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ペギー葉山 
(ぺぎー はやま)

望郷の歌「南国土佐を後にして」 
救われた命   平和を祈って歌う

 ペギー葉山にとって、「南国土佐を後にして」との出会いは、運命的なものであった。彼女は感じていた。戦地でこの望郷の曲を歌いながら死んでいった兵士たちの魂が、自分とこの曲を結び付けてくれたのではないか、と。目に見えない運命の糸、それを彼女は歌の神様と呼び、その導きを感じながら歌い続けたのである。



土佐(高知)との関わり


 ペギー葉山は日本の女性歌手。1959年に出したレコード「南国土佐を後にして」が空前の大ヒットとなり、日本歌謡界においてその地位を不動のものとした。ジャズ歌手として歌手生活を出発したペギーにとって、歌謡曲調の「南国土佐」を歌うことは、決して本意ではなかった。しかし、不思議な運命の糸に導かれて、この曲に出会った。その後「ドレミの歌」「学生時代」など、次々とヒット曲を歌い上げた。



ペギー葉山


 ペギー葉山と土佐(高知)とのつながりができたのは、1958年のことである。NHKは、高知放送局の開局記念番組「歌の広場」を高知県民ホールで開催、そこに呼ばれていたのがペギー葉山であった。NHKのプロデューサー妻城良夫は、地元の人に喜んでもらうため、その頃高知で歌われていた「南国土佐を後にして」をペギーに歌わせたいと考えていた。彼女の低いアルトで歌えば、ものすごい反響を呼ぶはずだ。しかし、ペギーは、「私はジャズばかり歌ってきたんだから、歌謡曲は歌えないわ」と言って断った。妻城は諦めなかった。この曲は彼女が歌えば、命が吹き込まれる。そして人々の心を捉えて離さなくなる。一週間後、あるジャズ番組の収録でNHKに行ったペギーは、妻城に呼び止められた。この曲を高知で聴いた時、「僕はペギーさんの顔が浮かんだんです」と言った。
 彼女は、「私、あんな高音は出ないし、こぶしもまわりません」と抵抗。「そんな歌い方では、この曲の良さは出ません。ジャズのフィーリングで、ペギー節で歌ってほしいのです」と食い下がった。彼女はしぶしぶ引き受けた。それも放送終了後のアトラクションで良いからということで。もちろんこれは妻城の嘘だった。そうまでしなければ、彼女は引き受けなかったろうし、妻城はどうしても彼女に歌わせたかったのである。
 妻城の読みは見事に当たった。ペギーが歌い出す。「♪南国土佐を後にして 都へ来てから幾歳ぞ 思い出します 故郷の友が 門出に歌った よさこい節を」。会場がシーンと静まりかえってしまった。彼女は思った。「やっぱり失敗だった。私には似合わない曲だったのだ」と。後悔の念に襲われたという。しかし、そこはプロである。感情を込めて歌い続けた。「♪よさこい よさこい」のくだりまで来た時である。うねりのような熱気が押し寄せてきたのを感じた。観客の感動が、大きな塊となってぶつかってくるかのようだった。最初、静まりかえったのは、驚きと感動で観客が息もできないほど固まってしまったからだった。歌詞の三番になると、会場全体が大合唱となり、涙を流す者もいた。想像を超える反響だった。番組終了後、放送局に電話が鳴りっぱなしだったと言う。



「南国節」と戦争体験

 この曲は戦場で歌われていた曲であった。大半が高知出身の兵士で占められた、通称「鯨部隊」と呼ばれていた兵士たちの間で歌い継がれてきた。中国戦線を戦い抜いた鯨部隊は、広い中国大陸で総移動距離2千数百キロに及んだという。過酷な行軍の中、故郷高知への思いは募る。「故郷に帰りたい」。しかし、それを口にすることはできない。明日の命も知れぬ戦いの日々。気力が萎えそうになる。そんな時、必ず誰かがこの歌を歌い出した。すると歌詞の一語一語が心に染み込んできて、父母の姿や家族の笑顔が思い浮かんだ。当時、この曲は「南国節」と言われ、作者はいまだに特定することはできないという。
 戦後、作曲家武政英策が高知のバラック建ての飲み屋で、酔客が歌う聞き覚えのない曲を耳にした。表現できない魅力が何かあった。運命的な出会いである。この謎の曲に魅せられた武政は、この曲の聴き取りを始め、採譜に成功した。歌う人によって、メロディーも歌詞も微妙に違っていた曲を、様々な工夫を凝らして、新しい曲として蘇らせたのである。「南国土佐を後にして」の誕生であった。もし、作曲家の武政英策がこの曲の魅力を発見していなければ、またNHKプロデューサーの妻城良夫がこの曲をペギー葉山に歌わせたいと思わなければ、今日知られたペギー葉山は誕生していなかった。
 ペギーが生まれたのは、1933年東京の四谷であった。本名は小鷹狩繁子、三人姉妹の末っ子。両親はクリスチャンで、父は貿易会社に勤めるサラリーマン。音楽好きの一家で、当時としては珍しく家にピアノがあった。父が弾くピアノに合わせて、家族で合唱することが常だったという。太平洋戦争で東京に空襲が始まった頃、11歳のペギーは広島に疎開する予定だった。そこに父方の親戚がいたからだ。しかし、父は、「広島は呉に軍港がある。敵の標的になるかもしれない」と言って、断固反対した。ペギーの疎開先は、福島県石城郡大野村(現在はいわき市)に変更された。それが運命の分かれ道となった。
 東京在住の祖父が、広島にお墓参りに赴いたちょうどその時である。広島に原爆が投下された。悲しくも祖父はその犠牲になってしまった。「もし、広島に疎開していたら、この世にペギー葉山は存在していなかったわ」と彼女は語っている。これ以来、彼女は自分の命は、「何ものか」によって救われたという感覚を抱き続けることになる。
 戦後、青山学院女子中等部に入学したペギーは、ジャズにのめり込んでいく。ラジオが唯一の娯楽だった時代である。進駐軍放送から流れるジャズの魅力に取り憑かれてしまった。ラジオから流れるジャズの曲を耳で聴き取り、その英語の歌詞をノートに書き込むほどの没頭ぶりだった。なんと書きとどめた曲は3百曲に達したという。
 ペギーの歌唱力はずば抜けていた。知り合いのバンドで歌手デビューを果たし、進駐軍のステージで歌ったり、都内のジャズコンサートでも歌った。レコードデビューを果たしたのは、1952年18歳の時であった。その3年後には、NHK「紅白歌合戦」に出場するまでになり、ジャズ歌手として、誰もが認める評価を勝ち得るようになっていった。「南国土佐を後にして」に出会うのは、その6年後のことである。



ハチの悲劇

 晩年のことになるが、高知市にある「子ども科学図書館」を訪問したことがある。そこでハチと呼ばれた豹に会うためだった。剥製となっていたハチを見るや否や、彼女は号泣した。ハチにまつわる戦時中の話を聞いていたからであった。
 中国湖北省で鯨部隊の成岡正久小隊長が、住民を悩ませている豹退治に出かけた時のこと。成岡は洞窟の入り口で、よちよち歩きの豹の赤ちゃんを発見した。成岡は子猫のようなこの豹をハチと呼び、わが子のようにかわいがった。任務を終えて帰ってくれば、担当者からハチをもらい受け、自分の宿舎で一緒に寝るほどのかわいがりようであった。
 日に日にハチは逞しくなり、6ヶ月頃には体長1・7メートルにも達していた。ハチは、自分のことをこの部隊の一員と思っていたに違いない。歩哨に立つ兵の横に座り、暗闇に向かって睨みをきかせ、一緒に監視したり、パトロールに就いたりした。生まれた直後から、成岡に拾われ、成岡の胸で育ったのだから無理もない。元来、豹は最も人間に慣れにくい猛獣とされていた。しかし、ハチに関しては例外だった。日本軍人に対して、どこまでも従順であったし、兵士たちの中に溶け込み、誰もがハチが猛獣であることを忘れていた。一匹の大きな犬が放し飼いされているかのような有り様だったのである。
 そのハチとの別れの時が来た。部隊に移動命令が下されたのである。戦場の前線にハチを連れて行くことはできない。成岡は、さまざまなつてを通して、ハチの受け入れ先を探した。ようやく見つかったのが、東京の上野動物園だった。成岡は「助かった!」と叫んだ。「自分たちがたとえ中国の土となったとしても、ハチだけは東京で幸せに暮らすことができる」。成岡は飛び上がらんばかりに喜んだ。上野動物園でのハチは人気者であった。軍服を着た観客を見つけると、懐かしそうにじっと目を注ぎ、ノドを鳴らして甘えるしぐさをした。そんないじらしさが、また人気を呼んだ。
 しかし、戦局は悪化の一途。食糧難が日増しに厳しくなる中、ついに軍の命令が下された。「1ヶ月以内に猛獣を毒殺せよ」。絶対命令だった。軍の意向に逆らえるはずもない。1943年8月18日、命令が決行され、ハチは息絶えた。そして剥製になったのである。
 この報を聞いた成岡は悲痛に打ちのめされてしまった。後に、彼は「ハチはこれまで一度も人を疑ったことはなかったと思う。ハチが最期に人間に裏切られたと思って死んだとしたら、私は辛い」と手記に書いている。戦後、復員した成岡は、剥製のハチを引き取った。たとえ剥製になったとしても、大事にし、慈しんでやりたいと思ったからである。ハチの引き取りを頼む成岡の目には光るものがあったという。1981年、成岡は戦争の悲劇を後世に伝えるために、剥製のハチを市に寄贈した。
 子供科学図書館で念願のハチと対面したペギーは涙にむせびながら、こう語った。「やっと会えたね。あなたもあの戦争の犠牲者なのよね。きっと、あなたは鯨部隊の人たちと一緒にあの曲を歌っていたのよね」。ペギーは戦時中、福島での学童疎開のことを思い出していた。自分たちが可愛いがり育ててきた豚を殺し、食料にしたことを。どんなにひもじい思いをしてもあの豚だけは殺してほしくなかった。その夜、出された豚汁には子供たちは誰も箸をつけられず、みんなでオイオイ声をあげて泣いたという。幼い彼女の心に残っていた戦争の傷跡だった。
 ペギーは常に感じていたことがある。望郷の歌「南国土佐を後にして」を歌いながら死んでいった若者たちの多くの魂が、自分をこの歌に結び付けてくれたのではないか。そして、自分を通して彼らの思いを人々に広めさせたのではないか。2017年4月12日、ペギーは83歳で人生の幕を下ろした。平和を祈る気持ちで歌い続けた生涯だった。

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