石橋 湛山
(いしばし たんざん)
自由主義、理想主義を貫く
小日本主義を主張 軍部の圧力に屈せず
政治家には、高い教養と知性、思考力と洞察力、そして意志の強さが求められる。その上、倫理性があれば申し分ない。石橋湛山という人物は、これら全てを有する稀有な人物であった。日蓮宗の寺に生まれ、様々な人生の師と「不思議な出会い」を体験しながら、人間的力を磨き上げていくのである。
僧侶の家
石橋湛山は、総理大臣まで務めた政治家である。しかし、彼の人生の大半は政治家というより、言論人として活躍した。「東洋経済新報」の誌上にて、戦時中、軍部のいかなる弾圧にも屈することなく、一貫して自由の論説を主張し続けた気骨ある人物だった。社内からは、社の存続のために、軍部にいくらか同調すべきではないかという声が上がったこともあった。しかし、湛山は断固として言った。「東洋経済新報の伝統と主義を捨て、軍部に迎合し、ただ東洋経済新報の形だけを残したとしても無意味だ」。剛毅の人であり、清廉にして潔癖、まさに言論界のサムライだった。
湛山が生まれたのは1884年9月25日。生まれたのは東京であったが、乳飲み子の時、母の実家である山梨県甲府市稲門(現在の甲府市伊勢)に転居し、そこで育った。父の名は杉田湛誓、日蓮宗の僧侶であった。母は石橋きん、日蓮宗の有力な檀家の娘であり、湛山は母の実家の石橋を名乗った。詳しい事情はわからない。
10歳の時、父は湛山を知り合いの寺(長遠寺)の住職望月日謙に預けた。預けた以上は、親子の一切の交流を断つ。家に未練を残して、師の躾にそむいてはならないという父の方針だった。寺での日常生活は、生やさしいものではなかった。広い寺の掃除、客へのお茶出し、食事の給仕など、さながら修行生活であった。そんなある日、父母との交流のない寂しさからか、学校の授業料を使い込んだことがある。しかし、住職からは叱責の言葉は一言もなく、黙って払い込んでくれた。それゆえ、湛山はかえって恐縮し、深く反省した。「望月師の薫陶を受けたことは、一生の幸福であった」と語るのである。
落第生
後の湛山からは想像もつかないことだが、湛山は落第生だった。中学1年で落第し、中学4年の時も、落第した。怠けて勉強せず、遊び歩いていたからと湛山自らが語っている。授業料を使い込み、2度にわたる落第、どう見ても「不良中学生」である。
しかし、悪いことばかりではなかった。この落第のおかげで湛山は、運命的出会いをすることになる。中学最後の年、大島正健校長が赴任し、その薫陶を受けることができたのである。大島校長は札幌農学校の第一期卒業生で、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の言葉で有名なウィリアム・クラークから直接指導を受けていた。校長から、折に触れクラーク博士の精神を聞き、「自分もクラーク博士になりたい」と強く思うようになった。「それはわたしの一生を支配する影響だった」と語っている。
後に湛山は母校に呼ばれてスピーチをしたことがある。その時に、大島校長との出会いを語った。2度の落第という不名誉な結果、大島先生に出会ったと述べ、学問や生活の覚悟なり方針を切り換えることができたと語った途端、言葉が突然、途切れてしまった。そして「不思議なことです。実に、不思議という他はない」と言って絶句したという。
湛山が早稲田大学文学部哲学科に入学したのは、1904年のこと。しかし、この入学は願わざるものだった。第一高等学校(現在の東大教養学部)の受験に2度挑戦し、2度とも失敗した結果であった。しかし、ここでもまた運命の神による不思議な縁が準備されていた。田中王堂教授との出会いである。「私は先生によって、初めて人生を見る目を開かれた」と述べるほどの感化を受けた。倫理学の担当教授が海外留学に赴いたため、東京高等工業学校(現在の東工大)から、兼任講師としてやってきたのが、田中王堂であった。これもまた、落第と受験失敗がなければ、出会えなかった奇縁である。
田中王堂との出会いにより、湛山は学問の深さ、おもしろさを感じ、猛烈に勉学に励んだ。その結果、文学部全体で首席卒業の栄誉を勝ち取った。あの落第生がである。田中は、プラグマティスト、ジョン・デューイの薫陶を受けてきた人物だった。湛山が当時流行の社会主義に関心を向けなかったのは、このプラグマティズムの影響を見過ごすことはできない。また早稲田大学には、自治の精神と改進の力を重視する校風があった。これを「早稲田精神」と呼ぶなら、まさに石橋湛山こそがその精神の体現者と言っても過言ではない。
自由主義、反帝国主義の論陣
湛山が東洋経済新報社に入社したのは、1911年のことである。言論人として活躍する舞台が与えられた。この社の支柱は、帝国主義政策への反対、近代思想を基調とする個人主義、自由主義の主張であった。こうした社風に後押しされ、湛山は、軍国主義、帝国主義との果敢な戦いを繰り広げていくのである。
特に力を入れた言説は、普通選挙の実施と小日本主義の主張であった。その中でも小日本主義は、当時の帝国主義的拡張政策に真っ向から反対を唱えるもので軍部を敵に回す主張であった。彼は言う。「満州(中国の東北地域)を捨てろ。中国が日本から受けつつあると考える一切の圧迫を捨てろ」と。そればかりではない。「朝鮮・台湾・樺太も捨てる覚悟をせよ」と言う。当時の時流に抗う、驚くべき主張であった。
湛山は時代を透徹した目で見ていた。異民族を併合したり、支配したりする大日本主義は長くは続かない。どうせ捨てねばならない運命にあるならば、早くこれを捨てるのが賢明である。いたずらに執着し、異民族から敵対視されるのは、目先の見えない話ではないか。さらに、彼らを解放すれば、その道徳的後援を得ることにもなり、アジア諸国の原料と市場を十二分に活用できる。つまり、小日本主義とは、国土を小にせよという主張ではなく、経済活動を通して、むしろ世界大に広げる策なのだと説くのである。
1931年、軍部は満州事変を引き起こし、翌年には満州国を建設してしまう。軍部の大陸進出を日本国民も喝采を持って迎える中、湛山は言う。「満州は中国の領土である。彼らの領土に日本の主権の拡張を嫌うのは、理屈ではなく、感情である。我々日本国民も、たとえ善政をしかれても、日本国民以外の者の支配を受けることを喜ばない。ちょうどそれと同じではないか」と。さらに、満州国の「王道国家(理想国家)」のスローガンに対し、「日本国内にさえも実現できぬ理想を、中国人が住む満州にどうしてこれを求めることができようか。まずは日本国内においてこの実現を目指すべきではないか」と批判した。
こうした湛山の主張は、領土拡張を目指す軍部との命がけの戦いを意味した。日中戦争(1937年)の拡大と共に言論の取締りが厳しくなっていく。もはや、真っ正面から反軍、反戦などを打ち出せる時ではない。たびたび全面削除を命じられた。頁数の削減を余儀なくされた。「東洋経済新報を救おうと思うなら、石橋が社を退くことだ」と圧力がかかった。しかし、湛山は屈しなかった。その頃の湛山を支えていたものは、日蓮の言葉であった。「我、日本の柱とならむ。我、日本の眼目とならむ。我、日本の大船とならむ」。石を投げつけられ、家を焼かれ、島流しにあっても、その信念を曲げなかった日蓮に自分の人生を重ね合わせていたのであろう。
これほどまでに軍部と戦った湛山ではあるが、驚くべきことに戦後、GHQ(占領軍)により「公職追放」の憂き目にあった。様々な政治的思惑の故と言われているが、よくわからない。いずれにせよ、当時のパージがいかに杜撰だったかを示す一例であろう。これに対し、湛山は審査委員会に意見書を提出した。その中で、クェゼリン島で戦死した愛児和彦に触れた箇所がある。「私は自由主義者であるために軍部から迫害を受けてきた。その私が今や一人の愛児を軍隊に捧げて死なせた。私は自由主義者ではあるが、国家に対する反逆者ではないからだ」。この一節を読んで、ある経済学者は思わず泣き出したと書いている。自由主義者であるが、愛国者でもあった湛山の苦悩の一端に触れたからであろう。
政界進出
約4年に及ぶ公職追放が解除され、湛山は活動の場を政界に移していく。権力への野心は毛頭なかった。敗戦後、政策担当者がインフレを恐れる余り、緊縮政策を行おうとしていることに、湛山は強い懸念を抱いていた。恐ろしいのはインフレではない。生産が止まり、多量の失業者を生むデフレである。この緊縮政策を何としてもくい止めるには、言論の力では間に合わない。政界に出るしかないとの決意であった。
第一次吉田茂内閣で蔵相、鳩山一郎内閣で通産相を歴任し、1956年の自由民主党の総裁選挙で総裁に選任され、ついに石橋内閣が成立した。しかし、新内閣誕生1ヶ月後、72歳の湛山に病魔が襲う。老人性急性肺炎で倒れ、起き上がれなくなってしまった。長期療養が不可欠という診断。これでは、予算審議には一日も出席できず、首相としての責任を果たすことができない。湛山は総辞職を決断する。わずか2ヶ月の内閣だった。
かつて浜口雄幸首相が銃弾に倒れ、首相の重責を担えない状況の中、国会が大混乱したことがあった。その時、湛山は浜口の災難には同情しつつも、すぐに辞表を提出しなかった浜口の責任を厳しく追及したことがある。かつて浜口を裁いたように、この度、湛山は自らを厳しく裁いたのである。言行一致の人だった。
湛山は退陣声明の中で、「私は政治的良心に従います」と述べ、「私権や私益で派閥を組み、その領袖に迎合して出世を考える人は、もはや政治家ではない。政治家が高い理想を掲げて国民と共に進めば、政治の腐敗堕落の根は絶えるはずだ」と語った。国民はこの言葉に粛然とし、心から彼の退陣を惜しんだのである。言論人として、政治家として、理想主義、自由主義を唱え続け、さらに言行一致を貫いたその生涯は特筆に値する。
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