広田弘毅 
(ひろたこうき) 


無欲で清廉潔白の総理大臣 
A級戦犯として絞首刑  一切の自己弁護を拒む 

  国際協調、平和外交を旨とする広田弘毅は、一外交官で人生を終えたいと考えていた。しかし、日本を戦争に引きずり込もうとする軍部の画策に直面し、日本の政治は広田を必要とした。外相として、首相として、広田の努力の大半は、軍部の横暴を阻止するために費やされた。

絞首刑になった元首相

広田弘毅

  1948年12月23日、A級戦犯(戦争犯罪人)7名の絞首刑が執行された。その中に一人だけ文官(軍人以外の官吏)がいた。元首相の広田弘毅である。彼を知る誰もが広田の処刑を疑問に思った。戦争をぎりぎりまで避けようとした平和主義者であることを知っていたからだ。彼は、軍部の暴走、対中強硬論、対米戦争論などに対して、常に抵抗勢力であり続けた人物であった。
  終戦後開かれた東京裁判、つまり戦争犯罪人を裁くその場で、多くの軍人が絞首刑を避けようと見苦しい責任逃れの弁舌に汲々としていた。しかし広田弘毅だけは違った。一切の自己弁護をしないばかりか、弁護士もいらないと主張する始末であった。戦争が軍部の暴走であったにせよ、それを止めることができなかった責任を痛感していたのである。彼は、文官の代表として責任を取って死ぬ覚悟を決めていたのである。

座禅と論語による精神形成

  1878年2月14日、福岡で石屋を営む広田徳平とタケとの間に長男が生まれた。丈夫に育つようにと丈太郎(弘毅の幼名)と名付けられた。成績優秀であった彼は、県立修猷館中学に入学。成績は常にトップレベルであった。しかし、勉強ばかりしていたわけではない。勉学の合間によく禅寺に通い、座禅を組んだ。町の柔道場にも休まず通った。この柔道場を経営していたのが玄洋社という政治結社。論語などの漢学を講義しながら、社会啓蒙活動を行っていた。ここで学んだ論語は、広田の精神形成に多大な影響を与えることになる。
  彼は一度も玄洋社の正式メンバーになったことはなかったが、彼らとの付き合いは生涯続いた。このつきあいが、後の東京裁判で、広田にとって不利に働いたことは確かである。玄洋社は当初、国粋主義的傾向を持つ右翼的愛国団体であった。連合国側の検事は、玄洋社につながる広田を、戦争を引き起こした黒幕とみなしていたのである。
  中学卒業と同時に、広田は外交官になるため、一高(現在の東大教養部)を目指した。今後の日本に必要なのは、有為の外交官であると考えてのことである。名前も弘毅と改めた。論語の中の「士は弘毅ならざるべからず(度量を広く、意志を強く持つべし)」から取ったものである。外交官としての心構えを自分自身に言い聞かせたのであろう。このように広田にとって、論語は常に精神の糧であった。一高に入っても、暇さえあれば論語を読んでいたし、忙しい外交官時代でも、就寝前に論語を読むことを日課としていた。

現地に精通した外交官

  外交官として、広田は実に異色であった。たとえば北京に在勤となっても、外交官たちの遊びには、ほとんど加わることがなかった。付き合いが悪かったわけではない。学ばなければならないことが多すぎた。一にも二にも勉強、それでも時間が足りない。とても仲間とのんびり遊ぶ暇などなかったのである。
  もちろん勉強ばかりしていたわけではない。ロンドン勤務の時には、つとめて街頭に出た。ベンチに座って新聞を読んでいる労働者に語りかけたり、あるいは無政府主義者の演説を聞く群衆に近づいては、その反応を探ろうとした。こうした広田の態度に、「外交官の品位を傷つける」と非難する同僚が出てきたが、広田は全く意に介さなかった。日頃彼らが付き合うトップ層の人脈だけでは、本当の意味でイギリスを知ることはできないと感じていたからである。丹念に資料を読みこなし、現地の実態を自分の目で確かめようとする、こうした広田の情報は、実に緻密で正確だった。外務省で一目置かれる存在として、頭角を現すようになる。
  1933年、55歳の広田弘毅は、斎藤実内閣の外務大臣に就任した。前外相の内田康哉の推薦による。内田は平和外交、国際協調を推進してきた政治家である。広田を後継者に選んだのは、軍部に抵抗ができ、人望と統率力で省内をまとめることができる人物と見込んでのことであった。
  外相としての広田の苦労は、軍部との対応に尽きる。軍部は常に被害妄想的に危機感を煽り、政治を軍事主導に牽引しようとしていた。「軍部は最悪の事態ばかりを考えすぎる。むしろどうしたら最悪の事態を避けられるかではないか」。外交主導の対外政策を主張する彼の抵抗である。国会答弁では、「私の在任中に戦争は断じてない」とまで言い切り、その信念を表明した。
  駐日アメリカ大使のグルーは広田を評価して、日記に次のように記した。「広田は誠実に対外関係改善に全力を尽くしている。彼は主として軍部を比較的静かにさせ、合衆国との間によき雰囲気を作ることに成功しつつある」。

2・26事件で総理大臣に

  1936年、広田は首相に就任した。歴代の首相の中で、広田ほど無欲の政治家はいないと言われている。名誉や恩賞を求める立身出世主義とはおよそ無縁の人物だった。その彼がついに国政のトップに昇り詰めてしまった。青年将校が興したクーデター(2・26事件)により、国内が騒然としている時だった。斎藤実、高橋是清らの現職閣僚が射殺され、首相の岡田啓介はからくも一命をととりとめる。
  事件後、外相であった広田に後継首班の話が持ち込まれた。「自分には、そうした力があるとは思えない」と言って辞退する。しかし、元老の西園寺公望をはじめとする周囲の説得により、ついに引き受けることになった。銃の威嚇によって政治を壟断しようとする軍部から、日本を守らなければならない。彼を支えていたのは、この使命感だけであった。
  広田は覚悟を固めていた。2・26事件のけじめをつけ、軍を粛正する。大規模な処分と人事刷新。「この内閣はそれだけでいいんだ」と言って断行した。陸軍幹部の退官、更迭をはじめ、総勢3千名に及ぶ大規模な人事異動となった。
  広田はよく、「外交の相手は軍部である」と言っていた。ここに全てが言い尽くされている。外交官として、あるいは政治家として、広田が最も心を砕いたのは、軍部との関わりであった。「広田内閣は何もやらない」と非難を受けたこともある。しかし、軍と喧嘩して内閣が崩壊し、より好戦的な内閣が成立することを危惧していた。彼ができることは、軍の諸政策の実施を引き延ばすことだけであった。軍部の横暴は、国家予算の約半分に及ぶ巨額の軍事費を要求するまでになっていた。それを阻止しようとして、広田内閣は寿命を縮めた。陸軍の突き上げによる閣内不統一で総辞職。1年に満たない短期政権であった。
  その後、広田は近衛文麿内閣の外相として入閣するが、これも望んだわけではない。国家の未曾有の危機に際し、体面を捨て、火中の栗を拾う決意をしたのである。この最後の入閣が、後の東京裁判における死刑判決の決定的な要因となってしまった。
  入閣後わずか1ヶ月後に、蘆溝橋で日中間で衝突(1937年)が起こり、日中戦争に拡大したことが広田にとってこの上もない不幸であった。事変不拡大、現地解決の方針を打ち出したものの、軍部の独走は誰も止めることができなくなっていた。ついに日本は泥沼の戦争へとのめり込んでいく。広田はアメリカ、イギリスを通して、日中間の和平を画策したが、陸軍からの徹底的な妨害で頓挫した。挙げ句の果てに、陸軍は広田外相を「害相」、外務省を「害務省」とののしり、広田暗殺を触れ回る始末であった。
  中国大陸における軍の暴走に対し、国際協調路線を貫こうとする広田は、軍の尻ぬぐいに奔走するばかりであった。しかし、欧米からは諸外国に陳謝する広田の姿も、欧米を油断させる一つの作戦と受け取られたのである。

最後のつとめ

  戦争が終わった4ヶ月後の1945年12月、戦犯逮捕令が広田にも出され、巣鴨拘置所に収監された。広田を妨害した軍人の一人が、広田の姿を見つけて、驚いて叫んだ。「どうしてあなたが」。広田はここにいるべき人ではなかった。彼をよく知る誰もが、そう感じていたのである。
  拘置所に向かうとき、広田は妻の静子を軽く抱きしめ、「大きな気持ちで行ってくる。ただ、あまり簡単には考えない方がいい」と言い残した。彼には密かに期するものがあった。天皇に累が及ぶことだけは避けたい。そのためならば、命を投げ出す覚悟である。文官の誰かが責任を負わなければならないとしたら、近衛文麿が自殺した今となっては、それは自分しかいない。外相を3回経験し、首相でもあった自分が文官としての責任を負うしかないと考えていたのである。
  裁判で広田は、必要最小限の返事しかしなかった。自己弁護は一切しないと決めていたのである。自分がしゃべれば、誰かを陥れることになる。「責任は自殺した故人が取るべきで、あなたはもっと自己弁護すべきだ」と忠告する者もいたが、耳を貸そうとしなかった。故人を足蹴りにして生き残ろうという気持ちは広田には全くなかった。そして、何よりも戦争を止めようとしても止められなかった責任、自己の不足さを痛いほど感じていたのである。裁判上の罪状認否で、単に形式的に「無罪」と言うべきところを、「無罪とは言えぬ」と言って、弁護士をあわてさせたほどであった。彼は有罪になり、死刑になることで、最後のつとめを果たそうと考えていたのである。

妻の死

  広田が巣鴨に収監されて5ヶ月後、妻の静子が服毒自殺を遂げた。その報を聞いて、広田はまるで妻の面影をまぶたに焼き付けるかのように、静かに目を閉じた。二人は老いてなお相思相愛で、周りも羨む仲だった。死ぬ前日、静子は子供たちに「幸せな生涯だったわ」と語っていた。死を選んだのは、死刑という最悪の事態を迎えたとしても、夫の生への未練を軽くしてあげられると考えてのことである。それが彼女ができる夫への恩返しであった。わびしい独房の中で広田は、そんな妻の優しさに身を震わせた。
  1948年11月4日、判決の日が来た。広田には6人の軍人と共に絞首刑が言い渡された。広田の死刑は、検事団にとってさえ意外なものであり、キーナン首席検事は「なんとバカげた判決か」と怒りを隠さなかった。あまりに不当な判決である。広田を知る者たちが立ち上がり、道行く人々に減刑嘆願の署名集めを開始した。郷里の福岡や、外務省関係者も嘆願運動に呼応し、合計7万人を超す署名が集まったという。しかし判決が覆ることはなかった。12月23日、死刑は厳粛に執行された。「何か言い残すことはありませんか」と尋ねる僧侶に、「何も言うことはない。自然に生きて、自然に死ぬ」とつぶやくように語っただけであったという。
  何らかの欲望は政治家が成功する一つの要件と言われることがある。しかし、これは広田には全くあてはまらない。権勢欲、名誉欲、金銭欲とは全く無縁で、異性関係も潔癖そのものであった。今日、日本が渇望しているのは、広田のように身辺が清潔で、優れた見識を持ち、並はずれた責任感を有する政治家なのかもしれない。
  広田夫妻の人生訓は、「清く生きる、そして清く死ぬ」。まさにこの言葉のように生き、この言葉のように死んだ。70年の生涯を終え、広田弘毅は妻の元へと旅路を急いだ。



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