Top向学新聞現代日本の源流>渡辺はま子

渡辺はま子 
(わたなべ はまこ)


戦犯救出運動に捧げる 

従軍歌手として戦地に   奉仕の生涯

 渡辺はま子は、戦前と戦中に戦地を駆けめぐりながら、兵士の前で歌い続けた従軍歌手であった。それは、日本国民の一人としての義務と固く信じていた。戦後、彼女はフィリピンのモンテンルパ収容所に冤罪で死刑囚とされた兵士がいることを知り、その救出に立ち上がったのである。


「無鉄砲な女」


 渡辺はま子は、昭和の時代に活躍した流行歌手である。しかし、ただの歌手ではない。昭和の時代、渡辺はま子ほど戦争と深い関わりを持った歌手はいなかった。それは具体的には、中国戦線への従軍慰問、終戦直後の抑留生活、そして冤罪で戦犯とされた日本兵の釈放運動などである。



渡辺はま子2hp


 渡辺はま子は、1910年10月27日、横浜市の平沼に英語教師の父近蔵と母マリの間の末っ子として生まれ、両親、兄や姉からの愛情を一身に受けて育った。小さい頃から行動的で活発だったはま子は、時々母を困らせた。泳ぎを覚えたばかりの小学生の頃、家から洗濯板を持ち出して、多摩川を対岸まで泳ぎ渡ったことがあった。こんなはま子を母は「怖いもの知らず、無鉄砲な女」と評したという。常に物事に前向きで、損得を顧みず、大胆で行動的な彼女の性格は生涯変わらなかった。

 12歳の時、ミッション系の捜真女学校に入学。朝に夕に歌う賛美歌の美しい調べに、すっかり魅せられたはま子は、音楽を本格的に学ぶため、武蔵野音楽学校声楽科に入学した。優秀な成績で卒業したはま子は、母校の講師として教壇に立ち、同時に日本ビクターの専属歌手としても採用された。音楽家としては順調な滑り出しだった。しかし、その3年後のことである。はま子の心に癒しがたい傷跡を残す騒動が起きてしまった。

 会社に命じられるままに歌った歌が、「忘れちゃいやヨ」。これがわずか3ヶ月間でレコード15万枚も売り上げる大ヒットとなった。しかし、官能的な歌詞が禍いし、官憲の検閲結果、「あたかも娼婦をみるがごとき」という屈辱的理由で、上演禁止命令が出されたのである。こうした官能的な歌は彼女の好みではなかったが、やむを得ずに歌った歌なのである。この騒動は、歌手として意にそぐわない歌は絶対に歌ってはならないという教訓をはま子の胸に刻みつけることになった。はま子は日本ビクターを退社した。



従軍歌手として


 約1年間のフリーの生活後、はま子は日本コロンビアの専属歌手となった。その年、日中戦争が勃発、日本は戦争の泥沼にはまりこんでいく。はま子の歌も、軍国調のものが増え、歌を携えて傷病兵慰問の回数も多くなった。中国の上海、南京への皇軍慰問芸術団の一行に加わって訪中したのは、日中戦争が始まった1年後のことである。

 帰国後、のちに大ヒットとなる「支那の夜」のレコーディングが行われた。日中戦争の最中であったが、この歌には戦争の影はない。中国のロマンチックな詩情を美しく歌い上げ、戦地の日本人の心に郷愁を呼び起こしたのである。この歌の歌詞もメロディーも、はま子の感性に実によく合っていた。待ち望んでいた歌にようやく出会えたのである。

 この歌の大ヒットにより、「支那の夜」は映画化され、その主題歌の「蘇州夜曲」の誕生につながっていった。この二つの歌により、はま子は戦前の流行歌の黄金時代を築く国民的歌手となっていくのである。しかしこの成功は、彼女に過酷な運命をもたらすことになる。従軍歌手として、陸海軍の兵隊たちや傷病兵の慰問のため、国内外を東奔西走。戦争と共に歩み、戦争と共に人気を博していくのである。

 愛国心に溢れていたはま子にとって、日本軍への慰問は日本国民の一人としての義務であると固く信じていた。日本国内はもとより、台湾、広東、朝鮮、満州など、はま子の戦地慰問は続いた。日本の敗戦が色濃くなり始めた1944年6月、はま子に中国戦線への従軍命令が下された。彼女は物事を慎重に考えて、あれこれ思い悩むタイプではない。即座に承諾の返事をした。愛国心が背中を押したのである。

 5ヶ月に及んだこの度の慰問は、死と隣り合わせの危険な旅だった。しかし、「支那の夜」「蘇州夜曲」を歌うはま子の人気は絶大で、連日連夜引っ張りだことなった。国に尽くしたい。はま子にあったのは、その純粋な使命感だけであった。

 終戦間際、はま子は驚くべき行動に出た。北京文化協会からの熱心な慰問の誘いを受け、またも北京に渡ってしまった。1945年7月、家族の反対を振り切っての決死行であった。まさに母が言ったとおり、「怖いもの知らず、無鉄砲な女」の大胆な行動だった。

 海を渡った1ヶ月後の8月15日、はま子は天津で終戦を迎えた。敗戦の事実をにわかには受け入れられなかった。信じてきたものが音を立てて崩れていく。喪失感と無常感に襲われ、同時に戦争に加担してきたという良心の疼き。さらに、はま子に待ち受けていたのは、惨めな抑留生活だった。しかし、絶望に沈んでいるわけにはいかなかった。敗戦のショックから自暴自棄的になっている兵隊たちを慰めるため、はま子に慰問の依頼が舞い込んできたのである。帰国を待つ人々を勇気づけるための慰問も頼まれた。

 本来、はま子は帰国の船に優先的に乗れる立場にあった。しかし、彼女はその立場を放棄して、居残る道を選択した。終戦の日、彼女は秘かに誓ったことがある。「中国に留まって、何かの役に立ちたい」と。彼女は天津の収容所に居残ることでそれを実践した。打ちひしがれている引揚者を歌で励ますことが、自分の役割だと信じていたのである。はま子が帰国したのは、1946年5月のことだった。



「あゝモンテンルパの夜は更けて」


 戦後、はま子の活動は続けられた。敗戦により、旧軍人に厳しい視線が注がれる時代の風潮の中、傷痍軍人らの慰問に出かけ、無料奉仕で歌を歌い、彼らを励ました。お国のために戦い傷ついた人々を見捨てることはできない。そんな気持ちだった。そんな中、彼女はフィリピンの下院議員ピオ・デュランと上院議員ベラノに出会った。彼らから話を聞いてみると、フィリピンのモンテンルパ収容所には、戦後7年も経っているのに、百名を超える日本の軍人が戦犯として捕らえられているという。死刑囚が74名、終身刑が30名。しかもほとんどが冤罪であった。この事実に、はま子は衝撃を受けた。この運命的出会いを契機に、はま子の戦犯救出運動が始まったのである。

 デュランやベラノが、当時のフィリピンで日本人戦犯の世話をするということは、政治的に自殺行為であった。しかし、彼らは、来日して戦犯たちの老いた父母や幼い子どもたちの姿に接し、声を上げて泣いた。傍観することは、彼らの良心が許さなかったのである。

 はま子にとって、遠いモンテンルパの出来事は他人事とは思えなかった。軍の命令とはいえ、従軍歌手として戦争に手を貸したことは事実である。戦犯たちが受けている苦しみは、自分も担うべきものではないか。モンテンルパの戦犯たちは他人の罪を一身に背負い冤罪に苦しんでいる。そう思うと、はま子は居ても立ってもいられなかった。モンテンルパの教誨師加賀尾秀忍との交信を開始した。こうして再び戦争に向き合い始めるのである。

 はま子は、ラジオ番組やコンサートで死刑囚の手紙を読み上げた。モンテンルパの戦犯が国民の知るところとなり、全国から多くの反響が寄せられ始めた頃、はま子の元に加賀尾から一通の手紙が届いた。その中には、手紙に添えられて一枚の楽譜が同封されていた。死刑囚が作詞作曲した歌であった。その歌は、戦犯たちの望郷の思いや愛する者を思う気持ちに溢れていた。ビクターのディレクターはこの歌を聞いて、「いいね、これ吹き込みましょう」と言い、レコーディングが決定した。即断だった。そうと決まれば、はま子の行動は速い。楽譜が送られてから、40日後には吹き込みが行われたのである。

 吹き込みの日、近場にいる留守家族が招かれた。はま子の歌声が流れ出すと、スタジオのガラス越しに見つめる留守家族たちは、感極まってハンカチで目頭を押さえる者もいた。出来上がったレコード「あゝモンテンルパの夜は更けて」と蓄音機を、はま子はすぐに現地に送った。戦犯たちは出来上がった歌に感激し、むせび泣いた。獄中では、しばらくの間、はま子の歌声が昼夜を問わず鳴り響いていたという。

 日本では、「あゝモンテンルパの夜は更けて」は、空前の大ヒットとなり、釈放運動は大いに盛り上がった。そして、レコーディングの半年後の1952年12月には、モンテンルパへ伴奏者を引き連れて乗り込んだのである。はま子は戦犯たちを励ますというという目的のためだけに訪れたたった一人の日本人として、歴史に記憶される存在となった。

 はま子は「本当に一所懸命、来ました」と涙で途切れがちに挨拶し、その後、監房の二段ベッドを片づけた空間で、前代未聞の牢獄コンサートが始まった。「支那の夜」「蘇州夜曲」など数曲歌った後、最後は「モンテンルパの夜は更けて」を全員で歌った。涙、涙の感激の大合唱が終わると、あちらこちらからすすり泣く声がもれてきた。

 戦犯釈放が決定したのは、その半年後のこと。家族を日本人に殺されていたキリノ大統領の心を動かしたのは、一つのオルゴールだった。これは、はま子の運動に感動したオルゴール会社の社長に、この曲をオルゴールにできないかとはま子が頼んだものだった。加賀尾は、キリノ大統領との会見の時に、このオルゴールを大統領に差し上げた。大統領は、その哀調を帯びたメロディーに聞き入り、この曲の由来を尋ねたという。そして加賀尾が語る戦犯の秘話に心動かされ、初めて日本人釈放を伝えたのであった。

 晩年はま子は、フィリピン、硫黄島、サイパン、沖縄などに慰霊の旅を続けた。玉砕の島々を訪れては、レコードの印税のほとんどをはたき、慰霊碑建立に貢献した。1999年12月31日大晦日、ついに89年間の生涯に幕を下ろした。はま子の訃報を聞きつけ、鹿児島からわざわざ弔問に駆けつけた元兵士がいた。戦時中、中国戦線ではま子の歌を聞き、すさんだ心が慰められ、無事に生きてこられた、その御礼だという。渡辺はま子は、その生涯を奉仕のために捧げた稀有な歌手であった。


 


a:11920 t:1 y:10