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加賀尾秀忍 
(かがおしゅうにん)

大統領の怨みを溶かす 
戦犯の命を救った僧侶  死刑囚が作った歌で啓蒙 

  戦争が終わった4年後、一人の僧侶がフィリピンの刑務所に向かった。戦犯の宣告を受けた150人を越える日本兵の教誨師として。彼は戦犯者たちと起居を共にし、常に彼らの心に寄り添って生きようとした。その無私の献身が、ローマ法王の心を動かし、大統領の怨みを溶かすに至った。

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受刑者の教誨師として
 フィリピンの首都マニラ郊外のモンテンルパに、東洋一と言われた刑務所があった。そこには第二次世界大戦終了後、戦争犯罪容疑で逮捕された日本人兵士約150人が収容されていた。彼らは死刑、無期刑などの判決を受けていたが、ほとんどは身に覚えのない冤罪で、死刑執行の恐怖と戦い、苦悶の日々を過ごしていた。そんな彼らを救出するために立ち上がった一人の僧侶が、加賀尾秀忍である。
 加賀尾は、岡山県真庭郡落合町(現在の真庭市)にある極楽寺に生を得た。1901年のことである。1929年、真言宗京都大学(種智院大学)の卒業と同時に、宝蔵院の住職となった。仏の道に帰依し、修行と勉学の日々を過ごしていた加賀尾にマニラ行きの話が飛び込んできた。GHQ(連合国軍総司令部)の命令により、6カ月の任期でフィリピンでの戦争裁判の教誨師(受刑者の教育を担当する者)として派遣されるという。
 彼は当初、「自分には荷が重すぎる」と思い、断ろうとしていた。逡巡する彼の背中を押したのは、受刑者たちの留守家族の姿であった。戦争が終わり、夫や父や兄がようやく戻ってくると思っていた矢先、彼らは戦犯容疑で逮捕。戦犯の家族ということで、周囲から白眼視され、生活も困窮を極めていた。彼らは加賀尾にすがって泣いた。「この人たちを救わないで、どうして僧と言えようか」。加賀尾はマニラに行く決意を固めた。48歳の決断であった。

戦犯容疑者の苦悩
 加賀尾がマニラのモンテンルパ刑務所に着いたのは、1949年10月。そこで見聞きしたものは、彼の想像をはるかに越えた悲惨な現実だった。たとえば、セブ島メデリンで行われた村人殺害事件。日本軍は村に潜むゲリラ退治のため、村人を殺害、婦女子を強姦、村の焼き討ちなど残虐の限りを尽くした。
 この事件で実際に起訴された13人の内、明らかに6人は事件と無関係だった。彼らは、メデリンなどに行ったこともなかったのである。にもかかわらず、この13人は全員死刑の宣告を受けてしまった。どうしてこんな理不尽なことが起こったのか。それは、日本軍の雑役夫であった一人のフィリピン人の証言に基づいていた。彼は容疑者の面通しの際、「あれもいた、これもいた」と指をさしたのである。この雑役夫のように、当時の対日協力者たちは、自らの保身のため、日本人戦犯者を挙げることに必死だったのだ。
 受刑者たちの深い苦悩を知るにつけ、加賀尾は「彼らを導くというより、その悲惨、困苦の道を共に歩くということが、自分の使命ではなかろうか」と考えるようになった。刑務所内の一室を観音堂として、そこに彼は居住し、文字通り受刑者たちと起居を共にしたのである。6カ月の任期が過ぎても、「この人たちを残して、帰るわけにはいかない」と言って、帰国しようとはしなかった。しかし日本政府は、加賀尾の勝手な延期には実に冷淡で、給料も滞在費用も出そうとはしなかった。彼は無給で、しかも受刑者たちの残飯を食べて生活をしたのである。
 モンテンルパに着いて、1年余り経った1951年1月、加賀尾が恐れていたことが、現実となった。セブ島メデリンでの村人虐殺事件の容疑者13人を含む14人の死刑囚が処刑されたのである。減刑の噂が飛び交っていた矢先のことであっただけに、残された者たちの衝撃は大きかった。
 彼らの死を見届けたのは加賀尾だけであった。別れも告げず13階段(絞首台)に消えた14名の命を思い、残された仲間たちは泣いた。亡き友の遺品を整理すれば、苦楽を共にした思い出がよみがえる。やがて自分も処刑され、誰かがこうして自分の遺品を整理してくれるのかと思うと、とめどなく涙が流れ落ちてきた。加賀尾は気落ちする受刑者たちを「自暴自棄になってはいけない」「希望を捨ててはならない」と言って必死に励ました。そして、ひそかに、「今後一人たりとも失ってはならない」と決意したのである。

渡辺はま子の運動
 加賀尾は、マッカーサー元帥宛てに助命嘆願書を送ったり、日本の毎日新聞にも投稿した。明らかに従来の教誨師の職務を越えた、こうした彼の必死の努力も日本の世論を喚起するには至らなかったのである。
 加賀尾は思った。「もう歌しかない。歌だったら、人々の心に素直に届くだろう。死刑囚自身の言葉とメロディーで、歌を作ろう」。作詞は代田銀太郎に、曲は伊藤正康に頼んだ。二人とも死刑囚で、音楽にはずぶの素人。代田はたまたま文学好きで、伊藤はオルガンが弾けたにすぎない。
 できあがった曲には激しい望郷の念が込められており、聞く者の心を打たずにはおれないものだった。あふれ出る哀しみと苦悩、そしてささやかな希望が歌われていた。できあがった曲の楽譜を加賀尾はすぐに、日本の歌手渡辺はま子のもとに郵送した。彼女は、戦犯の存在を知り、日本で積極的に釈放運動を展開していたのである。しかし、彼女には一抹の不安があった。確かにこの歌は心が締め付けられる。しかし、恋愛の歌でも、元気が出る歌でもない。こんな地味な歌が、今の日本の世相に受け入れられるだろうか。
 彼女の心配をよそに、「あゝモンテンルパの夜は更けて」と題して発売されたレコードは、20万枚を売る大ヒット。渡辺は、ラジオや地方公演のたびにこの歌を歌い、必ず一言付け加えた。「戦争が終わって7年も経つのに、いまだ牢につながれている人たちがいるのです」と。日本での釈放運動がこうして広がっていった。
 1952年12月24日、渡辺はま子はマニラに到着し、モンテンルパに急いだ。日本で大ヒットしたこの曲を受刑者たちの前で歌うことで、彼らを激励したかったのである。受刑者たちを前にして、どうしたら泣かずに歌えるか。そんな思いで歌い始めた。「♪モンテンルパの夜は更けて、つのる思いにやるせない、遠い故郷をしのびつつ、涙に曇る月影に、優しい母の夢を見る」。受刑者の中からすすり泣きが聞こえてきた。最後に全員で合唱した時には、そこにいた全員が肩を震わせて泣いた。望郷の念とともに、処刑された14名のことが思い出されたのである。
 戦犯者のために立ち上がったのは、渡辺はま子ばかりではなかった。復員局の植木信良。彼はひそかに決意していた。「モンテンルパの戦犯が全部片がつくまでは、どんなことがあってもこの仕事をやり通そう」。植木は、留守家族会をまとめあげ、彼らを激励するため、全員釈放の日まで機関紙を発行し続けた。自分の生活を省みることもなく、会のために尽力した。給料の3分の2をこの会のために投入していたのである。
 植木をここまで動かしたものは、加賀尾の情熱以外の何物でもない。6カ月の約束で加賀尾を送りだしたのは、実はこの植木であった。その加賀尾が、6カ月過ぎても無給で受刑者の残飯を食いながら頑張っている。植木としてもじっとしていられなかった。

大統領を動かす
 戦犯者の釈放が遅れた理由は、日本とフィリピンとの間の賠償交渉が暗礁に乗り上げていたからである。それと、フィリピンのキリノ大統領には忘れ難い体験があった。大統領自身、日本軍に捕えられ、激しい拷問を受けていた。外務大臣をしていた弟は、日本軍の手によって斬首され、大統領の夫人と娘も撃ち殺されていたのである。敬虔なクリスチャンであった大統領は次のように語っている。「『怨みを返すのに、恨みをもってしてはならない』ことはよくわかっていました。しかし、私の怨みは頑固でした」。
 加賀尾はローマ法王に手紙を書き、戦犯者の助命を嘆願した。加賀尾の手紙は法王の心を動かした。マニラにいた法王大使を通して、キリノ大統領に法王の意向を伝えたのである。加賀尾とキリノ大統領との会見が実現するのは、それからすぐのことであった。
 大統領にとって気が重い会見であった。法王の意向を尊重したい気持ちはある、しかし、積もる怨みをどうすることもできない。どうせ戦犯者を釈放しろと泣き落しでくるのだろう。しかしそんなことで許せる問題じゃない。彼は身構えながら、会見に臨んでいた。
 加賀尾は日本から送られてきたオルゴール入りのアルバムを土産に持参した。大統領が包みを開いてみると、哀愁を帯びた音色が流れ出した。例の曲である。「この曲は何か?」「『あゝモンテンルパの夜は更けて』という曲で、戦犯者の作ったものです」。
 加賀尾が帰った後、大統領は側近に語った。「言葉の代わりに音楽をアルバムに仕込んできて、それを黙って手渡した。それが私の心の琴線に触れた。私は初めて心を動かされた」。この会見は頑なだった大統領の心を溶かした。それから、一カ月ほどしてから、大統領からの連絡を受け、全員釈放が決定されたと伝えられた。
 帰国を前にして、加賀尾がどうしてもやらなければならないことがあった。処刑された者たちの遺骨を探し出し、彼らを日本に連れ帰ることだった。彼は墓地を掘り起こし、死んでいった彼らに「一緒に帰ろうね」と語りかけながら、遺骨を拾い集めた。こみ上げてくる涙を止めることができなかった。
 1953年7月7日、刑務所内の局長室で特赦式が行われ、その8日後の7月15日に彼らは日本に向かう白山丸に乗船。彼ら戦犯者たちは、短い人でも9年、長い人では15年故国の土を踏んでいなかった。船内で出された内地米(日本の米)を前にして、「おれはもう死んでもいい」と言い、感涙にむせびながら食べる者もいた。
 7月22日船は横浜港に着岸。朝6時、一同は船内のサロンに集まり、加賀尾の読経のもと、処刑された戦友の遺骨の前に焼香した。皆、生きて故国の土を踏めなかった戦友にわびた。横浜港には2万5千名の群衆が出迎えてくれた。加賀尾は感無量であった。「一人も死なせてならない」と決意して運動を進めて以来、一人の自殺者もなく、病死者もなかった。全員そろって故国の土を踏むことができたのである。彼は改めて菩薩に感謝の祈りを捧げた。彼らが横浜港に到着した翌日、政府は加賀尾に感謝状と記念品を贈呈した。彼の並はずれた努力と献身を政府も無視できなかったのである。
 1977年5月14日、76歳で生涯の幕を閉じるまで、彼は「13階段(絞首台)と平和」と題して講演を続けた。それは平和を祈る全国行脚の旅であった。



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