嘉納治五郎
(かのうじごろう)
柔術を統合し柔道へ
日本教育界の巨人 オリンピック招致に尽力
柔道は今や広く世界に普及し、オリンピックの正式種目となっている。百を超える柔術の流派を一つにまとめ上げ、世界に普及させた人物こそが、嘉納治五郎であった。心身の鍛練を目指し、人の道を究めるものであるから、これを柔道とした。「道は根本、術は応用」であるからだ。
母の影響
嘉納治五郎といえば、講道館柔道の創始者、柔道の父と言われている。日本古来からあった柔術を柔道として、スポーツ化することに成功し、世界に普及させた最大功労者である。また、25年以上の長きに渡って高等師範学校(現在の筑波大学)の校長を勤め、IOC(国際オリンピック委員会)委員としても活躍した。彼の生涯は、実に教育にかける情熱で一貫している。日本教育界の巨人とも言われているのである。
嘉納治五郎は、1860年10月18日、摂津国御影村(現在の神戸市東灘区御影町)に、治朗作と定子の間の三男として生まれた。この地域は日本有数の清酒業地で、嘉納家も代々酒造業を営んでいた。嘉納家に婿入りした立場であった父の治朗作は、家督を義弟に譲り、単身大阪に出た。才知溢れる治朗作は、幕府の軍艦奉行(海軍大臣)の勝海舟に認められ、彼の指導のもと、運輸業に携わることになった。
父は大阪と江戸(東京)を往来する日々で、妻子がいる御影村に腰を落ち着けることはなかった。母の定子は留守を守り、実家の家業を手伝いながら、子育てに忙しい日々を過していた。躾に厳しい母であったが、同時に思いやりも深く、困っている人には、自分のことのように心配した。他人を優先し、人のために尽くす女性であった。家に遊びに来た子供に菓子を配る時にも、良い菓子はよその子に渡し、治五郎を後回しにしたという。
こうした姿勢は、治五郎自身の生涯に貫かれている生き方でもあった。治五郎は10歳の時、母を亡くしている。だからこそ、彼は母の思い出を心に強く刻み込み、母のような、人のために尽くす生き方をするような人物に成長したのであろう。
柔術を学ぶ
母を失った翌年、治五郎は兄と共に東京に出ることになった。明治新政府に起用されている父のもとで生活するためである。教育熱心な父は、「これからは武士の世の中ではない。学問を身に付けよ」と言って漢学、洋学を学ばせた。
14歳の時に育英義塾に学び、その後、東京外国語学校の英語部に進み、翌年には官立の開成学校に入学した。治五郎の学生生活は、悔しい思いの連続だった。どちらかというとひ弱で、小柄な彼は、いつもいびられ、バカにされていたからだ。特に開成学校は、旧藩から選ばれて入学した者が多く、武士の名残か、学問より腕力のある者が幅をきかせる世界であった。先輩からいびられるにつれ、「彼らに負けない強い体がほしい」と切実に願うようになった。治五郎が柔術に関心を持ち始めるのは、この頃からである。
強くなるには、柔術の修行をおいて他にない。こう固く信じ込んでいた治五郎は、柔術の師匠を探し始めるのである。最初の師匠である福田八之助と出会ったのは、開成学校が東京大学に改称され、東京大学文学部1年に編入した18歳の頃である。福田は天神真楊流の師範で、自ら道場を開いていた。ここに入門した治五郎は、ようやく柔術を学べる喜びで、天にも昇るような気持ちであったという。
師匠の死
治五郎は毎日、休まず福田道場に通い続けた。少しずつ力をつけてきた頃、悲劇が起こった。師と仰ぐ福田が52歳の若さで急死したのである。未亡人のたっての願いで、治五郎は道場長を引き受けざるを得なくなる。弱冠20歳、それも学生道場長の誕生であった。
道場長と言っても、まだまだ未熟な治五郎には師匠が必要であった。それで福田の師匠筋に当たる磯正智の道場に通うことにした。ところが、この磯も2年後には亡くなってしまったのである。自分には師匠運がないと嘆きながらも、治五郎は新たに起倒流の達人、飯久保恒年の門を叩くことにした。
この起倒流は、投げ技に優れ、特に払い腰などの技には目を見張るものがあった。47歳の飯久保に22歳の治五郎はかなわない。それは単に彼の未熟さという問題ではなく、流派の違いにあることに治五郎は気付いた。彼の天神真楊流は、寝技、絞め技を得意とする。投げ技では、起倒流にかなわない。
二人の師匠の死という悲劇に見舞われた結果、治五郎は三つの道場を渡り歩き、二つの流派を学ぶ羽目になった。しかし、これが彼の柔道人生に大きな財産をもたらすことになるのである。「各流派のいいところを取り入れて、真の日本柔術を作りたい」。こんな夢を持つようになった。元来が研究熱心な治五郎は、各流派の技を徹底的に研究し、新しい技の開拓に取り組んだ。そして夢は膨らみ、日本の柔術を世界に広めたいと考えるようになっていくのである。
講道館柔道の誕生
治五郎が講道館道場を開いたのは1882年、22歳の頃である。道場といっても、永昌寺という寺の境内の空き地を借り受けて新設したもの。学習院の講師として得た最初の給料をそれに当てた。わずか12畳半の広さに過ぎない道場ではあったが、全てはここから始まったのである。
道場開きに集まった10名ほどの門弟たちを前に、治五郎はある重大な宣言をした。「今日から柔術という名を改めて、柔道としたい」。聞き慣れない柔道という言葉に門弟たちは、驚きを隠せなかった。治五郎は新しい柔術を生み出す使命感に燃えていた。それぞれの流派の長所を取り込んだ総合的な柔術を目指し、その研究を続けてきたのである。
本当の柔術とは、単に技を磨くばかりであってはならない。体を鍛え、精神修養を目的とし、「人の道」を教えるものでなければならない。喧嘩好きには喧嘩をやめさせ、その精力を柔術の稽古に集中させる。学問嫌いには学問をすすめる。それが柔道である。さらに、「道を講ずる教育所が道場である。ゆえに、本道場を講道館とする」と語った。
弱冠22歳の道場長の熱い言葉に、門弟たちは感激し奮い立った。治五郎の中で温めていた講道館柔道が、殻を破って孵化した瞬間であった。わずか10名ほどから出発した講道館柔道は、4年後には約百名を数え、7年後には6百名の規模に膨らんだ。
これだけ一気に増えたのは、やはり治五郎の門弟が強かったからである。警視庁の柔術師範を倒し、当時日本一強いと言われた戸塚道場の強者たちとの対決でも圧勝した。講道館の評判を聞いて、海軍兵学校では柔道を科目に採用した。まさに講道館柔道の名声は日本中に鳴り響くことになったのである。
オリンピックの東京招致
1909年、49歳の治五郎が日本人初(東洋初)となるIOC委員を引き受けた。世界平和と体育の向上を目指すオリンピックの精神に深く共鳴したからであるが、それと共に、柔道に見る日本文化の普及がはかれると考えたからでもあった。彼が当時、打ち出していた柔道の理念は「精力善用、自他共栄」。その意味するところは、心身の力を最も有効に活用することこそ、自己完成の道であり、人間と社会の進歩と発展に貢献することになるということ。これはオリンピック精神と相通ずるものであった。
晩年の治五郎は、第12回オリンピック(1940年)を東京に招致しようと尽力した。しかし、客観的状況は極めて不利であった。日本の関東軍(満州に駐屯した日本陸軍)は、1931年に満州(中国東北部)事変を引き起こし、翌年には日本の傀儡国である満州帝国を打ち立てていた。その上、日本は国際連盟を脱退してしまい、世界から孤立する道を進んでいたのである。オリンピック招致には時期が悪すぎた。
1936年のベルリン会議に参加した治五郎は、東京開催の意義を熱弁した。治五郎への信頼のゆえ、いったんは勝利を勝ち取ったものの、最終判断は1938年3月まで持ち越されることになった。しかし、日本を取り巻く状況は、ますます厳しくなっていた。1937年には日中戦争が勃発。東京大会に反対する声が、日増しに強くなっていた。
しかし、治五郎の決意は変わらなかった。「東京開催まで生きて、一生のご奉公をするのだ」と言っていた。77歳の治五郎はエジプトのカイロで開かれるIOC委員会に乗り込んだのである。会議は6回に及び、白熱した議論が展開された。
ついに採決の時、東京開催が最終的に決定した。委員のほとんどは、軍国主義的日本に反感を抱いていた。しかし、治五郎に対する信頼は絶大であった。委員の誰もが、治五郎の熱意に報いたかった。「カノーは、我々が最も敬愛する人物である。彼は今まで我々を欺いたことがない。カノーを信頼しよう」。委員たちは、日本と言うより、嘉納治五郎という人物を信頼した。委員たちはみな、治五郎のもとに駆けつけ、口々に「カノー、よかったね。おめでとう」と言って、握手ぜめにした。彼の目には、うっすらと涙がにじんだ。
太平洋に死す
カイロでの会議の後、治五郎はアテネに行き、クーベルタン男爵の慰霊祭に参加。続いてイタリア、フランスを経て、アメリカに渡った。体調は思わしくなかった。その後、ニューヨークからシアトル経由で、バンクーバーから横浜行きの氷川丸に乗船。連日の強行スケジュールは、77歳の治五郎にはさすがに応えた。
船上で39度の高熱に襲われ、意識が不明瞭になったのは、バンクーバーを出て、10日後のこと。肺炎と診断された。その翌日5月4日、治五郎はついに帰らぬ人となった。オリンピックの東京招致を決めて、凱旋帰国の途上での死。嘉納治五郎らしい壮絶な死であった。生前、治五郎は「かけがえのないこの生涯を捧げて悔いなきものは教育をおいて他にない」と語っていた。柔道を通して、高等師範学校の校長として、またIOC委員として、常に彼の念頭にあったのは、教育への情熱に他ならなかった。その分野で十分な貢献を果たしたことは、教育界の巨人と称されていることからも、明かである。
東京オリンピックは、1939年にヨーロッパで起こった第二次世界大戦のゆえ、幻に終わってしまったが、死をかけた嘉納治五郎の功績を日本人は今も忘れない。柔道の日本選手団は、オリンピックや世界選手権に出場する際、今でも嘉納治五郎の墓にお参りすることが慣例となっているという。
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