ジョセフ彦
(じょせふひこ)
日本を開国へ導く先導者
日本初の新聞発行 リンカーン大統領に謁見
ジョセフ彦が13歳のとき船が遭難。そしてアメリカ船により救出され、以後9年近くアメリカに滞在した。アメリカ文化を身に付け、アメリカ人となっての帰国。時は開国に向かおうとする激動の幕末であった。日本を開国に導くため、彼は新聞発行を決断する。
漂流後にサンフランシスコへ
横浜の中華街の関帝廟のすぐ近くに「日本国新聞発祥之地」という記念碑がある。民間人の手による日本初の新聞発行を記念した碑で、ここは「新聞の父」と言われているジョセフ彦が居住していた場所である。ジョセフ彦は、日本で生まれた生粋の日本人であるが、国籍はアメリカ。ジョセフの名はキリスト教の洗礼名である。船の遭難という惨劇に見舞われて、幕末の激動期にアメリカに渡った数少ない日本人の一人であった。
ジョセフ彦が生まれたのは1837年8月21日、場所は播州。現在の兵庫県加古川郡播磨町である。名字を持たない一百姓の子であり、幼名は彦太郎といった。父は彦太郎誕生の直後に病没、母は隣村の船乗りの家に再婚した。
彦太郎が12歳の時、母は脳溢血で倒れ、その4日後に息を引き取った。幼くして両親を失った不幸は、彼のその後の人生に大きな影響を与えることになる。母が死んで100日そこそこで、養父が江戸に向かうことになった。母を失った彦太郎をいたわる気持ちもあって、養父はその航海に彼を誘った。これが彼の運命の航海となるのである。
途中、仲間の船・栄力丸に乗り換え、江戸への航海を急いだ。この船は新造船で、江戸に早く着き、船長も顔見知りであったからだ。この運命の船が暴風に襲われてしまった。烈風に流されないように帆柱を切断。もはや自力で故国に戻ることはできなくなった。栄力丸は漂流してしまったのである。
太平洋を漂流すること52日目、たまたまアメリカの商船が通りかかった。中国からサンフランシスコに帰る途中の帆船オークランド号であった。乗組員17人は全員無事救出され、彼らを乗せた船は、サンフランシスコに入港。1851年2月のことである。
運命の決断
サンフランシスコで、オークランド号からポーク号に乗り移ったとき、その船の乗組員の一人にトマス・トロイという人物がいた。日本に憧れ、日本行きを夢見ていた青年で、彦太郎の誠実で一途な姿に好感を持っていた。急速に仲良くなった二人は、互いに自国の言葉を教え合うことで、1年後には日常会話程度なら通訳できるほどに上達した。
ポーク号を離れ、マカオに向かわなければならない時が来た。ペリー提督率いる東インド艦隊の到着を待つためである。ペリーは日本の浦賀に乗り込んで、日本に開国を迫ろうとしていた。その途中、マカオで漂流民を乗せ、彼らを日本に連れて行くという。日本との取引材料として、彼らを利用するためであった。このマカオ行きに際し、漂流民たちはトマスに同行を懇願し、トマスもそれを引き受けた。
ところが、マカオで予想外の事態が起こってしまう。彼らを日本に運んでくれるはずのペリーの艦隊が、いつまで待ってもやってこない。軍艦の修理などに時間を要して、出発が大幅に遅れているという。マカオに着いて5ヶ月近く経った頃、トマスはいつ来るかわからないペリー艦隊を待ち続ける日々に嫌気がさしてしまった。サンフランシスコに戻って、一儲けしたいと考え、彦太郎に「一緒にアメリカに行かないか」と熱心に誘った。
彦太郎の心は大きく動いた。どうせ日本に帰っても、実の両親もいない。それにアメリカまでの旅費はトマスが出してくれると言う。自分の未来をアメリカにかけてみようと思い、心が決まった。15歳の決断であった。
サンダースとの出会い
サンフランシスコでジョセフ彦の生涯にとって、もっとも重要な人物と出会うことになる。サンフランシスコの税関長サンダースである。彼は税関での彦太郎のやりとりと通訳ぶりをじっと観察し、その聡明で実直な態度に好感を持った。彼は税関を出ようとする彦太郎を呼び止め、「私のところに来てみないか。そうすれば、学校にも行かせ、教育も受けさせてあげるが……」と語った。彦太郎のスポンサーになろうと言うのである。
税関長のサンダースは、もともと東海岸出身で、サンフランシスコ屈指の企業家で、商業会議所の初代会頭になっていた人物だった。断る理由は何もない。トマスらに相談しても、みな諸手をあげて賛成した。
その1ヶ月後、サンダースは彦太郎を伴って故郷ボルチモアに帰郷。その直後である。「アメリカの最高支配者のところに連れて行ってやろう」と言う。第14代大統領ピアスとの打ち合わせの場に彦太郎を連れて行くというのだ。この時の会見を「全く信じられない」と自伝に書いている。
最高指導者には、従者もいない。儀式ばったところがまるでない。話し合う姿も、実に対等である。日本では、小さな役所の代官ですら尊大に振る舞っているのに。民主主義の鮮烈な印象は、こうして彼の心に刻み込まれたのである。
アメリカに帰化
サンダースの支援を受けて、彦太郎はボルチモアのミッションスクールに入学。6ヶ月間、この学校で教育を受けた直後に、彦太郎はキリスト教の洗礼を受けた。漂流以来、目に見えない何か大きな力の加護を感じていた彼にとって、洗礼は自然の流れであったようだ。洗礼名はジョセフ、以来彼はジョセフ彦と名乗り、キリスト教徒としての自覚を生涯持ち続けることになる。
彦にとってサンダースは常に父親のような存在であった。サンダースの事業が失敗し、破産状態になり、彦の学費の面倒をみれなくなっても、サンダースは彦の心の拠り所であり続けた。彦が日本語を忘れなかったのも、彼のおかげである。父のように敬慕していたサンダースの「日本語を練習しておくように」という助言を守り通したからであった。彼はいずれ彦が、日米の友好に役立つ時が来ると考えていた。
サンダースの破産などで帰国を意識し始めた頃、彦の前に一人の人物が現れた。ブルック海軍大尉。中国や日本の沿岸調査計画を進めていた人物で、その調査団の中に彦を参加させてくれると言う。彦の立場に同情し、帰国の機会を作ってくれたのである。
この報告を受けたサンダースは、有頂天の彦とは逆に彼の将来を心配した。日本はまだ禁教で、鎖国状態。そこにアメリカ文化を身に付け、洗礼を受けた彦が帰ったなら、どんな危険が待ちかまえているかわからない。彼は彦に帰化手続きを取るように説得した。アメリカの市民権を取得しておけば、身の安全は保たれるだろうし、開国後領事館での任用も可能となると考えてのことであった。こうして彦は、日本からアメリカへの帰化第一号となって帰国することになるのである。
9年ぶりの帰国
ブルック大尉の尽力により、1859年7月、彦を乗せた船はついに神奈川(現在の横浜)に入港。ここで米領事館通訳としての仕事が待っていた。しかし、外交の場での彦の立場は微妙であった。日本側は、都合のいいときには「あなたは日本人だから」と言い、都合が悪くなると「アメリカ人だから」と言って突き放す。アメリカ側にとっても似たようなものであった。いったい自分は何者なのか。彦は自分を見失いつつあった。彼は領事館を辞めて、横浜に貿易商社を開き、その仕事に没頭した。
幸い商売が順調に展開したため、彼はもう一度渡米をすることにした。サンダースを始め、お世話になった人々に会ってお礼をしたかったのだ。2年間にわたる滞在の最大の収穫は、リンカーン大統領と面識を得たことだった。時は南北戦争の真っ最中。大統領は、忙しいスケジュールであるにもかかわらず、彦との会見に応じ、日本の状況をいろいろと尋ねたと言う。彦はリンカーンにすっかり魅了され、生涯リンカーン大統領を敬愛し、彼の説く民主主義の信奉者となった。それが新聞発行につながっていくのである。
新聞発行
ジョセフ彦が、新聞発行を思い立ったのは、2年間ほど滞在したアメリカから帰国した直後のことである。日本国内は、長州藩をはじめとして攘夷運動で大きく揺れ動いていた。アメリカの近代文明の中で成人した彦の目から見れば、攘夷運動は所詮「井の中の蛙」に過ぎない。世界の列強と互角に立ち向かうには、まずは世界の現実を知らなければならない。それには新聞が一番である。
彦は思い出していた。リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」という有名なゲティスバーグ演説も、一夜にして全米に伝えられたではないか。新聞の威力と言うべきだ。海外の情報をわかりやすく報道し、国民の意識啓蒙に貢献したい。これこそが、日本で果たすべき自分の天命に違いない。こう確信し、体が震えるのを覚えた。
これはあまりにも無謀な行為であった。情報を管理したい幕府から厳しく監視され、なお過激な攘夷活動家から命を狙われることは必至である。どうせ一度は死んだ身である。怖いものは何もない。また、彼はアメリカへの恩返しを考えていた。それは新聞を通して、アメリカで学んだ民主主義を伝えていくことに他ならない。こうして1864年6月28日、ついにわが国最初の新聞「海外新聞」が誕生したのである。
ジョセフ彦の新聞発行は、決して成功したと言えるものではない。定期購読者はわずか4名に過ぎなかった。ほとんどが無料での配布で、採算を度外視していた。しかし、今日江戸や地方の教育機関で「海外新聞」を筆写したものが、多く残っていることを見れば、いかに知識人に愛読されていたかがわかる。彼らはこの新聞を通して、海外情報を吸収していたのである。
幕末の志士であった木戸孝允や伊藤博文が、お忍びで彦を訪ねたこともある。この木戸に民主政治を開眼させ、民主主義に欠かせない新聞の重要性を教えたのは、他ならぬジョセフ彦であった。後に木戸は、明治新政府にあって新聞の発行に最も熱心に取り組んだ政治家であったことは、よく知られている。彦の影響であることは間違いない。
彼の波乱に満ちた生涯は60歳で幕を下ろした。数奇な運命に翻弄されながらも、奇跡のような出会いによって道が拓かれてきた。そしてついには、「新聞の父」として歴史にその名を刻んでいる。実直で誠実無比、その人柄が出会いの幸運を呼び込んだのであろう。
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