山口淑子
(やまぐちよしこ)
二つの祖国を愛して
李香蘭として生きる負い目 漢奸として軍事裁判に
日本の傀儡国家・満州帝国に一大スターが登場した。中国人女優・李香蘭(リーシャンラン)である。美貌と透き通った声で大人気となった。しかし彼女の本名は山口淑子、生粋の日本人女性である。中国大陸の支配を正当化するプロパガンダ映画に利用された前半生は、栄光の裏に苦悩の日々があった。
満州で生まれ育つ
山口淑子は1920年2月12日、満州国(中国の東北地区)に生まれた。現在の遼寧省北煙台である。生後まもなく、山口一家は撫順に引っ越し、13歳までここで過ごした。父の山口文雄は、大陸に憧れて中国に渡った人物で、満鉄(南満州鉄道)に職を得ていた。淑子は父文雄と母アイの間の長女であった。日本の傀儡国家・満州国に生まれた淑子には、二つの祖国があった。日本と中国である。この両国を共に祖国として愛していたがゆえに、二重国籍者に似た悲哀を味わうことになる。
満鉄で社員に中国語や中国情勢を教えていた父は、淑子に中国語を徹底して教え込んだ。将来、日中友好に貢献する仕事に従事することを願っていたという。幼稚園時代、父から一対一で中国語の特訓を受け、小学校に上がると、父が講師をしていた満鉄研修所の中国語夜間講座に参加させられた。
撫順から奉天(現在の瀋陽)に移ったのは13歳の時。一家を招き入れてくれたのは李際春(リージィチュン)将軍。元軍閥の領袖で、当時は瀋陽銀行総裁の地位にあった人物である。父と将軍は、若い頃、北京で出会い、親友の誓いを結んだ仲だった。奉天で父は新たに大同炭鉱顧問の職を得ていた。中国では、家族同士が親しくなると、義理の血縁関係を結ぶ風習がある。李将軍と父は、家族ぐるみの契りを固めるために、養子縁組を取り交わし、淑子は李将軍の義理の娘になった。末長い友誼を誓う名目上の親子関係にすぎないのだが、この時、付けられた名が「李香蘭」だったのである。
歌手の道
奉天で待っていたのが、運命の友となったリューバ・モノソファ・グリーネッツであった。ユダヤ系のロシア人で、父は菓子屋を経営していた。リューバとの出会いは、小学6年生の秋、撫順から奉天に遠足に行った汽車の中で、偶然に隣り合わせになって、言葉を交わしたことがきっかけだった。二人はすっかりうち解け、遠足から戻った後も、頻繁に手紙のやりとりを交わす仲になっていた。淑子は「二人を引き合わせたのは、神の啓示だったとしか思えない」と後に述懐している。
また、このリューバは淑子を歌手の道へと導いた恩人でもあった。肺に病を抱え、病弱な淑子の呼吸器を鍛えるため、健康法としてクラシック歌曲を習うように勧めてくれたのが、リューバであった。有名なオペラ歌手マダム・ポドレソフを紹介してくれたのである。実はこの時、マダムのテストには淑子は不合格だった。しかし、リューバは食い下がり、必死に懇願したという。リューバの淑子に対する友情に根負けしたマダムは、しぶしぶ弟子入りを許可したといういきさつがあった。以後、マダムの元で本格的な発声術、歌唱法が徹底的に叩き込まれた。
奉天放送局から、出演の依頼が来たのは、マダムの特訓のおかげで、歌うことに自信を持ち始めた頃であった。一般中国人の聴衆を増やすため、「満州新歌曲」という歌謡番組の企画があり、その専属歌手を募集していた。条件は、中国人少女で北京語ができ、譜面が読め、日本語を解すること。しかし、この条件に合う中国人少女は見つからなかった。放送局のスタッフが探しあぐね、マダムに相談したところ、淑子に白羽の矢が立ったのである。父は反対だったが、リューバも、マダムも後押ししてくれ、音声放送だけならということで、引き受けることになった。芸名は李香蘭、日本人の手によって作られた中国人歌手は、こうして誕生した。淑子は、まだ13歳の少女であった。
映画女優デビュー
満州国の新京に国策映画会社「満州映画協会」ができたのは、1937年のこと。五族協和、日満親善という国策を推進する文化政策の一環であった。発足当初、音楽映画の企画があった。ところが、主演の中国人女優は全然歌えないという。それで、歌を数曲吹き込むだけでいいからと淑子は誘われた。実は、これは罠だった。録音のため新京に行ってみると、話が全く違う。彼女の立場は、単に吹き替え歌手ではなく、なんと主役ではないか。激しく抗議するものの、「お国のために」と言われれば、断ることができなかった。淑子の女優デビューは苦々しいものだったのである。
デビュー映画は『蜜月快車』という喜劇作品。しかし、これで終わらなかった。中国語と日本語の両方がわかる女優は彼女一人だったので、日満親善の大義のもと、「お国のために」、次々とかり出されることになった。李香蘭の名も売れ始め、女優業が面白く感じるようになってきたものの、淑子の心は晴れなかった。李香蘭という中国人になりきることによって、中国人を騙しているという負い目。それに、彼女の役は日本男子を慕う純情可憐な中国娘。これほど中国人から慕われている日本は、中国を指導すべきというメッセージが込められていた。まさに大陸進出を正当化するプロパガンダ映画であったのだ。彼女は、中国を日本と同様に祖国として愛していた。だからこそ、『支那の夜』『熱砂の誓い』などが興行的に大当たりするにつれ、彼女の心は痛んだのである。
日満親善女優使節に選ばれて、はじめての来日の折、関釜連絡船で下関に入港し、憧れの日本の土を踏んだ。パスポートの提出を命じた警察官は、旅券にある「山口淑子、芸名・李香蘭」と記載されているのを見て、中国服の淑子に言った。「おい、その格好はなんだ!日本は一等国民だぞ。三等国民のチャンコロの服を着て、それで貴様、恥ずかしくないのか」と怒鳴った。憧れの地、日本での最初のこの洗礼に彼女の心は深く傷ついた。
こんな彼女の内面とは裏腹に、李香蘭の人気は日本でも熱狂的なものとなった。騒がれれば騒がれるほど、彼女の憂いは増した。中国人記者から「あなたは中国人なのに、なぜあのような映画に出演したのか?民族の誇りを捨てたのか?」と質問を受けたこともあった。日本人であることを告白したいと懇願しても、受け入れてもらえなかった。
引き揚げ
1945年8月15日、玉音放送(天皇による終戦宣言)があった時、淑子は上海でそれを聞いた。涙が溢れ出た。日本の敗戦は悲しい。しかし、これで日本人と中国人の殺し合いは終わる。ようやく李香蘭から山口淑子に戻れる。偽らざる本心であった。しかし、あろうことか淑子は中華民国政府による軍事裁判にかけられるという。漢奸とされ、「中国人でありながら、中国を冒涜する映画に出演し、日本に協力して、中国を裏切った」という罪状。新聞などでは李香蘭は死刑になると報じられていた。いくら「実は、私は日本人だった」と口述しても、信用してもらえない。それほどまでに、李香蘭の名は中国人に浸透していたのである。死刑を逃れるには、確かな証拠が必要だった。
この窮地を救ってくれたのが、運命の友リューバであった。その頃、リューバはソ連の上海総領事館に勤務しており、淑子の身を案じ、収容所に訪ねてくれたのである。淑子はリューバに懇願した。北京にいる両親のもとには、日本から取り寄せた戸籍謄本があるはずだった。「それをもらってきて」と。リューバは「まかせてちょうだい」と快諾。それからしばらくしてから、収容所に日本人形・藤娘の入った木箱が届けられた。開けてみると驚いたことに、淑子が大切にしていた人形だった。北京にいる母からだった。リューバが父母に会ってくれたのだ。人形の中に戸籍謄本が隠されているに違いない。案の定、人形の帯の内側に丁寧に縫い込められていた。母はこの人形をリューバに託したのである。母は、ソ連領事館勤務のリューバに迷惑がかからないように配慮した。万が一見つかっても、リューバは単に人形を運んだに過ぎないと言い訳ができるように。
1946年2月の軍事裁判所で、裁判長は「これで漢奸の嫌疑は晴れた。無罪」と宣言しながら言った。「一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。中国人の名で一連の映画に出演したことだ。漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」。淑子は言った。「若かったとはいえ、考えが愚かだったことを認めます」。深々と頭を下げて謝罪した。この言葉は彼女の本心だった。
3月末の引き揚げ船に乗り込んだとき、思いもかけず船内のラジオから上海放送の音楽が聞こえてきた。李香蘭が歌う「夜来香」ではないか。淑子はデッキの手すりを握りながら、体が震えるのを感じた。まるで運命の神が、彼女の出航を祝うかのように、彼女の歌を奏でてくれたように思えた。自分の歌を聞きながら、「さようなら、中国。さようなら、李香蘭」とつぶやいた。涙が滂沱のごとく流れ落ちてきた。
帰国後、本名「山口淑子」に戻って、女優業に復帰した。1969年に、フジテレビはお昼のワイドショー「三時のあなた」の共同司会に淑子を抜擢した。72年9月25日は、日中共同声明とその調印式。その生中継のため、訪中した淑子は、共同声明を聞きながら、キャスターの立場を忘れ、涙を抑えることができなかった。声明は、両国の戦争状態の終結を告げ、日本側は過去の戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことを深く反省するとうたわれていたからである。「私の瞼には、時局に翻弄され続けた李香蘭の姿が去来し、こみ上げてくるものを抑えることができなかった」と述懐している。
その2年後、田中角栄首相の要請で、自由民主党の参議院の全国区に立候補し当選。参議院議員として、日中友好、アジア外交、文化活動などに尽力した。2014年9月7日、心不全のため自宅で永眠。満94歳、天寿を全うした。
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