Top向学新聞現代日本の源流>本田宗一郎


本田宗一郎 
(ほんだそういちろう) 


独創性追求の天才技術者 
世界初の低公害エンジン開発  退社後、全社員にお礼回り 

  本田技研工業は、本田宗一郎の夢から始まった会社である。小学校の時にはじめて見た自動車の感動が、少年の心を揺さぶり、その時抱いた自動車作りの夢を本田は生涯追い続けた。その夢を社員と共有することで、倒産の危機を克服し、世界一流の自動車メーカーとしての地位を確立した。



もの作りの天才

本田宗一郎

  本田宗一郎は、本田技研工業の創業者。一代でオートバイはもとより、自動車をも世界のブランドに育て上げた戦後日本が生んだビジネス・ヒーローである。自ら4百件を超える特許を持ち、「日本のエジソン」と称せられるほどの発明家であり、技術者だった。
  学歴は尋常高等小学校卒にすぎないが、もの作りにおいては驚異的能力を発揮した。技術関連の記憶力はずば抜けており、優秀な大学卒の社員も舌を巻くほどだった。
  もの作りに対する情熱は圧倒的で、常に独創性を追求したという。エンジニアの設計図を見て、「どこがよそと違うんだ?」が口癖だった。思っていることを完璧に仕上げないと気がすまない気質で、一切の妥協を許さなかった。まさに典型的な天才技術者であった。

自動車作りの夢

  1906年11月17日、現在の静岡県天竜市に、鍛冶職人である父儀平と母みかの子として、本田宗一郎は生まれた。自動車との出会いは、尋常小学校の3年生の時である。村にはじめて自動車がやって来た。村中が大騒ぎとなった。
  目の前に黒く照り輝く幌付きのセダンが、狭い田舎道を唸りながら走っている。「これが、自動車だ」。彼は自動車の後ろの取っ手を握りしめ、一緒に走った。エンジンの音、排気とガソリンの臭いにゾクゾクした。まるで空を飛んでいるかのような高揚感。「こんな自動車を作ってみたい」。自動車作りの夢の始まりである。
  高等小学校を卒業しても、進学する意志は全くなかった。成績が悪すぎたのだ。1922年春、15歳の宗一郎は東京にある自動車修理会社の「アート商会」に入社、社会人としての第一歩を踏み出す。そして持ち前の器用さでメキメキ腕を上げ、主人も太鼓判を押すほどの腕前となっていた。
  6年後の1928年、アート商会ののれん分けを許され、「アート商会浜松支店」を開業した。9年後にはピストンリング(自動車エンジンの部品)の製作会社東海精機重工業株式会社を設立。修理屋から、作る側への転換を果たした。

本田技研工業株式会社設立

  戦後、全てを清算し、何をしようかと悶々とした日々を過ごしていたが、46年9月1日ついに本田宗一郎は動き出した。本田技術研究所を設立したのである。浜松市の焼け野原に小さなバラックの工場を建てた。爆撃で破損した工作機械などを修理して使うようなみすぼらしい出発ではあったが、夢実現の第一歩であった。
  設立まもなくの頃、友人の家でたまたま旧陸軍の六号無線機発動用エンジンを目にした時のこと。あるアイデアが閃いた。自転車にこのエンジンを付けて走らせたらどうだろうか。4日間、昼夜ぶっ通しで考えた。そういう時の本田には鬼気迫るものがあったという。
  様々な試行錯誤の結果、同年11月には補助エンジン付き自転車の生産にこぎつけた。アイデアを得てから約2ヶ月、驚くべきスピードである。これはバタバタと音を出して走ることから、「バタバタ」の愛称で親しまれ、大ヒット商品となった。48年の9月24日、資本金百万、従業員34人の本田技研工業として新たに株式会社として出発した。
  本田の人生は、藤沢武夫なしに語ることはできない。二人の出会いは、1949年の夏、共通の知り合いの紹介による。本田は、製品開発には天才的な能力を発揮したが、営業や経理面での才能はまるで欠落していた。「俺は、どんな数字でも、最後にミリが付いたり、パーセントが付いていれば、全部覚えちゃうんだが、最後に円が付くと、全然ダメ」と公言してはばからなかった。
  一方藤沢は、技術のことは何もわからなかったが、営業面では抜群のセンスと自信を持っていた。それに経理をしっかりおさえる実務家でもあった。二人はすっかり意気投合した。もの作りのことは本田、お金のことは藤沢。この棲み分けが見事にできあがり、二人で会社を引っ張る体制ができあがった。本田は42歳、藤沢は38歳であった。

マン島のTTレース

  1954年6月、本田はイギリスのマン島で開かれるオートバイレース(TTレース)視察のため、渡英した。会社が倒産寸前に追い込まれていた時期である。朝鮮戦争の特需景気が、1953年末頃から一気に冷え込んだ。人気商品のカブF型の売れ行き不振。新商品のエンジントラブル。苦情が続出した。いつも強気の本田も、さすがにこの時は、妻の前で男泣きに泣いたという。
  苦境のどん底にあえいでいる時、藤沢は本田に「TTレースで勝負してみましょう」と言って、その視察旅行を提案したのである。TTレースの出場は本田の夢であった。その社長の夢を社員みんなの目標にしようとしたのである。藤沢は、代金回収を早めることで、危機の克服をはかろうとした。同時に、夢の共有が必要だと考えていたのである。未来に希望があれば、団結心も育まれるからだ。意気消沈していた本田の心に灯がともった。
  はじめて見る世界最高水準のオートバイ。本田は度肝を抜かれた。1周60キロのコースを7周する。東京、大阪間に匹敵する距離を走行して、競い合うのである。イタリアの世界最高オートバイの馬力は、本田技研の4倍強である。どうしてこんなエンジンができるのか。TTレース参加など夢のまた夢に思われた。しかし、元来が負けん気が強い本田である。難しい状況になればなるほど、めらめらと闘志が燃え上がってくる。
  帰国したのは7月末。藤沢の努力で当面の危機は乗り越えた。帰国後、本田はTTレース推進本部を立ち上げ、レーシングエンジンの開発に取り組み始めた。初出場は、5年後の1959年。61年には、ついに1位から5位まで本田のオートバイが独占するという完全優勝を達成する快挙であった。現地の新聞に驚きの論評が載った。「本田は独創的なエンジンを創った。中身は独自の工夫に満ち、精巧である。その点ではわれわれのマシンをはるかに凌駕している」。初めてのTTレースを見て度肝を抜かれた本田であったが、7年後には世界が本田の技術に度肝を抜かれることになったのである。夢が一つ実現した。54歳の本田は、次の目標である自動車作りに向かっていく。

日本のため、人類のため

  本田は常日頃、「会社のことより、先に日本のため、人類進化のためにやれ」と語っていた。その結晶とも言うべき製品がCVCCエンジンであった。1970年にアメリカで制定されたマスキー法、これは一酸化炭素、炭化水素の排出量を75年までに10分の1に、窒素酸化物は76年までに10分の1にするというもの。自動車業界に衝撃が走る。誰もが不可能だと感じた。
  しかし、本田の薫陶を受けて育っていた技術者は、ひそかに新エンジンの技術開発を続けていた。本田は例の天才的直感で「これはいける」と感じた。「排ガス規制値を満たす低公害エンジンができたと発表するぞ」。技術者は驚いて制した。「まだ基本設計もできていません」。
  本田には目論見があった。技術者たちに任せていたら、マスキー法が定める期限に間に合わない。発表してしまえば、開発陣は必死になるし、社員の士気も高揚する。本田は記者会見で発表してしまった。まだ特許申請すらできていない段階でのことである。
  72年10月、CVCCエンジンはついに完成した。本田は記者会見に臨んだ。「マスキー法の課題は、このエンジンで達成できる。この成果を国内外を問わず、よろこんで提供する」。満面の笑みを浮かべながら語る本田は、自信に溢れていた。自動車を作り始めて10年、自前の技術が世界の頂点に立った瞬間であった。夢がまた一つ実現した。

公私混同を嫌う

  本田の偉大さは、エンジンにかける飽くことのない執念ばかりではなかった。彼ほど公私混同を嫌った経営者は珍しい。「役員の子は入社させない」という原則を打ち出し、初期の頃から共に苦労してきた実弟の弁二郎を退社させた。同族会社にしないためである。後に、「本田技研という名前は失敗だった。あくまで株式会社であって、本田家のものではない」と語るほど、その姿勢は徹底していた。本田家の車も、値引きして買うことはなかったという。おかげで息子たちは本田技研の新車を乗ることはできず、中古車で我慢しなければならなかった。
  本田技研を退社するときも実に鮮やかだった。1973年、副社長の藤沢が辞任の意向を示したとき、「おれは、藤沢武夫あっての社長だ。副社長がやめるなら、おれも一緒。辞めるよ」と言って、66歳の本田はあっさりと身を引いた。本田は藤沢に言った。「幸せだったなあ……」「本当に幸福でした。心からお礼を言います」。「おれも礼を言うよ。よい人生だったな……」。技術以外では、藤沢は自分より間違いなく偉い、藤沢なしの自分は考えられない。そのことを本田自身が一番よく知っていたのである。
  退社して1年後、本田は驚くべき行動に出た。3年かけて全国の本田技研の全社員に握手して回ったのである。社員を鼓舞するためではない。お礼を言うためにである。社員一人一人に「ありがとう」と声をかけ、固く握手をかわした。末端の小さな特約店まで足を運び、約7千カ所全てを回り終えたとき、「ああ、本当によかった。本当によかった」と秘書に言った。本田にとって、至福の時だったに違いない。
  1991年8月5日、84歳の本田宗一郎は、死の床にあって「ちょっと早いよな」という言葉を口にした。まだ夢の途上にあると思っていたのかもしれない。その後、眠るように静かに息を引き取った。「社葬は行わないように」と本田は言い残していた。車を作っている会社だから、葬儀のために交通渋滞になってはいけないと心配していたからである。本田らしい最期であった。



a:18223 t:3 y:1