吉野作造
(よしの さくぞう)
大正デモクラシーの立役者
留学生を支えるため東大辞職 民本主義を提唱
吉野作造の活動は政治学の研究だけに収まらなかった。民主主義を求める言論活動、政治活動、弱者を救済する社会福祉活動、留学生の支援活動など、実に多彩である。しかし、「天に仕え、人に仕える」という一貫した信念があった。彼の生涯は逆境の連続ではあったが、彼に絶望はなかった。
行動する学者
1910年代後半、普通選挙制度、言論・集会・結社の自由、男女平等などを求める運動が、多方面でわき起こった。いわゆる「大正デモクラシー」である。これらの一連の運動の立役者が吉野作造である。政治学者であるが、研究だけで満足する学者ではなかった。座右の銘は「路行かざれば到らず 事為さざれば成らず」。思い悩むことよりも、まずは行動せよということであるが、この言葉の通り、吉野は行動する学者であった。
吉野作造は1878年1月29日、宮城県志田郡大柿村(現在の古川市)に年蔵、こうの長男として生まれた。父年蔵は糸綿商吉野屋を営む商人であったが、家業を長女夫婦に任せ、政治の世界に生きた人物だった。晩年は、その実直さと徳望のゆえ、押されて町長にまでなっている。作造の父母は、共に教育熱心だった。古川尋常小学校から中学に進んだのは作造一人。学業が優秀な作造に対し、父は「小成に安んじるような人物とならないように中学に進ませたのだ」と語った。両親の期待に応えて作造は勉学に励んだ。町で評判の優等生で、性格も温厚であったことから、町では「作さんを見習え」という言葉が、子どもをさとす常套句になっていたという。
キリスト教との出会い
14歳で仙台の尋常中学校に進んだ吉野は首席で卒業後、第二高等学校(二高)の法科に入学。ここで彼は、自分の人生を決定づけたキリスト教と出会うことになる。日本キリスト教会牧師で東北学院長でもあった押川方義の「修身講話」に参加した時のこと。押川の講話を聞き、吉野は圧倒され、キリスト教に強い関心を抱くようになった。
その後、キリスト教の布教に燃えて、単身アメリカから仙台に来ていたミス・ブゼルのバイブルクラスに入り、聖書を学び始めた。ブゼルの聖書講義は、聖書の解釈や神学研究といったものではなく、ブゼル自身の人格と生きた信仰体験からにじみ出る言葉を中心とするものだった。吉野はブゼルの信仰への情熱に心動かされ、ついに洗礼を決意する。洗礼を受けたのは、1898年7月3日のことで、吉野は20歳になっていた。
以後の吉野の人生はキリスト教抜きに語ることができない。厭世的傾向に流れる日本の文学を「日本の将来のために慨嘆に耐えない」と言って否定し、「天職を自覚せよ」「経世の志をもて」と主張した。理想と正義の実現を志す若き青年クリスチャンとしての道を歩み始めるのである。
二高卒業後と同時に阿部たまのと結婚した吉野は、東京帝国大学法科大学に入学した。妻を実家に残し、単身で東京に向かい、東大YMCA(学生基督教青年会)の寄宿舎に入舎した。大学以外に吉野が足繁く通ったのは教会だった。特に海老名弾正の自由主義的な聖書解釈、合理主義的なキリスト教理解に強く惹かれ、海老名を敬愛した。
一方、大学では小野塚喜平次教授の政治学講義によって「衆民主義」を学んだ。政治とは国家の術ではなく、衆民的政策こそが肝要であると主張する。後に吉野が主張する「民本主義」の素地となる考えである。政治学を学ぶ吉野には、一つの志が宿り始めた。キリスト教精神と政治学を結びつけようと。無限なる神は、この現実の世界に存在し認識できる。その神を現実の歴史や政治の中に見出し、その意志に添うように政治や社会を導くことこそが、クリスチャンとしての自分に課せられた使命ではないか。それは政治や社会を改革する一人の牧師として立つことを意味した。天職の発見である。
大正デモクラシーと民本主義
31歳で吉野は東京帝国大学助教授に就任。その1年後の1910年4月、吉野は独英米の留学のため、横浜港を出発した。丸3年に及ぶ留学生活で、吉野は各地でキリスト教精神に基づく社会事業の事例を数多く見た。それまで哲学的思索を深めることで神に近づくと考えていた宗教観を転換することになる。社会的活動や事業を行うことによってこそ、神に到ることが可能なのだと。これが、帰国後の吉野の社会活動を支える信念となった。
それとウィーンで民衆運動のうねりを見た。生活必需品の暴騰に対する労働者の秩序正しいデモ行進は、それまで暴動化する民衆運動しか知らなかった吉野の心を動かした。民衆運動の重要性に気付いた吉野は、帰国後「民本主義」を掲げて論壇に登場するのである。
洋行帰りの吉野のもとに、雑誌『中央公論』の編集主幹瀧田樗陰が訪れた。この出会いが、吉野を論壇の中心に押し上げ、大正デモクラシー(大正期の民衆の政治参加の拡大を目指した運動)の機運を盛り上げる大きなきっかけとなるのである。
吉野の名を一躍有名にした論文が『中央公論』(1916年1月号)に掲載された。「憲政の本義を説いてその有終の美をなすの途を論ず」である。この論文で、民本主義という政治概念を主張した。主権の行使に当たり、一般民衆の利益幸福を重視し、政権運用の最終決定を一般民衆に置くべきこと、つまり普通選挙制の実施の主張であった。今日の民主主義と変わらない。ただ、あくまで天皇主権という枠の中で成立する政治方針であり、当時危険思想視された民主主義との混同を回避しようとしたのである。
この論文は思想界に衝撃を与えた。民主政治という問題を一般の論壇で論じた最初の論文だったからだ。そして、言論界に大論争を巻き起こし、吉野は左右双方から批判された。天皇親政を堅持しようとする右派の国家主義者は、民主主義的な吉野の主張を嫌悪した。左派は天皇制を問わない吉野の主張をブルジョア民主主義として批判した。しかし、この論争により民本主義が一般的に広まることになったことは確かである。
デモクラシー気運の高まりを象徴する事件があった。右派の浪人会との立会演説会である。会場となった神田の南明倶楽部には、過激な右派も多数集まり、身の危険が迫る雰囲気だった。東大の教え子たちは「吉野博士を守れ」と気勢をあげながら、乗り込んでいた。吉野は言った。「暴力を持って言論を圧迫しようとする態度を非難するのだ」と。浪人会側の代表が弁明に立ち、聴衆の一人が「ノー」と叫んだ途端、後ろにいた浪人会の一人がヤジを発した聴衆を殴った。演壇から吉野が言った。「今の暴力!あれがいけないと言うのだ。数万語の演説よりも今の事実である」。聴衆は沸き立った。吉野側の勝利を印象づけ、終了後、吉野は応援者たちにもみくちゃにされた。
この演説会に吉野は不満だった。言論と言論がぶつかり合う理性的な場というより、左右双方による扇動合戦に過ぎなかったからである。しかし、この演説会の社会的影響は大きかった。デモクラシー運動を推進する団体を形成する契機となったからである。
東大を辞職
1923年9月1日、関東地方を大地震が襲う。研究室と大学図書館は猛火に襲われ、吉野が長年集めた研究資料が全て焼失。吉野は図書館に二度も突入を試みたが、煙と炎に阻まれ果たせなかった。立ち尽くす吉野の頬には涙が流れ落ちていたという。
大震災による衝撃は、研究資料を失ったことだけではなかった。朝鮮人が日本人に復讐するという根も葉もないデマが広まり、激昂した民衆は自警団を組織し、朝鮮人を手当たり次第に暴行を加え、虐殺した。死者は一説では6千人に及ぶと言われている。吉野はこの事件を深く憂慮し、『中央公論』に「朝鮮人虐殺事件について」を発表した。この虐殺事件は、世界に対する大恥辱であるとし、日本人は朝鮮人に謝罪すべきであると主張した。さらに朝鮮統治そのものの是非を考えるべきとまで言い放ったのである。
大震災の3ヶ月後、吉野は東大教授の職を辞し、周囲を驚かせた。朝日新聞の客員に就職するためであった。理由は明確だった。朝日新聞の方が東大教授よりずっと収入が良かったからだという。お金に執着していたからではない。吉野は横浜の富豪を説いて、朝鮮人や中国人学生の学費を出してもらっていた。しかし、大震災で富豪の支援が難しくなり、吉野は自分で留学生の費用を作ろうと考えた末の決断だった。
吉野の研究室には、朝鮮人、中国人の苦学生がよく訪ねてきた。多くは金を無心しに来たのだという。吉野は嫌な顔ひとつしないで、できうる限り金を出してあげていた。来ないと指示して届けさせたりもしたという。吉野はそれほど情誼に厚かった。朝鮮人虐殺事件に心を痛めた吉野にとって、留学生を助けることは、償いの気持ちだったに違いない。
しかし、朝日新聞社に在籍したのはわずか5ヶ月。右傾化する司法当局が、朝日新聞社に吉野の退職を迫ったからである。紙面や講演でデモクラシーの論陣を張る吉野は目障りな存在だったのだ。そうした吉野を支えたのは、かつての同僚や後輩たちだった。新聞雑誌研究所を創設するという名目で、吉野を東大講師として迎え入れたのである。収入は激減したものの、吉野は前向きだった。退社が決定した日に、「人世に逆境はない。如何なる境遇にありても、天に仕え、人に仕える機会は潤沢に恵まれている」と書き記している。逆境にあって、ますますキリスト教への信仰を強くしているのである。
それから9年後の1933年3月18日、吉野は55年の生涯を終えた。その生涯は実に一貫していた。良心の命令に従おうとしたのである。民本主義(後に民主主義)を主張したのも、社会福祉活動を推進したのも、留学生を助けようとしたのも、その根底には良心が宿っていた。戦前の右傾化する社会では迫害され、白眼視されたが、その良心の叫びを抑えようとはしなかった。キリスト教に帰依する信仰心が、彼の良心を支えていたからである。まさに良心の学者であり、行動する知識人であった。
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