手塚 治虫
(てづか おさむ)
「マンガの神様」
死の体験から「生命の尊厳」へ 倒産からの復活
手塚治虫のマンガには一貫したテーマがあるという。生命の尊厳、人間の価値、自然と人間の共存などである。彼のライフワークと言われる『火の鳥』で描こうとしたのは、生に対する根源的な問いかけに他ならなかった。人間は何のために生きるのか。その問いは、彼自身の戦争体験に由来する。
父母の影響
日本のマンガ、アニメは、今や世界中で人気になっている。日本文化の一つのジャンルとして確立した感すらある。その草分け的人物として、手塚治虫の名を上げることに躊躇する人はおそらくいないだろう。存命中から、「マンガの神様」と称され、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二雄、横山光輝など、手塚の影響を受けたマンガ家は少なくない。
1928年11月3日、手塚治(後に治虫)は大阪の豊中町(現在の豊中市)に、住友金属に勤める会社員手塚燦と文子の間の長男として生まれた。子ども時代の治は、痩せて小さく、体も弱く、いわゆる「いじめられっ子」で、泣き虫だったと自伝で語っている。学校から帰ると、「今日は幾つ泣かされたの?」と聞く母に、指を一つ一つ折って答えていた。母の答えはいつも決まっていた。「堪忍なさい」。そのおかげで、何があっても、心にぐっと呑み込んでひたすら笑っている癖がついたという。
手塚治虫の人生で母が果たした役割は極めて大きい。母はまるでおもちゃを与えるように、マンガ本を買ってくれた。それだけでない。そのマンガ本を実にリアルにキャラクターになりきって読んでくれた。悪役は悪役のように、しんみりしたところはしんみりと。治は、感極まって泣いたり、興奮したりで、マンガの虜になってしまったのである。
手塚治虫はマンガ家になろうとしていたわけではなく、職業としては軍医を目指していた。終戦の間際、軍医を速成するため設けられた大阪帝国大学医学専門部に入学したのは、そのためである。しかし、医学生でありながら、200ページに及ぶ長編マンガ『新宝島』(酒井七馬との合作)を1947年に描き上げてしまった。これが発売された途端、40万部も売れ、当時としては異例のベストセラーとなり、赤本(少年向けの講談本)ブームの火付け役となってしまったのである。
それ以後、次々と仕事が舞い込み、手塚は学業の傍ら、月に1、2冊の作品を描かなければならなくなる。授業中もマンガを描き続ける始末であった。そんな手塚に対し、恩師は忠告した。「君はこのまま医者を続けても、ろくな医者にはなれん。患者を5、6人は殺してしまうだろう。医者を諦めてマンガ家になりたまえ」と。悩んだ末、手塚は母に相談した。「東京に行ってマンガを描きたいし、医者にもなりたい」。母は、「本当に好きなのはどっち?」と聞く。「本当はマンガが好き」と答えると、母はきっぱりと言った。「あんたがそんなに好きなら、東京へ行ってマンガ家になりなさい」と。彼の進路決定には、母の後押しがあったのである。
父に関しては、手塚はあまり良く書いていない。「気まぐれでわがままで、無理難題を母に押しつけて怒鳴りつける」ような人間だったと。しかし、父の影響も過小評価するわけにはいかない。父はカメラを愛好するモダンな人物で、当時としては大変珍しく手回しの映写機を所有していた。治は小さい頃から、家でチャップリンの喜劇映画やディズニーのアニメ映画を見て育った。アニメ監督になる夢は、その頃芽ばえたものである。
一貫したテーマ
手塚マンガには、一貫したテーマがある。人間の価値、生命の尊厳、宇宙や大自然の中の人間の重要性などである。たとえば、『鉄腕アトム』は、一見科学の進歩によってもたらされる理想的な未来像を描こうとしたもののように見えるかもしれない。しかし、手塚自身、そういう見方をされることを迷惑だとすら言う。むしろ、進みすぎた科学に対する警鐘であり、それに対する無自覚な社会に対する批判が込められている。
手塚の代表作でもあり、30年以上に渡り連載が続いた、まさにライフワークとも言うべき作品が『火の鳥』である。ここで描き出したかったのは、生に対する根源的問いかけであった。手塚は言う。「火の鳥は鳥ではなく、生命の象徴みたいなものです」。
ナギという少年が火の鳥に問う場面がある。「なぜ、お前だけが死なないで俺たち人間はみんな死んでいくんだ。どうしてそう不公平なんだっ!」。火の鳥は言う。「不公平ですって?あなた方は何が望みなの?死なない力?それとも生きている幸福が欲しいの?」。この問いは、手塚自身が抱き続けた自問自答でもあった。そこには、生と死の意味を考えるきっかけとなった原体験があったのである。
終戦間近の6月、勤労奉仕中の手塚が、工場の火の見やぐらで、見張りをしていたその時である。突然の空襲警報。雲の間からB29の大編隊が姿を現した。下に降りる暇はない。大編隊から、淀川界隈の工場や民家めがけて焼夷弾の雨が振り落とされた。キューンという音と共に焼夷弾が、手塚のすぐ横に落ちた。うずくまりながら恐る恐る見てみると、横にある工場の屋根に大きな穴があいているのが見えた。たちまち火の海である。
助かったと思い、やぐらを駆け下り、防空壕に行った。そこには直撃弾が当たり、仲間や工員たちの死体が散乱。避難所になっていた淀川の堤防も死体の山、さらに悲惨な状況だった。これは現実の世界ではないのではないか。夢を見ているのではないか。もしかしたら自分は死んでしまい、ここは地獄なのではないか。それほど恐ろしい光景であった。
戦争が終わったのは、それから2ヶ月後。「ああ、生きていてよかった」。手塚の実感だった。晩年の手塚は次のように語っている。「その体験をいまもありありと覚えています。それがこの40年間、僕のマンガを描く支えになっています」。生きている実感、生命の尊さ、こういうものが自然に作品の中に出てきてしまうのだと言う。様々なジャンルのマンガを手塚は描いてきたが、根本的なテーマは一貫しているという。
絶体絶命のピンチと復活
幼い頃から、ディズニー映画を愛好していた手塚は、アニメーションには強い関心を抱いていた。マンガを描き続けたのは、アニメーション制作の資金を得るための手段だったとまで語っている。当然、手塚はアニメーションの制作にのめり込むようになる。彼が設立したプロダクションに動画部を設立し、その後、動画部は「虫プロダクション」として独立。国産初のテレビアニメ『鉄腕アトム』の放送が開始。1963年のことである。
アニメ制作はハイリスクである。莫大な費用がかかり、時間と手間もかかる。その割には利益は上がらない。にもかかわらず、手塚は30分枠の『鉄腕アトム』を破格の安値で引き受けてしまう。テレビアニメを普及させたいという彼の強い意志の表れだった。当初は経営が苦しかった虫プロも、『鉄腕アトム』の世界的な大ヒットにより、版権収入で莫大な利益を上げた。事業も拡大し、最盛期には従業員数550名の規模になったという。
しかし、いいことは長くは続かない。手を広げすぎたのである。手塚は作品に懲りすぎると、人とお金を膨大に使いすぎる癖があった。所詮、創作作家であって、経営者ではなかった。1973年、虫プロも虫プロ商事も倒産の憂き目を見るに至ったのである。その頃の少年雑誌の世界では、手塚はすでに古いタイプのマンガ家と見なされていて、人気に陰りが出ていた。倒産はその時期のことであった。手塚自身、個人的に1億5千万円ほどの巨額の借金を背負うことになる。この時期を彼は「冬の時代」と回想している。
しかし、手塚治虫は見事な復活を遂げた。アップリカという育児器具会社の葛西健蔵が手塚の版権を引き受け、約10年かけて手塚の借金全てを返済したのである。実は、葛西の父親はスチール家具の会社を経営しており、危機の時、手塚に救われたことがあった。「鉄腕アトム」のキャラクターを学童机と椅子に使わせて欲しいと頼んだところ、手塚は快く承諾。これが爆発的に売れ、会社は息を吹き返した。葛西は、手塚が絶体絶命のピンチにあると聞いて、今度は自分が手塚に恩返しをする番だと考えたのであった。
葛西は言う。手塚が復活できたのは、「何よりも手塚自身の気迫に他ならない」と。数十人の債権者が手塚邸に押し寄せ、「借金を返せ」と迫っている最中、手塚は「僕にはマンガを描くしかできません」と言って、マンガを描き続けていたという。また、葛西に「僕は絵が速いんです。人の3倍描けますから、それで食べていこうと思います」と言った。
4百坪の大邸宅から、狭い借家に移るときも、電話を受けた葛西は、その晴れ晴れとした声に驚いたという。「一からやり直そう。また充実した創作活動に戻れる」という気持ちだったのだろう。こうした極限状況の中で、名作『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』を産み出し、これがヒット作となって、手塚は見事な復活を遂げていくのである。
手塚が胃を患い、手術を受けたのが1988年3月のこと。スキルス性胃ガンであった。長年の肉体への酷使が命を縮めたのだろう。彼の仕事の風景は、常に机を三つ置いて、それぞれ違う仕事を乗せて同時に取り組んだという。夜中にラーメンを食べながら、徹夜徹夜の日々。これではいくら頑強な体力の持ち主でも持つはずがない。
病名は手塚には伏せられたせいもあり、彼は治ると信じていた。医師や家族の制止を振り切り、病床にあって連載を続けていたのである。倒れた翌年の1月25日、手塚は昏睡状態に陥った。意識が戻ると「鉛筆をくれ」と言ったという。そして今際の息の中、「頼むから仕事をさせてくれ」と言って、起き上がろうとしたという。これが最期の言葉となった。1989年2月9日、60歳の手塚はついに帰らぬ人となった。
手塚の代表作『火の鳥』『ブラック・ジャック』は、時代を超えて読み継がれている。そこには手塚自身が命を削りながら、伝えようとした思想があるからだ。生命の尊厳、心なき科学技術社会への警鐘、自然との共存など。手塚治虫の生命は、彼の描いたマンガの中に今も生きている。
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