野中到・千代子
(のなか いたる・ちよこ)
夫婦で打ち立てた不滅の金字塔
富士山頂で越冬観測 前人未到の決死行
富士山頂での越冬。当時、不可能と考えられていたことを信念を持って実行した夫婦がいた。高層での気象観測所ができれば、天気予報は必ず当たるようになる。この信念を持った野中到とそれを支えた妻の千代子。野中夫妻は、お国のため、未来の気象学のため、決死の覚悟で富士山頂での越冬に臨んだ。
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信念の人
野中到は気象学者である。「3776メートルの富士山頂に気象観測所ができれば、予報は必ず当たるようになる」。この信念で自ら民間の立場で厳冬期の富士山頂に気象観測所を作り、越冬観測を試みた最初の日本人であった。野中千代子は到の妻で、夫を助けるため、周囲の反対を押して、富士山頂に登った。彼女もまた信念の人であった。
到が生まれたのは福岡県早良郡鳥飼村(現在は福岡市に編入)、1867年であった。家は代々、福岡藩の藩士。父勝良は大阪に出て裁判所に勤め、後に東京控訴院(東京高等裁判所)の判事になった。その時、到は祖父の許に残されたため、少年期の彼を育てたのは主に祖父であった。祖父は厳格な武士であり、到はこの祖父に対して、両親以上の追慕の念を抱いており、彼の「我慢強さ」は、この祖父の訓育のおかげだと述懐している。
一方、千代子は福岡県那珂郡警固村(現在の福岡市)の出身で、1871年に梅津家に生まれた。千代子の母糸子は到の父勝良の姉で野中家から梅津家に嫁いだ女性だった。つまり、千代子は到の従妹であり、小さい頃から兄妹のように育ったのである。
東京控訴院で判事をしていた勝良は、到を医者にしたいという希望を持っていた。それで到を九州から呼び寄せた。成績優秀だった到は順調に大学予備門(後の一高、現在の東大教養学部)に合格。しかし、到は父の期待を見事に裏切ってしまった。大学予備門を中退してしまったのである。在学中、気象学に興味を持ち始めた到は、中央気象台の和田雄治技師と知り合いになった。その和田に到は、日本の観測事業のレベルを質問したところ、和田は「英独仏を大学とすれば、日本は幼稚園か小学校程度のものだろうね」と答えた。
和田とのやりとりの中で、到は富士山頂に観測所を設立するという、以前から漠然と考えていた案を投げかけてみた。和田は、その実現は日本の気象事業を飛躍的に発展させると言いながらも、否定的だった。風雪に耐える建物、材料の運搬、国の予算不足、さらに厳寒の中の越冬などの困難を考えれば、軍人の決死隊と同じだと言った。
普通の人間ならば、専門家が語る、これだけのマイナス要因で引き下がるはずである。しかし到は違った。「決死隊」と聞いて、逆に奮い立った。「決死隊ですか。わかりました。民間の有志がまず先鞭を付けるほかないですね」。驚く和田に、「困難だからやりたいのです。命がけは覚悟の上です」と言った。以来、到の生活は富士山頂に民間の気象観測所を作るという一点に焦点が合わせられた。大学予備門を辞めたのも、そのためだった。
千代子の決意
到の計画に両親は当然、反対した。しかし、和田技師の「富士山より高い山での冬期気象観測は世界でも前例がなく、成功すれば、まさに世界記録の快挙であり、国威発揚になる」と言う言葉を聞き、父の気持ちは変わった。福岡に残していた家を売って、観測所建設の資金を捻出した。息子の仕事がお国のためになると思ったのである。
到は御殿場の滝河原で、登山者向けの旅館を営む佐藤與平治の家を根拠地にして、観測所建設の準備を開始した。1895年のことである。與平治は到の計画に共感し、協力を惜しまなかった。千代子は、冬ごもり用の食糧と燃料の調達をしながら夫を支えた。彼女には秘かに期するものがあった。富士山頂に登って、夫の気象観測を手伝うこと。秘めた思いであったが、千代子は與平治にだけは彼女の志を語り、協力をお願いした。
1895年8月27日、ついに観測所が完成。それを機に、千代子は東京に戻ると到に告げた。嘘だった。彼女が向かったのは福岡の実家。幼い娘園子を実家の両親に預けるためであり、彼女自身が富士山頂に登る準備をするためだった。千代子の志を聞いた実家の両親は意外にも賛同した。母は「まことに婦道の鑑」と褒めてくれたし、父も「園子のことは心配するな」と言ってくれた。登山用の服や靴の準備をしながら、千代子は足を鍛えた。脚絆(スネに巻く布)の中に鉛の球を縫い込んで、足に過重をかけながら、近くの脊振山に何度も登った。それ以外にも毎日8キロは歩いたのである。
10月6日、千代子は園子と涙の別れをして、福岡の実家を後にした。到の富士山頂での観測は、10月1日からすでに始まっていた。千代子の登頂の日は、10月12日。同行者は與三郎の親戚に当たる二人の強力、それと到の弟の清。千代子の決意を知った野中の姑が、弟を送ってくれたのであった。そんな心遣いが嬉しく、千代子は泣いた。
二人三脚
富士山頂への道は険しいものだったが、同行の重三郎が驚くほど千代子の足は達者だった。到には千代子の登頂を知らせていない。どんな顔で迎えてくれるだろうか。千代子は心配だった。戸を何度か叩いた後、戸口からひげ面の男が顔を出した。到である。そこにいる千代子を見つけて一瞬どきっとした様子。4人の突然の訪問者に熱い茶を出しながら、到は千代子に言った。「今夜はゆっくり休んで、明日早々に降りるんだな」。
到は千代子をここに止めるつもりはなかった。しかし、到の姿を見て千代子の決意は強まった。到の顔は不健康にむくんでいる。寝不足のせいだ。1日12回、つまり2時間に1度の観測。ほとんど寝ていないと同じである。「一冬、ここで過ごすには協力者が必要です」と言い、弟の清も千代子に加担したこともあり、到は千代子の滞在を認めた。内心では千代子が来てくれたことを喜んでいたのである。
千代子と同行した3人が下山して、いよいよ二人だけの山小屋生活が始まり、観測は交代で行った。しかし、冬場の富士山頂の厳しさは想像を絶するものだった。千代子の全身は浮腫でむくみだし、歩くのも困難となった。寒さを考慮して設計した観測所ではあったが、富士山頂の寒気に対しては全く無防備であった。毛布を数枚重ねて敷き、7、8枚も上に掛けて寝ても、寒くて眠れない。とうとう動けなくなった千代子は、ベットに横たわりながら、夢うつつの中、死を考えることもあったという。しかし、実家に残してきた園子のことを思うと死ねないと気を取り戻すのであった。
千代子がようやく快方に向かったと思ったら、今度は到が弱ってしまった。千代子の看病と観測で疲弊し、気力だけで持ちこたえていたが、ついに浮腫と発熱に襲われた。体全体が一気に機能を失ったような状態。とても観測できる体ではなかった。
救出
すでに這うことすらできなくなっていた到は言った。「俺が死んだら、水桶に入れて、春までそれを置いてくれ。観測はお前一人でやれ。一日12回の観測を6回に、いや3回でもいい」。到が一番恐れていたのは、観測の中断だった。未知の記録への挑戦、その中断は万死に値する。
夫婦の間でそんな会話が行われていた直後の12月12日、観測所の戸を叩く音を聞いた。強力の熊吉と村会議員勝又恵造の2人が慰問に来たのである。彼らは夫妻を見て驚いた。重い病気にかかっていることは明らかだった。恵造は「すぐに山を下り、大勢でお迎えにまいります」と言った。それに対し、強い口調で「死を覚悟してこの山に来たのだ。少しぐらい健康を害したからといって下山するわけにはいかない」と到は言った。そして、「里に帰ったら、野中夫妻は元気だと言って下さい。命に掛けてのお願いです」と言って、深々と頭を下げた。その目には涙を浮かべていた。
熊吉と恵造は夫婦に約束したものの、人命に関することである。黙過することはできないと判断し、誓いを破った。和田技師、強力、警察官等による救援隊が組織され、一行が山頂の観測所に着いたのが12月22日。すでに新聞紙上にも野中夫妻重態と報じられたため、全国的に「野中夫妻を見殺しにするな」の声が湧き上がっていた。
すでに這うことすらできなくなっていた到を見て、和田は言った。「長い間ご苦労様だった。君の功績は多大である。心からお礼を言う」。そして下山を促した。それを拒もうとする到に対し和田は言った、「すでに大臣から下山の命令が出ている。官命なのだ」。なおも拒もうとする到を和田は無視し、熊吉と鶴吉に下山の準備を命じた。観念した到は、体に3枚の毛布を巻き付けられ、熊吉に背負われた。そして鶴吉は千代子を背負った。
こうして、80日間を越える富士山頂での冬期観測は終わった。しかし、衰弱しきっていた到には、下山も命がけだった。8合目の小屋にたどり着いた時、到は意識を失っていた。体を温め、マッサージを続け、千代子は到を呼び続けた。意識を取り戻したのは、3時間後のことである。麓の村に着いた時、夫妻の健闘を称え、見舞いに駆け付けた人々は野中夫妻を運ぶ担架を担がせろと迫り、整理に困るほどの騒ぎとなった。
憔悴しきった二人に悲しい知らせが告げられた。娘園子の死であった。11月のはじめ頃、急性肺炎に罹ってあっという間に亡くなったという。千代子はその場に崩れ落ち、泣き伏してしまった。思えば11月はじめは全身の浮腫に苦しみ、寝込んでいた時期である。きっと、園子は自分の身代わりになってくれたのだ。そう思えば、また涙が込み上げてきた。
後に、富士山頂での冬期気象観測の功績に対する褒賞の話が舞い込んできたことがあった。到は「もし下さるならば、千代子と共にいただきたい」と言った。結局、この栄誉は受けずに終わったが、彼らの業績は夫婦二人で打ち立てた不滅の金字塔として、人々の記憶に刻まれている。その後、千代子は3男2女を生み、1933年2月に悪性のインフルエンザに罹り52歳で死亡。到は89歳まで長寿を保ち、1955年2月に永眠した。
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