川上 哲治
(かわかみ てつはる)
「打撃の神様」
禅の修行とV9 親孝行と家族愛
「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治は、並はずれた努力の人であった。その努力の源は、家族への深い愛情に他ならなかった。彼の行動の動因は、母親への孝行心であり、そして妻や子どもへの愛情であった。戦後、農作業に従事したのも、プロ野球界に復帰したのも、家族愛の故であったのである。
親孝行
川上哲治は、日本プロ野球界における伝説的存在である。現役時代、卓越したバッティング技術の故に「打撃の神様」と呼ばれたし、巨人軍の監督時代は前人未踏のV9(9年連続優勝)を達成した。そんな川上を「プロ野球の生き神様」と呼ぶ者もいるほどである。川上は言う。「努力に始まり、努力に尽きる」と。努力の人であったのだ。
川上哲治は、1920年3月23日に熊本県球磨郡大村、現在の人吉市に産声を上げた。家は代々、船宿(船の運送業)を営んでおり、比較的裕福だった。しかし、父伊兵次はギャンブルに手を出し、一変して家運が傾いてしまった。心身共に病んだ父に代わって、一家を支えたのは母ツマであった。母は貧苦に耐えながら、長男哲治を筆頭に8人の子供たちの母として日雇い労務者となって働き続けた。愚痴一つこぼさない良妻賢母であったという。
母の苦労を見て育った哲治は、親孝行を何よりも大事にした。小学校の野球部時代、母がなけなしの金を捻出して買ってくれた布製の靴(ズック)を、練習で使うことができなかった。練習で使って穴をあけては、母に申し訳ないと思ったのだ。常に素足で練習し、足の裏に血が滲むときは雑巾を巻いて練習を続けたという。
学費を出す余裕のない川上家で、哲治が熊本工業学校(現在の熊本工業高校)に入学できたのは、熊工野球部の後援会の資金援助による。さらに、常にトップクラスの成績であったため、県が学費を出すことを決定したのである。援助額は合計月5円(現在の10万前後か)。彼は一切無駄使いをしなかった。5円の内、1円を毎月母に仕送りしたという。母が亡くなるまで続いた「仕送り人生」はこうして始まったのである。
川上の巨人軍入団が決まったのは1937年。前年、甲子園で準優勝した熊本工業に巨人軍のスカウトが訪れた。実は、巨人軍のお目当ては捕手の吉原正喜。しかし、川上家の窮状を知っていた校長は、投手であった川上を強く推薦し、バッテリー2人を入団させてほしいと懇願した。父は「
職業野球など遊び人の世界じゃないか。お国のために働け」と反対した。しかし、母のこと、病床の父のこと、弟妹のことを考えれば、選択の余地はなかった。「給料は高い方がよか」と言って、反対する父を押し切った。
給料は百十円、当時の大卒初任給の倍ほどであった。百十円の給料取りになっても、川上の貧乏生活は変わらなかった。長男の義務として、毎月五十円を母に送金したからである。母は、その届いた金を神棚に捧げて、弟たちに「あんちゃん(兄さん)のおる東京に、足を向けて寝ちゃならんばい(ならない)」と口癖のように語っていたという。
打撃道へ
もともと投手として採用された川上だったが、巨人軍の藤本定義監督は、川上の打撃のセンスに注目していた。たまたま北海道でのオープン戦で、レギュラーの一塁手が足の捻挫で欠場。急遽、代わりに選ばれたのが川上だった。その試合で川上は3安打の活躍、それも3本とも二塁打という弾丸ライナーであった。この鮮やかなデビューに対し、川上は「母親の祈りが天に通じたと思った」と語っている。
試合後、監督は「ファーストミットを注文しておけ」と川上に一言。秘かに万歳を叫んだという。レギュラーポジションを獲得したのである。入団1年目にして、打撃成績10位。川上は弱冠18歳だった。その後の活躍は目覚ましい。入団2年目にして首位打者のタイトルを獲得。それも投手・打者の二刀流での快挙である。19歳での首位打者は、プロ野球史上、川上をおいて他にいない。さらに入団4年目には、2度目の首位打者に輝き、打点王にもなり、MVPまで獲得した。他に追随する者のいない強打者へと成長した。
川上は打撃道を究めんとしていた。彼が住んだ寮の部屋の新しい畳は、あっという間にささくれ立ったという。川上は部屋でバットの素振りを繰り返していたのである。寝ていて夢で打撃のヒントを受けると、素早く起き上がってバットを振る。こんな生活は結婚後でも変わることはなかった。新婚当初のこと。深夜、突然川上が起き上がって、枕元でビュンビュンとバットを振り始めるではないか。この異常な夫の姿に、妻の董子は「気が触れたのではないかと恐怖を覚えた」と述懐している。
プロ野球へ復帰
川上が終戦を迎えたのは、陸軍航空隊の立川基地整備部隊の小隊長の時であった。2週間後には、身重の董子が待つ妻の実家神戸に向かった。実家は空襲で丸焼けになり、知り合いの家に仮住まい。食糧難のせいで栄養不足の妻は、明らかに体調不良であった。
川上の決断は早かった。故郷に帰って畑を耕そう。妻には、なるべく早く迎えに来ると言い残して、わずか2日の滞在で熊本へと向かった。妻のため、生まれてくる子どものため、そして故郷に残る両親、弟妹のために取りうる最善の選択が、農業であった。約1年間、川上は母と二人で農作業に心血を注いだ。生きるためである。プロ野球の復活が報じられても、気に留めようとはしなかった。
川上の心に変化が生じたのは、妻が男の子を出産してからである。二人を熊本に呼び寄せ、別居生活に区切りをつけたものの、子に対する愛情は、親の義務感となって湧き上がってくる。この子のためにも、グラウンドに復帰すべきではないのか。自問自答の日々。その上、幼い息子は百日咳に罹り、発作と痙攣を繰り返した。乳児にとっては死の危険を伴う病である。涙にくれる妻を見ながら、川上は巨人軍に復帰する決意を固めていった。
その頃、巨人軍から再三にわたり、復帰要請が届いており、妻も復帰を強く望んでいた。迷いはただ一つ。病弱な父と苦労ばかりの母を置いていけるのか。彼は心底、孝行息子であった。彼は巨人軍に伝えた。「年老いた両親や家族の生活の安定のため、3万円を契約金と出してもらえないか。それが駄目なら自分は野球を捨てます」。巨人軍はその条件を飲んだため、川上のプロ野球界への復帰が決まった。彼はこの契約金3万円を全て両親に渡し、後顧の憂いなく故郷を後にしたのである。
禅の修行
巨人軍に復帰して4年が経った頃、川上はスランプに陥った時期があった。水原茂監督としっくりいかないことが原因だった。打席に立っても気分が冴えない。高揚感もない。こんな時の川上の解決方法は、実にシンプルである。バットを振ることに尽きる。二軍の若手投手を連れて、多摩川グラウンドに行き、一球一球、精魂込めて打ち続けた。「おい、カーブを頼む」。カーブを6、7球と打ち込んでいた次の瞬間、川上は思わず息を呑んだ。球が止まって見えたのだ。顔の汗を拭いて、もう一度打席に立つ。やはり球は止まって見えた。打球は鋭い弾丸ライナーとなって外野に飛んだ。夢中で打ち続け、気がつけば3百球は超えていた。「もう勘弁して下さい」。投手は音を上げてしまった。その翌年、川上は3割7分7厘という驚異的記録で、首位打者になったのである。球が止まって見えたという体験が、通算安打2351本、首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回という大記録へとつながっていくのである。
川上が現役を退いたのは38歳の時。肉体の衰えを感じ始め、2年連続で3割を打てなくなっていた。それに長嶋茂雄という新鋭が活躍し、世代交代の時であると実感していた。川上はオーナーの正力松太郎に引退の意思を伝えたが、オーナーは強く慰留した。そして、「座禅の修行に行ってみなさい。必ず何かを掴むから。結論はそれからでも遅くない」と言い、その場で「岐阜・正眼寺梶浦逸外老師」宛てに紹介状を書いてくれた。禅の心に触れる機会が訪れたのである。
老師は、「球が止まって見えたという体験は、禅の道に近づいている。野球の中で究めたものがあるからだ」と言った。知らず知らずのうちに、禅の真髄を知りかけていたと言うのである。老師から「球禅一致を考えよ」と言われ、修行に励むことになった。
老師は言った。「いかに打撃術にすぐれていても、目下のあなたは氷の塊にすぎない。その塊を溶かして、水にならなければならない。水は飲むことも、沸かすことも、顔を洗うこともできる。まず水になるのだ」。毎日4時間半に及ぶ座禅の末、無心の境地が分かりかけ、やっと水となれたと思った頃、老師は語った。「どうかな、心の迷いは去ったかね?」。川上ははっきりと答えた。「はい、私は現役を引退し、コーチとして水原監督の補佐役に徹します」。「よろしい、戻りなさい!」。約1ヶ月の修行を終え、打者としての何の未練も、寂しさもなく、晴れ晴れとした気分で下山した。
監督としての川上は、日本の野球を変えたと言われている。それまでは、個性の発揮がまずあって、その延長上に勝利があるとされた。しかし、川上はチームプレーの重要性を選手たちに叩き込んだ。個人の成績は二の次で、あくまでチームの勝利が最優先。目立たなくても、チームの勝利に貢献した選手を高く評価した。
彼が常に言い続けたことは「球際に強くなれ」であった。この球はもう捕れないと思って、諦めてはいけないこということである。そして何よりも、全員の心の強固なつながりを重視した。こうした川上野球は、球禅一致を説く禅の教えと深く結びついており、V9達成の根幹にあったものである。2013年10月28日、満93歳の川上は老衰のため死去。死亡が判明した10月30日は日本シリーズ・巨人対楽天の第4戦。監督、コーチ、選手全員が喪章を付け、試合前に黙祷を捧げ、「プロ野球界の生き神様」の死を悼んだ。
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