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武藤 山治 
(むとう さんじ)

温情主義経営の実践
「武藤王国」の鐘紡  政官産の癒着を断つ

 武藤山治は紡績王と呼ばれた。鐘淵紡績を日本有数の紡績会社に育て上げたからだけではない。温情主義をモットーとして、女工たちを家族の一員として扱おうとしたからである。まさに時代の先駆者であった。正義感と独立自尊の精神に溢れ、武士道的経営を実践しようとした。

武藤 山治

独立自尊の精神

 武藤山治は鐘淵紡績(現在のカネボウ)の経営者である。彼が経営していた時代、鐘紡の株は、「国宝級」と言われた。鐘紡の業績や安定性が、市場から絶大なる信頼を得ていたからである。さらに、紡績工場で働く女工の劣悪な労働環境が当たり前と考えられていた時代に、温情主義経営を唱え、数々の福利厚生策を講じたことで知られている。
 武藤山治が生まれたのは、1867年3月1日、岐阜県の海津郡(現在は海津市)。佐久間国三郎、たねの長男として生まれた山治は、後に武藤家の養子となったために、その姓が変わった。長男ということもあって、母が他の兄弟より小遣い銭を少し余計に渡すと、「自分だけ余計にもらうことはできません。兄弟皆平等にして下さい」と母に頼んだという。不実のできない子供であったのだ。
 13歳になった山治は、慶應義塾幼稚舎に入学するため上京した。福沢諭吉の『西洋事情』を読んで、すっかり福沢びいきになっていた父が、息子の教育に慶應義塾(福沢が創設)を選んだのである。ここで4年間学ぶ中で、武藤山治が福沢諭吉から受けた感化は計り知れないものがあった。武藤が生涯の誇りにしていたことがあったという。それは、鐘紡の経営に際し一度も政府の援助に頼らなかったことである。独立自尊をモットーとした福沢諭吉の継承者たらんとしたのである。


米国留学後、三井銀行へ

 同級生二人と共に米国留学に旅立ったのは、1885年1月27日。日本は出口の見えない不況のまっただ中、必要最小限のお金をかき集めての渡航であった。サンフランシスコに到着した段階で、持参したお金はほとんど消えていた。すぐに働かなければならない。最初の仕事が葉巻煙草製造所の見習いであった。慶応卒と言えば、エリート中のエリート。武藤は「何だか、高いところから突き落とされた感じがした」と手記に書いた。
 これでは何のためにアメリカに来たのかわからない。武藤は製造所を辞め、職を転々とする内に、パシフィック・ユニバーシティという私立大学の給仕に採用される幸運を得た。寄宿舎に入り、学生の食事の給仕をしながら、授業を受けることができるようになったのである。食事の世話をし、食堂の掃除を終えるのは、夜9時過ぎ。それからが自分の勉強時間である。武藤は優秀な成績を修めた。日本人を野蛮人同様に見ていた教授や学生にとって、武藤の存在は驚きとなった。
 3年間の留学を終え、帰国した武藤は、広告代理店を興したり、新聞記者になったり、通訳を務めたりした。なかなか職が定まらない。ようやく腰を落ち着けるたのは、三井銀行であった。1893年のことで、帰国後5年が経っていた。
 当時の三井銀行は、福沢諭吉の甥の中上川彦次郎が最高実力者として采配を振るっていた時期であった。この人物が、経営者としての武藤山治に最も強い影響を与えることになるのである。中上川は、政・官との癒着にメスを入れ、政商路線からの決別を断固として実行したことで、三井銀行に躍動の一時代をもたらした。
 中上川が武藤らに求めたのは、近代的な実業人としての態度であった。権力におもねることなく、武士にも劣らぬ高い誇りを持って、独立自尊の精神で経営を実践せよと教えた。まさに武士道的実業である。中上川を厳父として慕った武藤は、彼の薫陶を骨の髄まで染みこませたのである。


鐘紡へ

 三井銀行から、兵庫工場支配人として鐘紡に移ったのは27歳の時である。社長は中上川が兼務しており、まさに中上川による大抜擢であった。その期待に応えようと、彼は無我夢中で働いた。支配人と言っても、紡績業ではずぶの素人。職工たちに混じって、ズボンを油まみれにして機械の前に立ち、1年365日出勤して働いた。「日曜日に休むことは苦痛だった」と彼は述懐している。
 支配人として、武藤は温情主義経営を貫いた。同業他社は女工たちを牛馬ぐらいにしか見なしていなかった。紡績工場、寄宿舎は「奴隷の島」とか「収容所」と呼ばれていた時代である。しかし武藤は違った。女工たちを家族同様に扱おうとした。「従業員を他人の子供を預かっていると思って、家族同様にどこまでも親身の世話をしなければならない」とは、彼の持論である。女工たちが少しでもよく眠れるように、蒲団の長さや枕の高さまで自分で確認したし、食事にしても漬け物の質まで試食して確かめたという。
 乳幼児を持つ女工のための保育所を設置、病災救済を目的として共済組合の設置など、武藤が実行した温情主義経営は枚挙にいとまがない。武藤は、工場を「奴隷の島」と見なさずに、女工たちの「楽園」に限りなく近づけようと努力したのである。
 こうした温情主義経営は、同業他社にとっては迷惑千万なことだった。紡績業の発展は女工を安い賃金で働かせることで成り立っていることは明らかで、鐘紡はそれに逆行しているというのである。彼らはあらゆる手を使って妨害を企てた。時にはならず者を雇って兵庫工場を襲撃したり、武藤の命を狙うこともあったという。


「専制王国」

 武藤に転機が訪れた。敬愛する厳父、中上川の死である。彼の死後、三井グループを牽引した益田孝は、中上川路線の清算を打ち出し、鐘紡の株を売却してしまった。つまり、三井グループからの離脱である。最終的に大株主になったのは、29歳の青年相場師鈴木久五郎であった。鈴木は、さっそく倍額増資を主張したが、鐘紡の総支配人であった武藤はそれに反対。株主総会でも意見が合わず、武藤は辞表を提出してしまった。
 これに立ち上がったのは、職工たちだった。彼らは武藤の復職を求めて、ストライキに入ったのである。スローガンは、「前支配人武藤山治氏の復職要求」。職工たちは知っていた。武藤が油まみれになりながら、彼らと一緒に工場で働いていたこと、それに温情主義経営のもとで福利厚生も整いつつあることも。「武藤さんを見殺しにするな!」。これがストライキの合い言葉になっていたという。職工たちのストライキにより、武藤は監査役として復職した。その後、彼は社内の事実上の最高実力者にのし上がっていくのである。
 武藤は鐘紡在籍中、後に社長に就任してからも、その工場を離れようとはしなかった。それどころか、定款に工場構内以外に事務所を持つことを禁ずると明記したほどであった。生産第一主義を信条としていたからであり、始終顔を見合わせる関係から、真の信頼関係が生まれると考えていたからである。そんな武藤に率いられて、鐘紡の経営内容、安定度は業界では他を圧倒し、市場からの信頼も絶大だった。
 社員たちは、まるで教祖を見るように武藤に心酔した。重役の一人、津田信吾(後の社長)は、趣味や洋服はもちろん、家の造りまで武藤を真似たという。津田は、武藤の死の瞬間に「武藤さん、あなたでも死ぬんですか!」と絶叫したと伝えられている。不死身の教祖のように思っていたのである。
 後に、武藤が政治活動に専念するため、会社を辞職しようとした時、株主、社員らは猛烈な留任運動を展開し、臨時の株主総会を開催して、彼を引き留めようとした。その開催をやんわりと拒否した武藤に対して、裁判を起こそうとするほど、彼らは必死だった。これには裁判所も驚いた。「社長を辞めさせるための裁判は前例があるが、留任のために裁判をかけるのは初耳だ」。会社における武藤の位置は、これほどまでに絶対的なものとなっていたのである。鐘紡は「武藤の専制王国」と呼ばれたゆえんである。


「悪魔と戦う」

 武藤が好んで色紙に書いた言葉がある。「我はこの世に悪魔と戦うために来たれり」。宗教改革者マルチン・ルターの言葉である。武藤はクリスチャンではなかったが、キリスト教を守るために、法王庁と戦ったルターに自分を重ね合わせていたのだろう。
 武藤は、「どう考えても資本主義以上の制度はない」と思っていた。この資本主義を守るためには、この制度に巣くう悪を討たなければならない。それには、政、官、産癒着の実態を白日の下に暴き出し、彼らに反省を促すことが先決である。健全な資本主義社会を取り戻すためである。彼はルターのごとき使命感に燃えていた。
 1923年に実業同志会を結成し、その翌年に衆議院選挙に打って出たのも、溢れる正義心の表れに他ならなかった。しかし、1931年に引退するまでの政界8年間を、彼は「壮大な道草だった」と述べている。政治家に倫理観の確立を求めて戦ったものの、魑魅魍魎が跋扈する政界では、ドン・キホーテを演じただけのように思えたのであろう。
 政界引退後、彼の正義心は福沢諭吉が興した新聞「時事新報」の社長となることで、さらに火が付いた。帝人株のインサイダー取引を暴露する記事を連載し、一大疑獄事件に発展したのである。その直後の1934年3月9日、武藤はテロの銃弾に倒れてしまった。
 犯人は福島新吉。福島は、武藤に火葬場設置問題に関して情報提供したが、思うような報酬をもらえなかった。その怨恨による犯行と処理された。しかし、帝人事件において、時事新報で暴露された権力者と犯人の福島が接触があったことから、武藤銃撃の背後に別の黒幕がいると噂された。福島の自殺(他殺説も)により、真相は闇の中である。心酔者には宗教教祖のように慕われた武藤ではあったが、敵対者には命までも狙われたのである。しかし彼の偏狭さと独断を批判する者であっても、彼の高邁な人格と清廉潔白さを疑う者はいなかった。
 クリスチャンとなっていた末娘の勝子は、いまわの息の父を前にして、キリスト教の洗礼を受けさせたいと思った。武藤はクリスチャンではなかったが、娘の目から見て、父ほどキリスト教の精神を持って生きた人はいないと考えていたのである。
 勝子は指を水で浸し、父の額に水滴を注ぎ、洗礼の言葉を口ずさみながら十字を切った。その少し後、武藤は静かに息を引き取った。孫の一人が語っている。「大木が燃えさかりながら倒れていく。祖父の体から発散する活力が病室にみなぎっていた。最期まで涙を流す雰囲気ではなかった」と。まさに「巨星墜つ」の瞬間だった。享年67歳。



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