小倉 昌男
(おぐら まさお)
夫婦愛と福祉事業
壊れていく家庭 宅急便の父
宅急便の生みの親・小倉昌男は、晩年ヤマト福祉財団を設立して、福祉事業に情熱を注いだ。それはキリスト教徒であった彼の信仰の実践の一つであった。しかし、それだけではない。娘の心の病により、壊れていく家庭。その中でもがき続けた彼が辿り着いた、夫婦愛の一つの形でもあった。
障害者福祉に貢献
東日本大震災(2011年)の翌年、ヤマト福祉財団は世間を驚かせた。2011年7月から1年間、ヤマト運輸が扱った宅急便1個につき10円を被災地に寄付すると発表したのである。総額約143億円の寄付になった。
決断したのはヤマトホールディングス社長の木川眞だった。その決断に当たって、木川は、7年前に亡くなっていた宅急便の創業者小倉昌男のことを考えた。この大震災に際し、「小倉さんだったら、どうするだろうか」。きっとこの決断を認めてくれるだろうと思ったと語っている。小倉昌男はクロネコヤマトで知られる宅急便システムを創設した人物で、「宅急便の父」と呼ばれている。郵便以外の物流インフラを日本で初めて作り上げたからだ。この小倉が後年、社会福祉のためヤマト福祉財団を設立していたのである。
小倉は1924年12月13日、東京の代々木で生まれた。父は大和運輸の創業者小倉康臣、手車による移動販売から商売を始め、自動車による運送会社を設立した典型的な叩き上げの人物であった。気性の激しい父とは対照的に、母はなは地味で控えめで、どんなことでも我慢する女性だった。その母は昌男が幼い時に亡くなり、再婚した母もすぐに亡くなってしまった。昌男は寂しい少年時代を過ごしたのである。
転機が訪れた。東大経済学部を卒業して数年後、1948年に父の要請で大和運輸で働き始めた直後のことである。突然、高熱に襲われた。当時死の病と恐れられた肺結核と診断され、療養生活は2年半に及んだ。その間、小倉は聖書を読みあさった。救世軍(プロテスタント系の一教派)の牧師が、たびたび病室に訪れ、キリスト教の教えで彼を慰めたのである。手術で片肺を摘出し、何とか一命をとりとめた小倉は、救世軍に入信。次のように述べている。「結核をしたからこそ、人生を考え、人生を考えたからこそ、神に出会ったのです」と。この体験が、後の小倉の人生に大きな影響を与えることになる。
宅急便ビジネス
小倉昌男が宅急便という新ビジネスを模索し始めたのには、理由があった。1960年代半ば、長距離輸送に出遅れていた大和運輸は、年々利益率が下がり、「危ない会社」と言われていた。経営陣に入っていた小倉は、新しい方向性を模索せざるを得なかった。
徹底的な研究の末、出した結論が宅急便ビジネスだった。一般家庭の荷物を集めて配送するという。当時、一般家庭での荷物配送は、郵便局に持ち込む以外にはなかった。その郵便局の事業分野に参入するという途方もない計画で、家庭から家庭をつなぐという世界に類のないシステムだった。役員のほとんどは反対。小倉は四面楚歌の状態だったという。
小倉にとって、この新ビジネスは単なる思いつきではなく、社会の確かなニーズに裏付けられていた。周囲を粘り強く説得し、本格的に取りかかったのは1975年の夏から。地域の酒屋に取次を委託し、料金は細かい距離ごとにせず、地域ブロックごとにした。彼が最も重視したのは、「利用者の立場でものを考える」ということと、「サービスが先、収益は後」の二つ。これは経営者としての小倉が生涯こだわり続けたスローガンであった。
1976年1月にスタートした宅急便の初年度の取扱量は170万個を越えた。毎年倍々以上の伸びで増え続け、80年には経常利益が前年比の3倍以上に達したのである。小倉を知る誰もが口を揃えて言うことは、「彼は徹底した論理と正義感の持ち主だ」ということである。普段は寡黙でありながら、理不尽なものに対する怒りは尋常ではなかった。時には怒りの矛先を運輸省にすら向けたため、運輸省から蛇蝎のごとく嫌われた。大量のデータに基づき、理路整然と語る小倉は、煙たい存在だったのだ。こんな小倉を尊敬を込めて、「学者」と呼んだり、「親分」と呼んで慕う者たちも少なくなかった。
妻の死と福祉事業
しかし、小倉の事業面での華々しい成功は、家庭の犠牲の上に成り立っていたことも事実であった。この時期、小倉は仕事を優先させ、家庭を顧みることはなかった。長女が荒れに荒れた。元来が父親っ子だった娘だが、その父親が多忙で不在も多い。母親は弟を依怙贔屓しているように感じ、不満と怒りの矛先は母親に向けられた。11歳頃からキレ始め、中学3年で登校拒否。母への悪態は成人になっても続いた。
こうした日々の中、とうとう妻玲子の心身が蝕まれていった。娘との日常的な諍いと義父母からの「母親が悪い」という非難の板挟みに会い、玲子は苦しんだ。狭心症を患い、ニトログリセリンを手放せなくなり、その上、アルコールに逃げるようになった。
娘だけではなく、妻までも荒れていく。小倉にとって自宅は安らぎの場ではなく、苦悩の場になっていた。家庭での小倉は実に無力だった。娘が荒れても、妻が酔いつぶれても、曖昧な態度を繰り返すばかり。息子は、「父のそういう態度が母にとっても、姉にとってもストレスだった」と述べている。
小倉夫妻をさらに追いつめたのは、娘の交際相手がアメリカ海軍に所属する黒人男性だと知った時だった。夫妻は敬虔なクリスチャンである。人種差別はいけないと頭ではわかっていたが、感情面では受け入れがたかった。世間、とりわけ親戚筋の批判の矛先は玲子に向けられた。母親がだらしないから、娘はこうなったと。小倉が妻と同じカトリックに改宗するのはこの頃のことである。毎朝7時に妻と一緒に教会に行き、祈りを捧げた。宅急便が全国に展開されている最も忙しい時期にもかかわらず、2年間欠かさなかったという。玲子は教会に救いを求めていた。そんな妻を小倉は助けたかったのだろう。
1990年1月、娘・真理は黒人男性と結婚した。9月には長女を出産。可愛い孫が、崩れゆく玲子の心をしばし和らげたものの、回復は望めなかった。玲子が急逝したのは、半年後のことであった。自ら命を絶ったと言われている。死去の知らせを受け、急いで自宅に戻った小倉は、横たわる妻の遺体に寄り添い、人目も憚ることなく泣き続けたという。
葬儀の場で、小倉は参列者を前に溢れ出る感情を懸命に抑えながら挨拶をした。亡き妻の思い出を語った後、娘の交際に話しが及んだ。「自分たちは大きな間違いを犯しました。差別をしないと言いながら、心ならずも黒人を蔑視していました」。真理と真理の夫の目の前で語ったこの言葉は、小倉にとって辛い告白であり、まさに懺悔と言ってよかった。
伴侶を失った小倉は喪失感にとらわれ、すっかり精気を失い、抜け殻のようになってしまった。そんな彼が一歩踏み出したのが、北海道の十勝カルメル修道院と妻の故郷・静岡県蒲原町への寄付であった。生前妻は「60歳を過ぎたらボランティア活動をしたい」と語っていた。59歳で亡くなった妻の遺志を生かそうとしたのであろう。カルメル修道院の一人の修道女が妻の同級生であった。その縁で建設費用の一部、3百万を寄付。蒲原町へは1億の寄付を申し入れた。蒲原町ではその金を財源に福祉基金を設立したという。
妻を失った2年後に、小倉は私財の3分の2を投じてヤマト福祉財団を設立した。常日頃、「宅急便の仕事はお客さんあってのこと。社会に恩返しをしたい」と言っていたことの実践だったという面もあるだろう。しかし、それだけではない。妻や娘に対して、何もしてあげられなかったことをこの財団を通して行いたいと考えたに違いない。それは、妻の遺志に寄り添って生きるという、小倉なりの生き方の一つの選択だった。妻を失った悲しみ、家庭では何もできなかった後悔。彼は苦悩に打ちひしがれていた。福祉事業は、そんな小倉に一縷の希望を与え、生きる力になったことは間違いない。
運輸業の一線を退いた小倉が特に力を注いだのが、障害者の雇用問題だった。1996年から、「パワーアップセミナー」と題した無料の経営セミナーを立ち上げ、全国行脚を開始した。小倉の主張は、福祉にビジネスの発想を持ち込むことだった。掲げた目標は、障害者の月給を1万から10万、つまり10倍にすることだった。小倉はそれを自ら実践したのである。自らパン作りの工程を体験し、98年にスワンベーカリーを立ち上げてしまった。従業員は障害者を雇用。現在では、全国に29店舗にまで拡大し、障害者に10万円の月給を支払えているという。その頃の小倉は生き生きしていたと周囲は語っている。 しかし、家庭的には寂しい日々であった。娘の家族は、子どもの教育のことからアメリカに渡り、広い邸宅に一人ぽつんといることが多くなった。幼い頃に母を亡くした小倉は人一倍、寂しがり屋であった。「寂しすぎて暮らせないよ」と周囲に話していたという。
小倉に膵臓ガンが見つかったのは、2004年6月のこと。すでに肺への転移が見つかっていた。数ヶ月の入院後、介護つきの有料老人ホームに移った直後のことである。死期を察した小倉は、真理の家族のいるロサンジェルスに行くと言い出して、周囲を驚かせた。酸素吸入器が必要な状態で、いくら何でもそれは無理ではないかと誰もが心配した。
出発は2005年の4月11日。医者の所見では、ゴールデンウィークまでは持たない可能性が高いという厳しい状況の中での決行だった。娘の家では、ほとんどベットの上での生活だった。しかし、3人の孫との触れ合いに小倉は満足そうだったという。6月30日、小倉は眠るように80年の生涯を閉じた。自分の体を鞭打ってまで、アメリカに渡ろうとしたのは、単に寂しかったからではなく、不安定な娘に対して親としての責任を果たそうとしたのではないか。小倉の死に顔は実に穏やかだったという。自分の責任を果たし、妻の待つ世界に旅立ったからではないだろうか。
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