斎藤隆夫 
(さいとうたかお)

正論を吐いて議員除名 
粛軍演説は「議会史の花」 選挙区のために働かず

斎藤隆夫の留学は惨憺たるものだった。2年間のうち、約1年間は闘病生活に終わったのである。しかし、彼は闘いの人であった。病魔と闘いながら、言論の闘いを続けたのである。それは日本人の誇りを守ろうとする闘いであった。留学時代、すでに正論政治家の片鱗を見せていた。

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斎藤隆夫

燃える向学心

  斎藤隆夫は、戦前に活躍した政治家である。天皇の名を盾にして、横暴をふるう軍部独裁に対し、激しく抵抗したことでその名を知られている。しかし、彼は決して、反軍思想家でもなければ、反戦政治家でもない。天皇を敬愛し、愛国心に溢れ、家族の幸せを願う平均的な日本人である。息子の学徒出陣に際し、「お国のためになるんだぞ」と言って、日の丸を肩にかけてあげたという。ただ彼は、正論を吐き続けただけであった。その結果、議員除名の憂き目に会う。誰もが軍部の顔色をうかがう時代、命を捨てる覚悟なしに正論を吐くことはできなかった。
  斎藤隆夫は1870年8月18日、兵庫県の北部に位置する出石郡室埴村(現在、豊岡市に合併)に生まれた。農業を営む父八郎右衛門と母たきから生まれた6人の子供の末っ子であった。山に囲まれ、耕地面積が少ない室埴村の農家は貧しく、向学心に燃えていた斎藤は、苦学を強いられることになる。
  幼い頃から農業を手伝いつつも、湧きいずる向学心を抑えることができなかった。16歳の春、彼は一念発起して家出を決行。学問するため京都に向かった。しかし、現実は甘くなかった。学費はどこからも出ない。夢やぶれての帰郷となった。
  家に帰ったものの、一生を百姓で終わりたくないという悶々とした気持ちが続いた。20歳の春、彼は再び家を出た。「今度こそ、死んでも帰らない」と決意を固めて、向かった先は東京。持ち金はわずか、徒歩で行くしかない。1日40キロほども歩き、約20日間かけて、ついに東京にたどり着いた。燃えるような向学心を内に秘め、学問による立身を夢見ていた。新しい人生の第一歩を踏み出したのである。
  彼が転がり込んだ先は、内務省の局長をしていた同郷の先輩の家。彼の書生にしてもらい、その家に住み込んだ。その後、同郷の先輩6、7人から援助を受け、早稲田専門学校(現在の早稲田大学)の行政科に入学を果たした。
  斎藤は人一倍勉強した。金を出してくれる先輩に報いるためであり、学問で身を立てるしか道はないと思い詰めていたからでもあった。猛烈な勉強の甲斐あって、法律を学んだ彼は、「首席優等」の成績で卒業。その翌年には、弁護士試験にも合格した。


アメリカ留学

  弁護士の仕事のかたわら、彼は英語の勉強を始めた。アメリカ留学を目指していたのである。彼は弁護士の仕事に飽き足らなかったのだ。かつて勉学のため故郷を飛び出したように、今度は日本を飛び出しアメリカに旅立ってしまった。留学先は東海岸のニューヘブン市(ニューヨークの北)にあるエール大学。ここの法科大学大学院に入学し、もっぱら公法(憲法など)や政治学の研究に専念した。31歳の新たな挑戦であった。
  彼がアメリカ留学で目指したものは、弁護士の先にあるもの、つまり政治家への道であった。「天下国家のために何ができるのか」。この志を内に秘め、彼は死にもの狂いで勉強した。その無理がたたったのか、肋膜炎を患ってしまった。三度にわたる大手術を受け、そのため2年間の留学生活のうち、約1年間は入院生活を余儀なくされた。
  その際、最初の手術が失敗し重態に陥ってしまった。友人たちは、彼の死期が近いと判断して、彼の遺言を聞き取り、葬式まで準備したという。一命はとりとめたが、手術を繰り返し、完治することもなく、瀕死の状態で帰国の途につくことになった。
  この間、彼は病床中の身でありながら、後の言論の闘士を彷彿とさせる行動を起こした。病院の処置に対して、徹底的に闘うことを決意したのである。単に病院側の手術や処置の失敗に対する憤りからではない。米国に来て、我慢できないことがあったのである。白人の黄色人種に対する差別。差別する白人に対する怒りはもちろんであるが、必要以上に卑屈な態度を取る日本人に対して、より強い怒りを感じていた。彼は言う。「白人に対しても言うべきことは言い、主張すべき権利は主張すべきである」と。彼にとって、病院との戦いは日本人の気概の問題であり、法律家としての義務でもあると感じていたのである。


粛軍演説

  瀕死の状態での帰国ではあったが、心には密かに期するものがあった。政治家への転身である。健康が回復するのを待って、彼は弁護士業務を再開し、そのかたわら衆議院選挙に出馬をする準備を始めるのである。帰国後8年目の1912年5月15日、第11回総選挙に野党の立憲国民党から立候補し、最下位ではあったが当選を果たした。斎藤41歳、「天下国家のための仕事」が、いよいよ始まったのである。
  政治家としての斎藤隆夫の姿勢は、実に一貫している。立憲政治の代弁者たろうとしていた。立憲政治とは、憲法を制定し、その元に国会を設け、法を定めて政治を行うことである。この立憲政治を支えるものこそ、健全な国民意思に他ならない。この国民意思が政治的思惑や歪んだ情報により、健全性を失うことを斎藤は常に危惧していた。彼の政治家としての戦いは、力で政治を壟断し、国民意思をねじ曲げようとする軍部との対決を意味したのである。
  1936年5月7日、第69回帝国議会。斎藤隆夫の名を歴史に刻むことになった演説、いわゆる粛軍演説が行われた。人はこれを「議会史の花」と呼ぶ。その年の2月26日、一部の青年将校らはクーデター事件(二・二六事件)を起こした。彼らは軍を率いて二人の元首相、その他大臣経験者らを暗殺。ほとんどの政治家は、テロの恐怖に震え上がっていた時期である。
  演壇に立った斎藤は、静かに語り始めた。彼は青年将校の憂国の情念を理解しつつも、その思想の単純さ狭隘さを批判した。さらに彼の批判は軍当局に向けられた。危険な青年将校を野放しにした点、また軍の政治介入を継続させてきた点である。斎藤はさらに続けて、「この事件を裏で糸を引いた軍部首脳部がいなかったのか」と。軍部の秘所に刃を突きつけたのである。斎藤の言葉に議員たちは、息をのんだ。
  1時間25分に及んだ演説。誰もが言いたくても言えなかったことだった。演説を終え、壇を降りる斎藤に両側の通路から握手を求める手が次々に差し伸べられた。みな、声もなく沈黙。目頭を熱くしていた。新聞は次のように報じた。「斎藤君が起った。決死の咆哮1時間25分。場内の私語がパッと消えた。首相、陸相に質すその一句ごとに万雷のごとき拍手が起こる。与党も野党もなく、煮えくりかえる場内から拍手の連続だ」。
  4年前の五・一五事件(青年将校によるクーデター事件)により、父(犬養毅首相)を暗殺された犬養健(衆議院議員)は、斎藤の言葉にこみ上げる涙を抑えることができなかった。議員になりたての渡辺銕蔵(衆議院議員)は、議会終了後、友人に向かって、「俺は今日の演説を聞いただけで、代議士になった価値があったと思ったよ」と語っている。


議員除名

  斎藤は決して雄弁家ではない。むしろ、演説下手で通っていた。選挙演説でも、聴衆がわかろうがわかるまいが、お構いなく、憲法論などをまくし立てるからだ。その上、風采が上がらない。身長は150センチそこそこの小男。青年時にアメリカで受けた肋膜炎の手術で肋骨を7本も失っていたため、身体が右後方によじれていた。演説の時も、少し前屈みの姿勢で、首を少し右に傾けて、小刻みに振りながら話す癖があった。しかし、議会の壇上から吐き出される言葉は、「舌鋒火を吐く」の感があった。内に秘めた信念の爆発があったからであろう。
  斎藤隆夫の名を不朽のものとしたもう一つの演説がある。1940年2月2日に行われた「日中戦争処理に関する質問演説」。日中戦争後、不拡大方針を出しながらも、軍の独走を抑えることができなかった近衛内閣の政治責任を鋭く追及した演説である。その日、斎藤の演説を聞こうと傍聴席は超満員であった。斎藤が壇上に立つと、議場は静まりかえった。演説は1時間30分に及んだ。日中戦争の処理について、政府の態度を質すその演説は、憂国の情に溢れていた。傍聴席からはすすり泣きの声さえ聞こえてきたという。
  彼は言う。「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲をなおざりにし、共存共栄、世界の平和などという雲を掴むような文字を並べ立てて、国家百年の大計を誤るようなことになっていないか」と。彼は聖戦の美名に隠れて、現実を見ようとしない軍部を痛烈に批判した。その後、彼の舌鋒は政府の責任にも向けられ、さらに政治家の堕落を断罪して、彼の演説は終わった。
  議場は騒然となった。議長は議長権限を行使して、彼の演説の3分の2の削除(約1万字)を命じた。軍部や政友会(有力政党)などは斎藤を懲罰委員会にかけることを要求した。「聖戦を冒涜する非国民的演説だ」と言うのである。1ヶ月後の議会で斎藤の処分が決定した。議員処分としては最も重い議員除名となった。政党政治の最後の良心とも言うべき斎藤を切り捨てることで、議員自らが議会政治を葬り去ったのである。


選挙区での人気抜群

  斎藤の政治活動は、実に特異なものであった。親分子分を作らず、資金活動をせず、その上、選挙区のために働かない。道路の修理などの陳情にいくと、「ワシは国政を論ずる代議士である。兵庫県の小さな利益のためにワシを使ってはならん」と言って、追い返してしまうという。稀有な政治家だったのだ。だからこそ、誰におもねることもなく、自分の信念にのみ忠実であることができたと言えよう。
  それにもかかわらず選挙区における人気は抜群であった。「斎藤宗」と呼ばれるような、地元の青年たちによる強固な支持グループができていた。彼らにとって斎藤隆夫は一種の教祖のようなもので、斎藤のために労を惜しまなかった。何か利益を期待したからではない。国政で活躍する斎藤は彼らの誇りであり、応援するそのことが無上の喜びだったのだ。
 戦争が終わった4年後の1949年10月7日、79歳の斎藤隆夫はその人生に幕を下ろした。心臓病と診断され、若い頃患った肋膜炎も併発していた。驚くべきことに、彼が死んで20年ほども経った後でも、選挙があれば斎藤に十数票入ったという。



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