<向学新聞2017年12月号>
日野原重明
(ひのはら しげあき)
死をどう生きるべきか
「よど号」事件で第2の人生 チャレンジ精神を失わない
人はどう生きるべきなのか、どう死ぬべきなのか。こんな古くて、新しい問いに、日野原重明の人生は、一つの解答を与えている。医師として数多くの生と死に立ち会い、終末医療の先駆的道を切り開いただけではない。105年間に渡る自分自身の人生を生き抜くことで、現代人に生き方のモデルを提供した。
最初の患者の死
今年7月18日、日野原重明は105年の人生に幕を閉じた。彼の告別式には、4千人を越える人々が集まり、別れを惜しんだ。百歳を超えてなお現役の医師の仕事にこだわり、数多くの生と死に向き合い続けてきた。彼の業績は計り知れない。日本でいち早く予防医療に取り組み、人間ドックを導入した。今では誰もが使う生活習慣病という言葉を普及させたのも、日野原である。終末期医療に尽力し、日本初のホスピス専門病院を開設した。「新老人」という言葉を世に広め、自らが高齢化社会を豊かに生きるシンボルとなった。
提供 (学)聖路加国際大学
彼が生涯にわたって問い続けた問いがある。「人は死をどう生きるべきか?」「生を完成させる終末に立ち向かう医療とはどうあるべきか?」。
その問いは、内科医として担当した最初の患者の死に始まる。16歳の女工さんだった。その少女の容態が悪化しても、貧しい母は仕事を休めず、娘の見舞いにもなかなか来れない。死の直前、娘は日野原に「先生、私は病身で親不孝ばかりして本当に申し訳なかったから、先生からお母さんにお礼を伝えて下さい」と息も絶え絶えに語ったという。
その時、彼は「死ぬことなんてないから元気を出しなさい」と励まし、カンフル注射をした。しかし、その効果がなく少女は喘ぎながら死んでしまったのである。少女は熱心な仏教信者だった。彼は悔いた。あの時、どうして「お母さんにはあなたの言葉を伝えますから、安心して成仏しなさい」と言ってあげられなかったのか。死を受容した少女を安楽に死なせるのでなく、かえって苦しめてしまった。この思いが彼を苦しめた。彼の最初の患者の死が、彼を終末医療に向かわせる契機となるのである。
牧師の子として
日野原重明の人生を語る上で、避けて通れない人物がいる。その筆頭にあげるべきは、やはり両親であろう。重明が生まれた頃、父善輔はメソジスト系の神戸栄光教会の牧師を務めていた。重明も7歳の時に洗礼を受けている。父は、常に「何でも他人の倍やれ」「思いついたら明日ではなく、今すぐやれ」と叱咤したという。重明の精神形成に、そんな父の影響が色濃く感じられる。父の薫陶やキリスト教の教えが、生き方のベースになった。
母満子は牧師の妻として夫を支えながら、信仰の生涯を送った女性であった。重明が医者になろうとしたのは、この母の病がきっかけだった。彼が小学4年の時、母は発熱後、意識を失い痙攣発作が起こった。病名は仮性尿毒症。死の可能性もあると医者は告げた。この時、重明は母の背中を叩いて、「死んだらいや」と叫んだことを覚えている。
幸い母は普通の生活に戻ることができた。彼が医者を目指そうという思いが芽ばえ始めたのは、この体験がきっかけだった。また、一家のかかりつけの医師安永謙逸先生の姿も大いに影響した。安永先生は、どんなに夜遅くても往診してくれたし、その上、往診料も請求しなかった。6人兄妹を抱え祖母の面倒すら見ている貧しい牧師一家の逼迫する家計を理解していたからである。重明は、どんな貧乏な患者のところにでも往診するような親切な医者になりたいと思い始めたのである。
オスラーとの出会い
京都大学医学部卒業後、北野病院等で数年勤務した後、1941年に聖路加病院の内科医として招かれた。しかし戦後、聖路加病院はGHQ(占領軍)に接収されてしまった時期がある。米軍の陸軍病院にするためである。聖路加病院は、近くにあった都立整形外科病院を借りることになった。彼がウィリアム・オスラーの書物に出会ったのは、そんな時期のことである。陸軍病院のライブラリーに通い、アメリカの医学論文に目を通してみると、「オスラーはこう言っている」という文献を頻繁に眼にしたのである。以来、日野原はオスラー関連の書物を貪るように読みあさった。
アメリカ医学の祖と言われたオスラーに、日野原は直接会うことはなかったが、オスラーを通して臨床医としてのあり方を学んだ。患者を尊重すること。患者を病む「臓器」として診るのではなく、病んでいる「人」として診ること。人間に深い興味と関心を持つこと。これらの教えは、その後の医師としての日野原の生き方を決定づけることになった。
後に聖路加病院の院長として、この病院を一つのモデルにしようと考えたのは、オスラーの考えが下敷きにあったことは間違いない。ソーシャル・ワーカー(患者の自立を促すため、サポートする専門職)を日本で最初に紹介したり、ベッドサイド・ティーチングを徹底させた。オスラーは診察時にも白いガウンを着ず、聴診器を背広の内ポケットに入れて、何気ない様子で病室を訪れ、患者のベッドの端に腰を下ろして、じっくり患者の話に耳を傾けていたという。そんなオスラーに倣って、日野原はいつも患者に寄り添った。
聖路加のホスピス病棟に一人の老女が入院してきた。日野原は、いつものようにその患者の目線に合わせてベッドの傍らに座り、その手を取って、患者の言葉に耳を傾けていたという。聖路加に来る前の病院では、医師とのコミュニケーションが欠けていたことは明らかだった。一番辛かったことを尋ねると、不安な心を誰にも話せず、聞いてもらえず、ずっと一人で耐えてきたことだったと語った。
進行した肺ガンで呼吸すら困難なはずの老女は、彼との会話の間、一度も呼吸に苦しむこともなく、笑みまで浮かべていたという。その病状は余命1ヶ月、どんな医療を持ってしても治すのは困難だった。しかし、彼は言う。「むしろここから先こそが、医療者の資質が問われる場面なのだ」と。医療の対象は「病」ではなく、あくまで「人」なのである。
ガン告知のような深刻な話の時には、日野原は細心の気配りを怠らなかった。明るすぎず、暗すぎず、光の加減を配慮したのも、患者の視線の先に美しい花を置いたりしたのも、患者が彼に何でも話しやすい環境を整えるためだった。オスラーから学んだことである。
「よど号」事件
日野原の人生にとって、大きな転機となった事件があった。1970年3月31日、福岡で開かれる内科学会に参加するため、羽田空港から朝一番の日本航空機「よど号」に乗り込んだときのことである。日本赤軍を名乗る数人の男たちが、日本刀を抜き、「この飛行機を乗っ取った。今から北朝鮮へ飛ぶ」と叫んで、乗客129人を紐で縛り付けた。
この時、日野原は咄嗟に聖書の言葉が思い浮かんだという。イエスの弟子がこぎ出した船が、大嵐に遭い、沈むのではないかと恐れおののくのを見て、イエスは語った。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」。
また拘禁された状態で、機内温度は40度を越え、脱水状態。飛行機の回りを戦車が取り囲んでいる。軍隊や警察が突入すれば、赤軍は機体を爆破させる危険もあった。そんな状態が3泊4日続いた。そういう中で読んだ本が、赤軍から借りた『カラマーゾフの兄弟』であった。その巻頭に書かれていた聖書の言葉が眼に飛び込んできたという。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。これまで多くの患者の死を見てきたが、まさに死が自分自身の問題として目の前に迫っていた。死んだらどうなのだろうかと思いめぐらしたり、自分の葬式の場面を想像したりもした。そして、「一粒の麦の死」の聖句を何度も何度も心で繰り返したという。そして死を覚悟した。
しかし、山村新治郎運輸政務次官がよど号に乗り込み、彼が赤軍と一緒にピョンヤンまで行くことになり、乗客は降ろされた。タラップを下りて土を踏んだ瞬間、「地球に帰ったなあ」という気持ちがわき起こってきた。「あの時の土を踏んだ足の裏の感覚が忘れられない」と語り、地球の美しさを実感したという。この経験の後、彼は「与えられた命」であるという気持ちで物事を考えるようになったと語っている。そして、許された第2の人生を自分以外のこと、世のため、人のために捧げようと決意するのである。
90歳を迎えようとする2000年の秋、日野原は「新老人の会」を旗揚げした。超高齢化社会を迎えつつある日本で、老人にしかできないこと、老人だからできることを、老人の使命として、老人の手で実現しようと言うのである。生かされている最期の瞬間まで、人は「人生の現役」なのだと主張した。「現役」とは、「いま」を生きることに、自分という全存在をかける生き方を言う。日野原は、そのように主張し、そのように生きた。
105歳の誕生日(2016年10月4日)パーティーの場で、東京オリンピックの聖火に火を点したいと語っていた。体調を崩し、病床に伏したのはその直後のことだった。亡くなる3週間前、「新老人の会」の事務局長のところに日野原から電話があった。「次の講演会はどこなの?」と病床から尋ねてきたという。テーマまで決めていた。「限られた命をどう使うか」。もう一度、自分の思いを伝えたい。そのため、リハビリをすると語り、事務局長を驚かせた。最期までチャレンジ精神を失わなかったのである。
常日頃、日野原が語っていた言葉がある。「納得できる死とは、最期にありがとうと言って、死ねるかどうかだ」。2017年7月18日、人生の幕を閉じようとしていた時、彼は近親者たち一人一人を枕元に呼んで、ラストメッセージを語り、「ありがとう、ありがとう」と感謝の気持ちを伝えたという。何か人の役に立っていること、それが日野原にとって生きることだった。人はどう生きるか、どう死ぬのか。そんなモデルを示してくれた生涯だった。そして、日本中が彼に「ありがとう」の言葉を手向けたのである。