中村 元
(なかむら はじめ)
「人間ブッダ」の実像に迫る
普遍的思想の探求 東方研究会と東方学院を設立
仏教学者中村元の夢は世界平和であった。そのために、東西の思想を融合した普遍的思想を探求した。また、中村の業績の一つは、仏教の教えを平易で分かりやすい言葉で表現したことである。彼は「分からないことが学問的なのではなく、誰にでも分かりやすいことが学問的なのです」と語る。
慈悲の思想に惹かれる
中村元は仏教学者である。難しい仏典を平易な言葉で現代語に訳し、人間ブッダの実像を浮き彫りにした功績は、他の追随を許さない。確かに、彼は卓越した仏教学者であることに間違いないが、それに収まりきらないところがあった。仏教学・インド哲学の研究に基づきながら、東西の思想を俯瞰し、その融合を夢みていた。世界平和の実現には、普遍的思想の探求が不可欠だと信じていたのである。同時にそれは偏狭なアカデミズムとの戦いでもあった。
中村が誕生したのは、1912年11月28日、島根県松江市である。父喜代治は、県立農林学校の教師で、母トモも、母校である松江市立高等女学校で教えていた。誕生の翌年、父の仕事の関係で東京の本郷に移り住んだ。
中村に転機が訪れたのは、東京高等師範学校附属中学(現在の筑波大学附属中学)に入学直後のこと。腎臓を患い、一日も登校できず、丸1年間自宅療養を余儀なくされた。絶望的な日々を過ごす中、救いを求めるかのように、哲学書、宗教書を読み耽ったという。ショーペンハウアー、エマーソン、親鸞、道元など、およそ12、3歳の少年が読むものではなかった。「危険な変人」と見られていたと中村自身、語っている。
第一高等学校に進んだ中村は、東西の哲学思想を学びながら、仏教思想に心が惹かれるようになっていく。「西洋哲学は、鋭い論理が展開されているが、何か冷たいものが感じられ、心の安らぎを与えてくれない」と語っている。その点、仏教の慈悲の思想は、心の奥深くで温かさを与えてくれる。慈悲の思想に中村は深い共感を覚えたのである。
30歳で学位取得
1933年、中村は東京帝国大学の印度哲学梵文学科に進んだ。指導教官は、仏教学、インド哲学の大家、宇井伯寿教授であった。「語学をしっかりやりなさい」という宇井の指導通り、中村はサンスクリット語、パーリ語、チベット語をマスターし、英語、ドイツ語、ギリシャ語、フランス語にも精通するようになる。後にインド人の学者たちをも驚かせた彼の学問的業績は、こうした語学の天才にしてはじめて可能なことであったのだ。
大学院に進んだ中村は、やはり宇井教授の「仏教の源流であるインドの思想を学んでおいたほうがいい」という指導を受け、ヴェーダーンタ哲学の研究に取り組んだ。宇宙の究極(ブラフマン=梵)と究極の自己(アートマン=我)は、同一(梵我一如)であり、それを悟ることによって永遠の至福に至ると説く。これはインド人の生活の隅々にまで深く根付いており、インド人を理解するには不可欠の思想であった。
彼の書き上げた博士論文は、「初期ヴェーダーンタ哲学史」で、原稿用紙にして約6千枚ほどに及んだ。この分量の原稿を大学に運ぶのは大変。弟の手を借り、リヤカーで運んだという。その原稿を前にして、宇井教授は思わず悲鳴を上げた。「読むのが大変だ!」と。この論文によって、中村は満30歳の若さで文学博士号を取得した。文学博士号の学位は、70、80歳になった頃にもらうのが普通だった時代である。同時に助教授に就任。前例のない若さであった。
その後、1948年、49年に『東洋人の思惟方法』(上下2巻)を出版した。インド、中国、日本における思想の特徴を比較したものだったが、学界からの評価は手厳しいものだった。「専門外のことに触れているのがよくない」という。セクショナリズムからの批判であった。それに反して海外からの評価は絶大で、アメリカのスタンフォード大学から客員教授に招かれた。「世界の中村」としてはばたく一書になったのである。
原稿喪失
中村の研究は原始仏教に向けられた。教派的に色づけされた釈尊像ではなく、歴史上の人物としての「人間ブッダ」の実像に迫ろうとした。その研究成果の一つが、仏教の本義が「自己の探求」であったことを明らかにしたことである。「喪失した自己の回復、自己が自己となること、これがすなわち初期仏教の実践の理想であった」と述べている。
中村が常に心がけていたことがある。原始仏典の翻訳に際し、平易で明確であることである。彼は常用漢字以外は使わず、大和言葉で訳すことに努めた。「インドにおいて釈尊の教えは、誰にでも理解できるものであった」からである。そうした信念で取り組んだのが、『佛教語大辞典』であった。これが完成したのが1967年、19年の歳月を費やした。2百字詰め原稿用紙約4万枚に約3万語が収録された大作であった。リンゴ箱に入れて出版社に持ち込んだのであるが、あろうことか、出版社がその原稿を紛失してしまったのである。社の移転騒動の中で、ゴミと間違えて出されたしまったようなのだ。
1ヶ月ほど、呆然として何も手につかなかった。中村は当時を振り返り、「まるで土足で顔を踏みつけられたような感じがした」と語っている。そんな夫の姿を見て、妻の洛子夫人が言った。「あなた、ボーッとしていてもしょうがないでしょう。やり直したらどうですか」。また、友人の篤志家が、やり直すための費用として多額の私財の提供を申し出てくれた。こうした声に励まされて、中村は不死鳥のごとく甦った。1968年1月、やり直しの作業を開始するのである。そして8年後の1975年2月、ついに『佛教語大辞典』が刊行された。着手してから27年の歳月を費やした労作となった。
語彙は4万5千に増え、分量も倍以上になり、難解な仏教用語が分かりやすく表現された。これが大評判となり、毎日出版文化賞を受賞した中村は、次のように言った。「やり直したおかげで、前のものよりもずっとよいものができました。逆縁が転じて順縁となりました」。しかし、これで終わりではなかった。84歳の時、中村は「あれはまだ不本意です」と言って、改訂作業を開始した。彼には「終わり」はなかったのである。一つの完成は、次の「始まり」に過ぎなかった。中村はこの改訂版を見ることはできなかったが、彼の死後、弟子たちが師の遺志を受け継ぎ、2001年に『広説佛教語大辞典』として完成したのである。
東方学院
1973年、30年勤務した東大を退官した。いろいろな大学から学長として招聘されていたが、全て断り、自身のポケットマネーで開設した公開講座「東方学院」の院長に就任した。これは、中村が主宰する財団法人・東方研究会の活動の一環として始まったものだった。そもそも、東方研究会設立のきっかけは、彼の「慈悲の心」が原点となっている。
大学院生だった頃、有能だった先輩が無職であるがゆえ、自殺してしまった。中村は、「もう少し、先生たちが面倒を見てくれていたら……」と深く悲しんだ。その時、「研究者が物心両面に渡って助け合えるような集まり」を作ろうと考えたという。大学院を卒業しても就職できない人を、研究員として受け入れ、就職が決まるまで面倒を見ようというのである。その思いで、1968年に設立されたのが東方研究会だった。政府の援助を一切受けず、学問の自由を掲げる、自立した研究機関であり、その理念に賛同した個人からの援助によって成り立っていた。中村が院長に就任した東方学院は、本当に学びたい者が学び、教えたい者が教えることを重視していた。これを彼は「寺子屋」と呼んだ。
中村は東方学院での講義を何よりも楽しみにしていた。自分の都合で休講したことは一度もなかったという。万難を排して講義に駆けつけたのである。1996年の12月、定刻になっても中村は姿を現さない。これまで無かったことである。一同騒然となった。その時である。車イスに乗って、中村が現れたのである。それも夫人同伴で。体調が悪いのに、「みんなが待っている」と言って、周囲が引き留めるのを押して、駆けつけたという。東方学院にかける中村の厚い思いを、そこにいた誰もが感じ、目頭を熱くした。
最期の講義
1999年7月、「世界思想史」4巻を持って、「中村元選集」全40巻が完結した。中村自身の研究と人生の集大成となった作品であった。入退院を繰り返していた中村が、昏睡状態に陥ったのは、その年の10月のことだった。そんなある日の夜11時を回った頃、突然中村の口から、「ただ今から講義を始めます。体の具合が悪いので、このままで失礼します」としゃべり始めた。そばにいた訪問看護師の女性は、驚いて中村の顔を見たが、昏睡状態のままだった。淡々とした口調で講義を続け、最後に「時間がまいりましたので、これで終わります」と締めくくったという。なんとその講義は45分に及んだのである。その場にいたのは、看護師一人だけ。話の内容は、聞いたこともない言葉が出てきて、何のことかさっぱりわからなかったという。文字通り、中村の「最終講義」であった。
中村は死を前にして、何を語りたかったのか。中村の弟子の一人を自認する植木雅俊は、「普遍思想史」についてではなかったかと推測している。中村が比較思想学会(1974年)を立ち上げたのも、人生の最後に「世界思想史」をまとめ上げたのも、人類一般の平和と幸福を実現したいという彼の究極的な目的のためであった。そのためには、世界諸民族間の相互理解の促進が不可欠であり、「普遍思想史」の研究がそれに貢献しうるものと確信していたのである。1999年10月10日、中村元は家族に見守れらながら息を引き取った。人類に、世界平和の宿題を残したまま。享年86歳。
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