山田 寅次郎
(やまだ とらじろう)
日本・トルコの架け橋
エルトゥールル号の遭難
トルコは親日的だと言われている。山田寅次郎の存在がそれに一役かったことは、間違いない。彼は明治時代、20年以上にわたってトルコに住み続けた稀有な日本人であった。日本とトルコが身近な国になるよう尽力した。まさに国際交流の先駆けであり、日本とトルコの架け橋であった。
大島村民の無償の行為
トルコで最も有名な日本人、それは山田寅次郎である。イスタンブールには、山田寅次郎広場があるほどである。彼は約20年間トルコに滞在し、民間大使としての役割を果たした人物であった。彼がトルコと関わりを持ち始めたきっかけは、トルコの軍艦エルトゥールル号の遭難であった。
時は1890年9月16日午後9時過ぎ、エルトゥールル号は暴風雨の中、紀伊半島南端近くの大島の沖合で岩礁に激突。大爆音とともに船体が中央から真っ二つに割れ、荒れ狂う海の中に消えた。乗組員650名は全員、海に投げ出され、587名が死亡。生存者は63名に過ぎなかった。
エルトゥールル号の訪日の目的は、小松宮彰仁親王(皇族)のトルコ訪問に対する答礼であった。明治天皇に謁見する任務を果たし終え、その帰途、事故に遭ったのである。実は、帰国予定は大幅に遅れていた。乗組員の一部が横浜でコレラに感染してしまったからだ。帰還費用も乏しかった。それゆえ台風シーズンという危険を覚悟で出発を強行せざるを得なかったのである。そこに台風が襲いかかり、未曾有の悲劇となってしまった。
大島村民の行動は速かった。翌日早朝、荒波の中に漂う船の破片、おびただしい数の死体、灯台に泳ぎ着いた負傷者の群れ。並の海難事故ではなかった。村長、区長の指導のもと、村をあげて生存者の救出活動を開始した。
救出と言っても簡単なことではない。樫野地域の海岸は崖であり、遭難者を戸板に括り付けて、崖の上まで運び上げなければならなかった。それも雨の中での作業である。村人らは、負傷者を寺の本堂に運び入れ、血や汚れを拭い、水をほしがる者には水を与え、衰弱したトルコ兵士を励まし続けた。村人総出で、骨身を惜しまず介抱したのである。
村民は、貧しい生活にもかかわらず、遭難者が村を離れるまでの期間、食料を賄うなど生活全般の面倒を見た。とりわけその年は、食糧事情が悪化していた。不漁と穀物の不作が重なったためである。しかし村人らは、非常の時のために床下に蓄えていたサツマイモや鶏を生存者のために惜しみなく提供した。また遺体は、遭難場所にほど近い南側の山野に丁寧に葬られた。さらに驚いたことに、生存者の治療に当たった医師たちは、薬代を含め一切の治療費を寄付すると申し出た。まさに村民あげての無償の行為であった。
義捐金活動
その後、生存者は神戸港にあった和田岬消毒所に収容され、日本赤十字社の看護婦らの手に委ねられた。ここでも生存者たちは、看護婦の献身的な介抱に感動し、涙を流して喜んだ。また日本中から、彼らに見舞いの品が届いた。多かったのが煙草だったという。彼らの煙草好きが新聞で報道されたからである。また皇后からは、フランネルの病床衣類が一人に一着ずつ贈られた。こうした皇后の厚意に、涙を流さない者は一人もいなかった。彼らは、汚さないよう注意深く着ていたという。
連日新聞紙上に詳しく報道されたこの事件に、24歳の山田寅次郎は衝撃を受けた。トルコからはるばる東の果ての日本までやってきて、コレラに見舞われ、あげくの果てに遭難。痛ましすぎる。寅次郎は多感な青年だった。彼は各方面に働きかけて、遺族への義捐金集めの活動を開始した。新聞社などに働きかけ、その協力のもと、演説会を催し、1年後には、なんと5千円の義援金を集めてしまった。現在のお金で3千万円ほどになる。
トルコへ
トルコへどのように送金すべきか。考えあぐねた末、寅次郎は外務大臣に聞くのが一番だと考え、外務省を訪問した。思い込んだら一途に行動し、恐れを知らぬ寅次郎である。時の外相、青木周蔵を訪ねたところ、青木は熟考の末、「君自身がトルコに赴いてはどうか」と持ちかけた。渡航の便宜は図ってくれるという。願ってもないことだった。
1866年、寅次郎は沼田藩(現在の群馬県沼田市)の藩士中村完爾と島子の次男として生まれた。山田姓を名乗ったのは、後に茶道・宗偏流の第7世山田宗寿の養子になったからである。明治維新後、中村家一家は上京し、寅次郎は漢学、英語、ドイツ語、フランス語などを学んだ。海外で一仕事したい。そんな気持ちを抱きながら、外国語習得に取り組んでいたのである。日本という枠にとらわれず、国際社会の場で自分の生きる道を見出したい。そんな熱い思いを抱いていたときに起こったのが、まさにエルトゥールル号遭難事件であったのである。彼は青木外相の勧めに飛びついた。
単に義捐金を届けるためだけでトルコに赴くつもりはなかった。西欧列強がアジアの植民地化を進めている時代に、辛くも独立の体面を保っているのは、日本とトルコである。この両国が交流を深めることで、西欧の侵略からアジアを守り、侵略の防波堤としたい。こんな思いを抱いていた。彼は熱烈な愛国者でもあったのである。
トルコに留まる
1892年1月30日、26歳の寅次郎は勇躍、横浜港を出発した。目的地コンスタンチノープルに着いたのは4月4日早朝。早速、外務省を訪れ、サイド・パシャ外相に面会。外相は、遺族救済委員会に義捐金を送付する手続きを取ってくれた。これで寅次郎の第一の目的は完遂した。数日後、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁。皇帝から、「トルコは日本との修好および通商を希望している。それには、言葉の理解が必要となる。しばらく滞在して、陸海軍の士官に日本語を教えてほしい」との言葉があった。この申し出は、願ってもないことだった。日土交流の道を切り開きたい。これは彼の第二の目的だった。彼は何の迷いもなく、トルコに留まる決意をしたのである。
トルコは自国の商工業を発展させるため、欧州から物資を購入せざるを得なかった。しかし、そのことは、宗教的な敵であるキリスト教国に、トルコの金が吸い取られてしまうことを意味した。エルトゥールル号遭難事件以後、皇帝は日本を尊敬し、日本と親密になりたいという気持ちが強くなっていた。そこにトルコとの交流の先鞭を付けたいと考えていた寅次郎が乗り込んだのである。両者の思惑は完全に一致した。
民間大使として
第一次世界大戦が勃発し、トルコと日本が準交戦国となったため、寅次郎は帰国を余儀なくされた。それまでの22年間(帰国時を除くと正味20年間)、民間大使として目覚ましい活躍をみせた。日土両国の正式な外交関係の樹立に奔走したことは、彼の最大の功績と称えられている。
トルコ商工務省直轄のトルコ商品陳列館における日本代理人を委嘱され、日本製品の普及にも貢献した。また、コンスタンチノープルの目抜き通りに日本品販売所を設け、それを管理した。この販売所は、トルコから土地家屋を与えられ、関税面でもかなりの優遇措置を受けていた。皇帝が日本との交易を強く望んでいたからである。また皇帝とその側近の高官たちに茶の湯を披露し、日本文化の伝播にも余念がなかった。ちなみにこの時の茶の湯の点前は、茶道が海外に紹介された最初と言われている。皇帝は、寅次郎の一連の活動に感謝して、アブデュルハリルというムスリム名を授けている。
帰国後の寅次郎は、大阪に製紙会社(吹田製紙所、後に三島製紙所)を立ち上げた。その役員として事業展開をしながら、日土交流に尽力し続けた。1925年、大阪商業会議所が中心となって、日土貿易協会が設立され、寅次郎は初代理事長に就任。その翌年、高松宮(皇室)を総裁に戴き、日土協会を創設。1928年には、日土貿易協会主催で、エルトゥールル号の遭難で命を落とした犠牲者の追悼祭が、大島の樫野崎で行われた。まさに寅次郎は日土関係の架け橋として活躍したのである。
親日的なトルコ
トルコ人はみな親日的だと言われている。日露戦争(1905年)に日本が勝利したとき、皇帝は「我が国の勝利と考えるべきである」と語り、我が事のように喜んだ。この時期にトルコで生まれた赤ん坊に、日露戦争の英雄東郷平八郎や乃木希典にちなんで、トーゴーやノギと命名するのが流行したほど、トルコ人は日本の勝利に熱狂したという。
もちろん、ロシアは日本とトルコの共通の敵であったからであろうが、エルトゥールル号遭難時の大島村民の救護活動や寅次郎の存在も、影響していたことは間違いない。大島村では、エルトゥールル号遭難事件以来、5年ごとに慰霊祭を行ってきたし、地元の小学生は犠牲者の墓地の清掃作業を続けていた。実は、この清掃は今でも続けられており、毎年11月には全校生徒総出で墓前に詣で、追悼歌を斉唱し、それから清掃作業に入るという。トルコ人の間では、これらのことはよく知られているのである。
1985年、イランとイラクの戦争が泥沼化する中、イラクのフセイン大統領は、とんでもない声明を発表した。48時間後にイラン上空を飛ぶ全ての飛行機(民間機を含む)を無差別に攻撃するという。イランの日本大使館は狼狽した。日本人に出国勧告を出していたが、日本航空の救援機は間に合わない。各国の航空会社に掛け合ったが、どこも自国民の脱出で手一杯で、どうにもならない。必死で掛け合っても、200人分の座席がどうしても足りない。もはや事態は絶望的だった。
そんな時、日本人のために救援機を出してくれたのが、トルコ航空だった。オザル首相(後の大統領)が特別機を飛ばす決断をしたのである。トルコ航空では、この特別機に乗るパイロットを募集したところ、全員が手を挙げたという。2機のトルコ航空の飛行機が日本人を乗せてテヘランの空港を飛び立ったのは、撃墜予告期限の1時間前のことであった。危機一髪で脱出に成功した。トルコによって助けられたのである。
1957年、山田寅次郎は90年間の生涯を大阪で終えた。晩年彼は語っている。「東洋の君子国としての誇りを持ち、諸外国に侮りを受けることのないように、張り切ってきました」と。まさに大島村民と共に、寅次郎はトルコの人々に「尊敬される日本人」像を強く印象づけ、私たち日本人の誇りとなっている。
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