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向学新聞2013年4月号>

牧野 富太郎 
(まきの とみたろう)

日本植物学の父  
独学で研究 貧困と迫害に耐えて

 牧野富太郎の研究の集大成とも言える『牧野日本植物図鑑』(1940年出版)の改訂版は、今なお広く愛用されている。驚くべきことに彼の学歴は小学校中退。多くの困難を植物学への情熱を持って乗り越え、他の追随を許さない業績を残した。「日本植物学の父」と称えられている。

牧野富太郎


独学で勉強

 牧野富太郎は近代植物分類学の権威で、その研究成果は50万点に及ぶ標本や観察記録として残されている。代表的著作『牧野日本植物図鑑』は、あまりにも有名である。まさに日本が誇る植物学者であり、彼の誕生日は「植物学の日」と制定されたほどであった。
 それほどの学者であるにもかかわらず、彼は小学校すらまともに出ておらず、その在校期間はわずか2年。植物研究にのみ専心する彼にとって、学歴は無用であったと言うべきであろう。苦難の連続の生涯にあって、植物学への一途な情熱が彼を支えた。
 牧野富太郎は幕末の1862年、土佐国高岡郡佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)に生まれた。代々雑貨商と酒造業を営んでおり、「佐川の岸屋」と言えば、近郷に聞こえた豪商であった。しかし、富太郎は3歳にして父佐平を失い、5歳の時に母久寿を病気で失った。両親の顔も愛も知らずに育った富太郎の母代わりとなったのは、祖母の浪子である。富太郎は、この祖母から溺愛された。
 1874年、佐川に小学校ができたため入学したものの、2年で辞めてしまった。それまでいくつかの私塾で学んでいた富太郎にとって、小学校の学習内容はあまりにもレベルが低すぎたのである。学力があるための退学ではあったが、世間はそうは取ってくれない。学力がないからだと決めつけた。彼に残った学歴は小学校中退。向学心に溢れる彼が取った勉強方法は、独学である。


自然が学校

 独学の人、牧野富太郎にとって唯一の学校が、自然そのものであった。自然は彼の好奇心を刺激し、生涯自然から学び続けたのである。後に、大学で講義するようになってからも、教室内での授業よりも、野外での実習に力を注いだのは、当然のことであった。
 そんな彼が、『本草綱目啓蒙』と出会ったのは、17歳頃のことである。江戸時代の本草学者(小野蘭山)が書いた、正統的な植物学の本であった。この本を借りて、筆写を続けながら、ある思いが澎湃と湧き上がってきた。「日本の植物をこのようにまとめることこそ、自分の本来の仕事であり、自分にしかできない仕事である」と。彼はこの時、自分の生涯が植物学のためにあることをはっきりと自覚し、自分は「植物の精(魂、精霊)」であることに気付いたという。
 この種の本を作るには、日本にある全ての植物の完全な標本を作る必要がある。それには、日本中を旅しなければならないし、膨大な量の文献を読まなければならない。しかし、佐川にいては何もできない。彼は東京に出る決心を固めた。それは、岸屋を継いでほしいという祖母の願いを打ち砕くものであったが、彼女は岸屋の将来よりも、富太郎の将来を優先した。この祖母の愛と犠牲なしに、富太郎の人生はあり得なかったことだろう。


追放

 富太郎が東京に向かったのは1884年7月、22歳の時である。彼が尋ねた先は、東京大学の植物学教室の矢田部良吉教授であった。教授は、少々自信過剰気味の田舎出の青年の話を寛大な心で受けとめ、植物学教室の出入りを許可した。そればかりか、教室にある標本や図書、器具なども自由に使用しても良いという。教授は彼の植物学に対する情熱を理解してくれたのである。しかし、両者の蜜月はそう長くは続かなかった。
 植物学教室には、いつも文献を調べている富太郎の姿が見られるようになった。その熱心さには、誰もが舌を巻いた。3年もしないうちに、「植物学雑誌」を創刊。また、『日本植物志図篇』まで出版してしまった。ロシアの植物学者マキシモヴィッチは、この図の正確さを絶賛したという。26歳の快挙である。
 1890年の秋、富太郎は幸福の絶頂を味わっていた。仕事が順調に進んでいたばかりではない。生涯の伴侶となる小沢寿衛子という女性と出会い、結婚したのである。彼女は富太郎と苦楽を共にしながら、いかなる状況でも、彼の才能を信じ続け、支え続けた女性であった。
 結婚の幸福をあざ笑うかのように、突然の不幸が襲った。矢田部教授が、富太郎の植物学教室への出入りを禁ずると宣言したのである。植物学教室でも、『日本植物志図篇』のような本を作ることにしたから、富太郎が大学の本や標本を見ることは困るという。信じられない仕打ちであった。虚脱状態になった彼は、聞き違いではなかったかと思い、教授の自宅を訪ねて確認をしたが、間違いではなかった。
 矢田部教授は、腹に据えかねていたのである。勝手に本を出版してしまう。一見、矢田部を認めないように見える生意気な態度。しかし、富太郎は相手が誰であろうと、常に自分と対等に見ていた人間である。人を見上げることもしなければ、見下げることもしない。しかし、教授として付き合ってもらいたかった矢田部にとって、富太郎の態度は我慢できないものであったのだ。
 矢田部の冷酷な処置により、富太郎の日本での植物研究の道は閉ざされたも同然となった。彼はロシア行きを考えた。そこには彼の著作を高く評価したマキシモヴィッチがいる。彼に連絡を入れ返信を待ったが、届いた手紙は、意外にも令嬢からのもの。マキシモヴィッチが風邪をこじらせて、死亡したという知らせであった。病床にあって、マキシモヴィッチは富太郎の状況に深く同情し、彼が来ることを喜んでいたと書かれてあった。
 富太郎の落胆ぶりは激しかった。矢田部の仕打ちの時のような怒りを伴わないだけに、苦しみは一層大きかったと言える。しかし、この絶望的状況の中で彼の決心が固まったことも事実であった。日本に留まることが運命ならば、一植物学者としてそれに逆らわず従う決心である。まさに運命の神に自身を預けたのである。


貧乏生活

 富太郎は植物学教室から追放されたが、彼には池野成一郎をはじめとする誠実で信頼できる友人たちがいた。彼らは、駒場の農科大学(現東大農学部)で研究を続けることができるように準備した。ようやく立ち直りつつあった矢先のこと。故郷の岸屋の経営が悪化し、岸屋からの送金が不可能となる事態が発生した。かといって、植物学研究を打ち切る考えは毛頭ない。彼を待ち受けていたのは、貧乏生活であった。この貧乏に彼は晩年に至るまで苦しめられたのである。
 貧乏の最大の原因は、本の購入であった。独学の彼にとって、本が彼の先生であったからである。矢田部教授が辞任して、理科大学(現東大理学部)の助手に雇われたものの、月給は15円(現在の30万円前後か)。これで次々に生まれた子供13人(7人が成長)を養うのは、不可能である。
 そもそも彼の頭の中には、節約という意識は皆無であった。当然、生活は借金まみれとなる。ついに、家財道具一切が競売に付されたこともあった。家賃も払えず、引越を余儀なくされても、広く大きな家を探して借りた。植物標本を収容するためであり、大きな家のほうが金貸しの信用を得やすかったからだ。結局、引越は18回に及んだ。
 こうした生活は妻寿衛子の献身なしにはあり得なかった。彼女は夫の研究生活を乱すものを恐れ、俗事を夫の耳に入れないよう細心の注意を払っていた。夫の才能に畏敬の念を抱き、誇りすら持っていた彼女は、子供たちにいつも言い聞かせていた。「わが家の貧乏は世間で言う貧乏とは違います。学問のための貧乏だから恥ずかしいと思わないように」。
 後に富太郎は妻に感謝して、こんな言葉を書き記している。「妻は、私のような働きのない主人に愛想をつかさずよくつとめてくれた。妻は女らしい要求の一切を捨てて、陰に陽に絶えず私の力になって尽くしてくれた」と。56歳で生涯を終えた寿衛子に対し、彼は感謝の気持ちを添えて、永遠のプレゼントを贈った。彼が仙台で発見した新種の笹に「スエコ笹」と命名することで、寿衛子の名を永遠に残そうとしたのである。


「植物の精」

 牧野富太郎が発見した新種は6百種を越え、命名した植物は実に2千5百種に及んだという。さらに50万点を越える標本や観察記録を残し、多数の著書を出版した。こうした彼の歴史的業績は、想像を絶する貧困の中で築き上げられたものだった。妻の献身、研究者仲間の友情、篤志家の援助なしには、決して成し遂げられなかったであろう。しかし、何よりも特筆すべきは、富太郎自身の植物に対する変わらない情熱と誠実な態度である。
 その後、帝大(東大)に席を得た富太郎に対して、一部の権威ある教官は彼を認めようとせず、大学から追放しようと企てた。それは一度や二度ではない。しかし、その企ては常に失敗に終わり、47年間も帝大に勤めることができたのは、彼の植物学への情熱が彼を嫌う勢力のそれよりもはるかに勝っていたからである。
 彼は、自身の植物に関する知識に対し、絶対的な自信を持っていた。植物に関しては世界で一番詳しい人間だと自負していたし、そうなれると思っていた。だからこそ、世の権威が認めなくても、余り気に留めなかったのである。1957年1月18日、満94歳で大往生を遂げた。遺言はなかったという。まさに生涯そのものが遺言と言うべき人生だった。本人が自身を「植物の精」と自認したように、後世の誰もがそれを認めている。


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