山岡 鉄舟
(やまおか てっしゅう)
無私無欲で至誠の武士
江戸城の攻撃を止める 西郷隆盛も驚嘆した胆力
山岡鉄舟は、自ら道場を開くほどの剣の達人である。その剣法を無刀流と呼んだ。刀によらない剣法であり、心を澄まして胆力を練り、戦わずして勝つことを一義とする。これは座禅から学んだ剣法の極意であった。座禅により、死を恐れない無私無欲の精神を身につけ、彼は江戸を救った。
武士道の権化
武士道を忠義、豪胆、至誠、無私などと定義するならば、山岡鉄舟はまさに武士道の権化のような人物だった。辛口の人物評で知られる勝海舟が、山岡を「誠実忠愛にして英邁豪果(才能豊かで豪快)の人物」と称し、「山岡以上の人物は見当たらない」と手放しで褒め称えている。幕臣の勝海舟が、官軍(明治新政府の軍隊)の西郷隆盛と会談して、江戸城総攻撃を回避させたことは、あまりにも有名である。しかし、その前に西郷と直談判をして勝・西郷会談をお膳立てした人物こそが、山岡鉄舟なのである。
1836年6月10日、山岡鉄舟は小野高福と磯の間に生まれ、鉄太郎と名付けられた。小野家は代々の旗本(徳川将軍直属の家臣)で、父は蔵奉行(幕府の米の管理を行う役人)であった。鉄太郎10歳の時、父は飛騨(岐阜県北部)郡代(年貢収納の役人)に栄転。飛騨の地に移り住むことになり、17歳までの多感な少年期をここで過ごした。
教育熱心な父は、鉄太郎に武道と書道を叩き込んだ。母は慈愛に満ちた女性であったが、若い鉄太郎が郡代の子としてチヤホヤされることを懸念していた。そして常に鉄太郎を諫めて言った。「父親の仕事が尊敬されているだけで、お前が偉いのではない」と。
父母の死
鉄太郎が15歳の時、母が突然脳卒中で倒れ、41歳の若さで世を去った。鉄太郎の受けた打撃は大きかった。毎日、真夜中に母の菩提寺に出かけ、墓前に座し、お経を読んだり、母に話しかけたという。これが50日間も続いたので、聞く者の涙を誘った。まだ母を失った痛みが癒えない5ヶ月後のこと、今度は父の高福が没した。死因は脳溢血と言われているが、幕府に何か疑いをもたれたことによる自刃という噂もあり、真相は不明である。いずれにせよ、5人いた弟の養育は、15歳の鉄太郎に託されることになった。
相次いで両親を亡くした鉄太郎は、5人の弟を連れて江戸に向かった。腹違いの兄鶴次郎を頼ったのである。2歳になる末の弟のために、鉄太郎は彼を抱いて近所にもらい乳をして歩いた。夜は重湯に蜜を溶いて飲ませ、添い寝をして育てたという。鉄太郎はこの苦労をよく耐え忍んだ。父が遺した遺産を持参金にして、弟たちを旗本の家に養子に出し、兄としての責任を立派に果たしたのである。
江戸に戻った鉄太郎は、真っ先に千葉周作の道場に入門した。武士の子として、まずは剣の道を究めようとしたのである。その翌年(1853年)、江戸中が大騒ぎとなった。ペリー率いるアメリカの艦隊が、浦賀沖に来航した黒船騒動である。時代は、幕末に向けて風雲急を告げていた。鉄太郎が、この国難に敏感に反応したのは言うまでもない。外国勢力から国を護るため剣の腕を磨こうと、剣術修業に拍車がかかった。道を歩いていて、竹刀の音が聞こえれば、すぐにその道場に飛び込んで、試合を申し出る熱心さである。何事も捨て身で当たる鉄太郎を恐れ、周囲は「鬼鉄」とあだ名した。
剣術修業に明け暮れる日々、鉄太郎は一人の若い槍術家と出会った。日本で一、二と言われた槍の名人、山岡静山である。人となりは、剛直にして純朴、また人倫に篤く、困った人を放っておけない人柄だった。その上、大変な親孝行だったと言われている。20歳の鉄太郎は、27歳の静山にすっかり心服してしまった。ところが、この静山が川で不慮の死を遂げてしまう。出会ってわずか数ヶ月後のことである。
母の時と同じように、鉄太郎は静山の墓に毎日欠かさずお参りをした。雷が鳴り響く暴風雨の日、闇の中から一人の男が墓地に向かって走っていくのを寺の住職は見ていた。鉄太郎だった。彼は静山の墓の前で、着ていた羽織を脱いで、墓石にそれをかぶせ、語りかけた。「先生、ご安心下さい。鉄太郎が側におります」。雷が大の苦手だった静山のため、その晩は雷雨が過ぎ去るまで、墓を守護していたという。
その山岡静山には英子という名の妹がいた。鉄太郎はこの英子と結婚し、婿養子となって山岡姓を名乗ることになる。実はこの婿入りは前代未聞であった。家格が違いすぎたのである。鉄太郎の小野家は郡代の家柄、山岡家は平武士に過ぎない。しかし家柄などという俗世間的価値観が全く欠落している鉄太郎にとっては、何の問題にもならなかった。
山岡家は微禄(薄給)であったため、二人の結婚生活は困窮を極めた。家財道具のほとんどは売り払われ、妻の英子は栄養失調で乳が出ず、最初の子は死んでしまった。どん底を味わったのである。二人はこの苦境を支え合いながら耐え忍んだ。その頃、鉄太郎は一途に座禅に取り組んでいた。苦境につぶされない精神を培うためであり、何事にも動ずることのない胆力を身につけたいと思ってのことであった。
将軍の使者
1867年、徳川最後の将軍慶喜は政権を朝廷に返上し、ついに江戸幕府は自壊した。しかしあくまで武力討幕を目論む官軍(新政府軍)は旧幕府軍を挑発し、内戦に持ち込んだ。そして、江戸城を最後の決戦場と考えていたのである。江戸が戦火に見舞われれば、国の統治機構が麻痺するばかりではなく、外国勢につけいる隙を与えてしまう。江戸城攻撃は時間の問題だった。何としてもこれを止めなければならない。それには慶喜が恭順の意を固めていることを官軍に伝えなければならない。しかしその術がなかった。この危機的状況の時に、白羽の矢が立ったのが山岡鉄太郎である。
官軍への使者という一生一代の大仕事を引き受けた。勝海舟(旧幕府軍の軍事総裁)から、「手段はあるか」との質問に対し、鉄太郎はきっぱり言った。「官軍陣営に入ったならば、斬られるか、捕縛されるしかないでしょう。その時、刀を相手に渡し、斬られる前に大総督に申し上げる。ただそれだけのことです」。鉄太郎は命を捨てる覚悟でいた。
同行したのは勝の家に寄宿していた薩摩藩士。現在の川崎あたりには、すでに官軍の先鋒がいた。二人は大胆にも、左右に隊列を組む銃隊の中央を歩いていった。あまりにも堂々としていたためか、誰も止めない。隊長らしき人物の前に出て、鉄太郎は大声で言った。「朝敵、徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る」。隊長はあっけにとられて、思考停止に陥ってしまった。百人ばかりいた兵士も、声もなくただ見ていただけだった。鉄太郎の胆力が相手を圧倒したのである。こうして最初の難関を無事通過した。
西郷との面会
目指すは官軍参謀、西郷隆盛。静岡の伝馬町に宿泊していた西郷に面会を請い、対面するやいなや、口を開いた。「主君慶喜はすでに恭順謹慎しております。なのに是非も論ぜずに進撃されるのですか。先生は、どこまでも戦いを望まれ、人を殺すことを目的とするのですか。それは王道ではありません」と迫った。西郷も「むやみに進撃を好むのではない。恭順の実効さえ立てば寛大な処置があるでしょう」と言わざるを得なかった。
西郷は敵中を堂々と歩いてきた鉄太郎の胆力に驚嘆し、またその誠実な人柄に心打たれていた。西郷は緊急の参謀会議を開き、徳川家に対する処置7項目を鉄太郎に提出した。そこには、江戸城の明け渡し、軍艦の引き渡しなどが書かれていた。それを見て、鉄太郎は言った。「一つだけ受け入れられません。それは、慶喜を備前(岡山県)に預けることです。これでは家臣が黙っておりません。また戦端が開かれ、数万の命が絶たれます」。
西郷は「朝命(天皇の命令)です」とにべもない。「たとえ朝命でも承伏できません」。西郷の主君島津公が、同じような立場に置かれた時のことを考えてほしいと言った。島津公がこのような朝命を受けたならば、西郷殿は家臣として主君を差し出して、安閑としていられますかと言って、一歩も引かなかった。西郷は、しばらく黙りこくっていたが、さすが大物である。「先生(鉄太郎)の説、もっともです。慶喜公のことは、この西郷に任せて下さい」と言った。決死の談判がこうして終わった。鉄太郎、31歳の快挙である。
「命も要らず、名も要らず」
西郷隆盛の遺訓とも言うべき『南洲翁遺訓』に有名な一節がある。「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものである。この始末に困る人でなければ、艱難を共にして国家の大業は成し遂げられない」。これは、西郷・勝の会談の際、西郷が鉄太郎を思い浮かべながら語った言葉と言われている。そして勝に向かってつぶやくように言ったという。「慶喜公はさすがに偉い家来をお持ちですな」。
後に鉄太郎は、明治天皇の侍従として宮内省に出仕することになる。西郷の強い推薦であった。明治天皇はまだ若い。その豪放な振る舞いで、周囲が手を焼いていた。その天皇を時には諫め、立派な君主に導く最適な人物と見なされたのである。
山岡鉄舟は剣の達人であった。晩年、自ら道場を開き無刀流と称した。刀に頼らない剣法だと言うのである。彼は言う。「敵とあい対する時、刀によらず心を持って心を打つ。勝負を争わず、心を澄まし胆力を練り、自然の勝利を得る」。禅の教えを剣術に生かそうとしたものである。まさに剣禅一如である。
1888年7月19日、胃ガンが悪化し、いよいよ最期の時を迎えようとしていた。彼は静かに床を離れ、宮城(皇居)に向かって座禅を組み始めた。そして、その座禅の姿勢のまま、息を引き取ったという。享年52歳。彼は剣の達人でありながら、生前ただの一人も殺していない。剣の達人である前に、人生の達人であったのである。
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