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下総 皖一 
(しもふさ かんいち)


ドイツで発見した「日本の心」 

戦時下で生まれた名曲  故郷利根川べりの原風景

 日本人の心に残る名曲「たなばたさま」「野菊」は、作曲家下総皖一の故郷の記憶なしに生まれなかった。また作曲者の美しい心、清い心なしに生まれなかったことも間違いない。さらに言えば、ドイツ留学における苦悩の末に発見した「日本の心」なしには、生まれなかったのである。



美しい自然の中で

下総皖一(自宅で仕事中)S30年頃縮小HP

 下総皖一の名を知る人は多くない。しかし、「笹の葉さらさら のきばに揺れる お星様きらきら きんぎんすなご」と歌う「たなばたさま」のメロディーを耳にしたことがない日本人は、まずいない。彼はこの「たなばたさま」や「野菊」などの作曲者である。また東京芸術大学教授として、和声学などの音楽理論を確立し、日本近代音楽の基礎を築いた人物でもある。また数多くの優れた音楽家を育てた教育者である。さらに彼が作曲した校歌は、全国に5百数十曲に及ぶという。その影響の大きさが伺われる。
 
 日本人の心に残る数多くの美しい曲は、彼が生まれ育った土地柄と決して無縁ではない。彼が生まれたのは埼玉県の原道村砂原(後に大利根町になり現在は合併して加須市)、1898年3月31日のことである。小学校の教師であった父吉之丞と母ふさの次男として生まれ、覚三と名付けられた。
 
 生まれた家は利根川に近く、田圃に囲まれていた。一年中、美しく変化する故郷の自然を、後に「田植え、養蚕の桑摘み、色づく麦畑、つつじ、あやめ、桐の花、ドジョウが針にかかった時の慌ただしさ、夜も鳴く蛙の声」と随筆に綴っている。彼が生み出した数多くの美しい曲は、こうした利根川べりの原風景と深くつながっている。


音楽との出会い


 音楽との出会いは、栗橋町にある小学校高等科の時代に遡る。音楽の時間、オルガンが奏でる美しい音色に覚三(後の皖一)はすっかり魅せられてしまった。何とか自分の手で弾いてみたい。しかし、それは叶わなぬ夢だった。オルガンは学校にたった一台しかない大切なものだったからだ。
 
 チャンスは突然訪れた。栗橋町の祭りに祖母と一緒に出かけた時のことである。当時父の吉之丞が校長であったこともあって、祭りの後、学校の用務員の隣の部屋に泊めてもらうことになった。その夜、覚三は用務員に連れられて、オルガンのある教室に案内された。ひとりで自由に弾くことをこっそりと認めてくれたのである。生まれて初めて触るオルガンの鍵盤。胸の高鳴りを抑えることができない。鍵盤を叩くと、美しい音が人のいない校舎に響き渡った。覚三は時間を経つのも忘れて、オルガンを弾き続けたという。
 
 14歳で埼玉県師範学校に入学した覚三は、当初文学者を志望していたが、次第に興味は音楽に傾いていった。人のいない小学校に響き渡ったオルガンの音の美しさが忘れられなかったのだ。そして、音楽を一生の仕事にしたいと思い始めるのである。
 
 1917年4月、19歳の覚三は東京音楽学校(現在の東京芸大)に入学。優秀な学生ばかりが全国から集まっている。果たしてついて行けるだろうかと不安に襲われた。しかし覚三は努力と忍耐の人だった。小学校高等科時代、自宅から栗橋まで毎日片道8キロの道を歩いて通い続けたのである。雨で道がぬかると下駄を脱いで裸足で歩き、雪の日は下駄に付いた雪をかき落としながら歩いたという。こうして培われた努力と忍耐で、粘り強く勉強を続け、ついに首席卒業の栄冠を勝ち取ったのである。


ドイツ留学


 ドイツ留学の話が文部省から飛び込んできたのは、音楽学校を卒業して12年経っていた頃であった。その頃、彼は音楽教師となり、地方の小学校、高等女学校などで教鞭を取っていた。また新潟にいる頃、東京音楽学校で声楽を学んだ飯尾千代子と結婚した。後に妻は「伸枝」と改名。それを機に覚三も「皖一」と変えた。「皖」は「明るく光るさま」を意味する。音楽の世界で「ひときわ輝く存在」になろうという決意の表れだった。
 
 ドイツ留学は、ひときわ輝く存在になる絶好の機会であった。何しろドイツは、バッハ、ベートーベン、ブラームスなど大天才を生み出した国である。皖一の夢は膨らんだ。ドイツに渡ったのは1932年の春、皖一は34歳になっていた。彼が師事したのはパウル・ヒンデミット教授(ベルリン高等音楽院)、20世紀ドイツを代表する作曲家である。
 
 皖一が渡った頃のドイツは、ヒトラー率いるナチスの台頭が著しい時期だった。当時の作曲家はナチスの意に添う曲を要請された。しかし、ヒンデミット教授はそれを拒んだため、ナチスは彼の作品を「退廃音楽」と烙印を押し、容赦なく弾圧した。教授は後に亡命を余儀なくされたのである。こうした気骨ある音楽家の元で、皖一は無我夢中で勉強した。まるで砂漠に水がしみ込むように、教授から新しい作曲の知識を吸収したのである。

 

 皖一のドイツ生活は、決して順風満帆だったわけではなかった。言葉がなかなか通じない。気候も食事も違う。もともと胃腸はあまり丈夫ではなかったので、しばしば下痢に悩まされた。しかし最も深刻な問題は、彼の前に立ち塞がるドイツ音楽の壁であった。いくら勉強しても、とても究めることはできない。彼の前に屹立するドイツ音楽を前にして、前に進むことができなくなってしまった。先が全く見えない。もう日本に帰るしかない。
 
 翌日、帰国の許可を得るため、ヒンデミット教授の部屋を訪れた時だった。うなだれながらドアをノックしようとすると、部屋の中から誰かと話す教授の声が聞こえてきた。「皖一は最近、作曲のことで行き詰まっているようだね。しかし、日本にはヨーロッパの油絵とは違う墨絵というものがあるよ。きっと作曲のヒントになると思うんだが」。この言葉は大きな衝撃だった。ドイツに来て必死に勉強してきたが、日本の良さや本当の自分を見失っていた。日本人にしか作れない曲、自分にしか表現できない曲を作ればいいのだ。目の前を覆っていた濃い霧が晴れ渡り、進むべき道が見えたような気がした。
 
 予定通り2年半の留学を終えた皖一は、1934年9月に帰国。母校の東京音楽学校の講師として迎えられ、3ヶ月後には助教授に就任した。西洋音楽を学んだ彼が、帰国後1年目に作った曲が「三味線協奏曲」であった。その後、「箏独奏のためのソナタ」などを発表した。西洋音楽を学んだ日本人、「日本の心」を発見した皖一にしか作れない曲だった。まさに、西洋音楽と日本の音楽の橋渡しを考えていたのである。


名曲の誕生

 皖一が作曲した後世に残る名曲と言えば、「野菊」であろう。「遠い山から吹いてくる こ寒い風に揺れながら 気高く清くにおう花 きれいな野菊 薄紫よ」。この詞には、皖一の子ども時代の情景がそのままうたわれている。石森延男が作ったこの詞に出会ったとき、おそらく皖一は利根川沿いの故郷を思い出していたことだろう。
 
 驚くべきことに、この美しい曲が生まれたのは1942年、戦時中であった。暗い不安な時代にあって、名もないありふれた野菊の花は、気高く、清く美しく咲いている。自分もこんな野菊のように生きたい。皖一のそんな気持ちがこの曲に込められている。他にも、「ほたる」「たなばたさま」「花火」「母の歌」など、彼の名曲と言われる曲の多くは、戦争前後の暗い時代に作られているのである。ほとんどは故郷の記憶につながる曲で、戦争礼賛の曲を作ろうとしなかった。それは軍部に対するささやかな抵抗だったのかもしれないし、ナチスに抵抗した恩師ヒンデミットの生き様を思い浮かべていたのかもしれない。
 
 戦争が終わり、外地で戦った帰還兵が続々と日本に戻ってきた。帰還兵を乗せた列車が新橋駅に入ってくると、ホームには「野菊」のメロディーが流れていたという。アコーディオン奏者が「野菊」の曲で兵士を迎えたのであった。身も心もボロボロに傷ついた兵士たちは、その曲で慰められ、日本に戻ってきたことを実感したのである。
 1949年、東京音楽学校は東京美術学校と統合され、東京芸術大学となった。皖一は教育、作曲はもとより、音楽理論の構築に余念がなかった。彼が表した多くの著作物は、東京芸大ばかりでなく、日本の音楽学校のテキストとして使用された。特に和声学では、優れた業績を残し、「和声学の神様」と呼ぶ人もいるほどである。
 
 1956年に、皖一は音楽学部の学部長に就任し、日本の音楽教育の頂点に立つことになった。彼の業績もさることながら、温厚な人柄は他の大勢の教授たちからも尊敬を集めていたからであった。その人柄は温厚だったが、教育に関しては実に厳しかった。授業中の私語は絶対に許さない。遅刻も許さない。毎回、山のように出す宿題。才能のある学生には特に厳しかった。ある時、ひとりの学生が宿題を提出した。じっと見詰めていた皖一は、「なんだ、この曲は。君ならもっといい曲が作れるはずだ。怠けていてはだめだ」と叱りつけるや否や、五線譜を破り捨ててしまったという。皖一の口癖があった。「高く飛ぶ鳥は、地に伏すこと長し」。長い修業時代が必要だということである。
 
 もちろんその厳しさに、深い愛情の裏付けがあったからこそ、多くの音楽家が育っていったのである。教え子の一人、團伊玖磨がオペラ「夕鶴」の成功を収めたとき、恩師が楽屋に訪ねてくれたときのことを綴っている。「下総先生は、やあ、おめでとう、よくやったね、と楽屋を訪ねて下さった。ただ、このしごきの先生は、しかし、こんなものを20や30書かなければ、一人前とは言われないぞ、と言うことを忘れなかった。僕はしごきの先生の健在ぶりを嬉しく思った」。團伊玖磨も愛あるしごきで育った一人だったのだ。
 
 1962年7月8日、皖一は肝臓ガンが悪化して、その生涯に幕を下ろした。奇しくもその日は、たなばた(7月7日)の翌日、病院のベットに横たわる皖一の耳にラジオから流れる「たなばたさま」の曲が届いていた。この曲を聞きながら、皖一は静かに息を引き取った。利根川で遊んだ子ども時代を思い浮かべていたに違いない。享年64歳。
(写真提供/下總音楽事務所)


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