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勝海舟 
(かつかいしゅう) 

新しい日本の国家ビジョンに捧げる 
「公」を優先する政治へ  至誠一徹の西郷と共鳴 

  幕末、勝海舟は咸臨丸にて太平洋を横断し、アメリカを見てきた本格的国際人であった。幕臣でありながらも、徳川家の家臣と考える前に、この日本の一民と考えることができたのも、民主主義国家アメリカを見てきたからである。「公」に生きる人、勝海舟は日本を危機から救った。

日本の危機を食い止めた男

  明治維新を語る上で、避けて通ることのできない人物の一人、それが勝海舟である。徳川幕府最後の政治家と言われ、幕臣でありながら、明治新政府では参議(国政のトップ)兼海軍卿(海軍大臣)にまで登りつめた。それは徳川家を裏切ったからでも、不忠であったからでもない。彼の意識に貫かれていたのは、徳川でも薩長(薩摩と長州)でもなく、新しい「日本」であった。
  もしこの人物がいなかったならば、徳川家の滅亡は不可避であったろうし、江戸(東京)も灰燼に帰していたはずである。それだけではない。明治そのものが幕をあけることすらできなかったかもしれない。薩長と旧幕府側との争いの間隙をぬって諸外国の介入を招いた可能性があったからである。そうなれば日本は欧米列国の属国である。江戸城の無血開城。この大仕事を成し遂げることで、勝海舟は、ほとんど独力で、日本の危機を食い止めたのである。

剣術と坐禅、そして蘭学

  勝海舟は、1823年江戸で旗本(徳川家直属の家来)の家に生まれた。父は小吉、たいへんな暴れ者で放浪癖があったという。その上、職がなかったため家はひどく貧乏であった。そんな貧乏生活の中、若い頃の海舟は、ほとんど剣術修業に明け暮れた。道場での稽古が終わる夕方からは、神社の境内で稽古を続ける。木刀を振り回し、その後静かに瞑想する。これを明け方まで何度も繰り返したという。夜が明ければ、道場に戻って、引き続き朝稽古となる。ほとんど寝る間もない数年間であった。
  剣術の奥義を極めるために、20歳前後で本格的に始めたのが禅学である。禅寺で約4年間坐禅の修業をした。後年、海舟は「この坐禅と剣術とが俺の土台となった」と述べている。私心を排し、俗念を打ち払い、死の恐怖に打ち勝つ。まさに虚心坦懐の境地を会得した。幕府の難局に対し、少しも動ずることなく対処しえたのは、この時期の修業のおかげであった。
  そして蘭学(オランダの学問)。ある時、オランダから幕府に献納された大砲を見て、海舟はえらく感心した。「これなくては海防は語れない」と思い、そして砲身に書かれている横文字をどうしても読みたくなった。これが蘭学に関心を向け始めた最初で、20代の前半のことである。
  剣術や坐禅と同様、海舟はがむしゃらに勉強した。次のようなエピソードが残っている。外国語の勉強には辞書は不可欠である。しかし当時刊行されていた日蘭辞書は『ヅーフハルマ』一つだけ。それも莫大な値段で、貧乏な海舟には手が届かない。それで彼はその辞書を借り受け、58巻あるこの辞書を1年がかりで筆写した。それも2組。1組は売り払い、借り賃として支払ったという。驚くべき集中力である。
  蘭学を学び始めた海舟の関心は、はじめから兵学に絞られていた。諸外国の圧力が日本に押し寄せつつある時期である。旧来の兵学ではこの危機に対処できない。こうした危機意識を持って、兵学を中心とする蘭学を約5年間徹底的に勉強した。そしてついに私塾を開設するに至る。蘭学と兵学の講義を始めるまでに成長したのである。この時、海舟28歳。ペリー来航の3年前で、日本は勝海舟を必要とする時代へと急展開することになる。

咸臨丸にて渡米

  1853年6月のペリー来航は、日本中に衝撃を与えた。ことに幕府の狼狽ぶりは想像絶するものであった。幕府の政治機構は、もっぱら国内統治に向けられたもので、外国向けの顔は用意されていなかったからである。
  その頃、勝海舟はちょうど30歳。その実力は巷間に鳴り響いていた。危機に立つ幕府が彼を放っておくはずがない。ペリー来航の1年半後、幕府は海舟を登用した。業務は蘭書翻訳であったが、実際は海防計画を練ることであった。
  その半年後、海舟は長崎に派遣される。オランダから寄贈された蒸気船に乗り込んで、航海術などを学ぶためであった。これが長崎海軍伝習所で日本最初の海軍と言われている。ここで彼は約3年半、西洋兵学と航海術の勉強、そしてその伝習に専念した。その結果、幕府内での彼の比重は増すことになる。
  1860年、海舟は咸臨丸に乗ってアメリカに渡った。この船は日本がオランダに発注した軍艦で、鎖国以来外国に出た日本最初の船として歴史に名を残している。渡米の目的は、アメリカ船に乗り込んだ日米通商条約批准の使節団を護衛すること。総勢90名で福沢諭吉の名も見える。
  43日間の航海を終え、サンフランシスコに着いた彼らを待ち受けていたのは、熱烈大歓迎であった。7年前アメリカ人の手によって国を開いた日本人が、自分たちの国を訪ねてきてくれた。アメリカ人にとって悪い気はしない。教え子の成長を見守る教師のような心境であったのかもしれない。
  アメリカで海舟は何を見たのであろう。各種の工場を見学し、その規模の大きさに驚きながらも、ある意味では日本で学んだ延長であり、およその見当はついていた。彼が驚いたのは、技術的なことではなく、むしろ社会制度の問題であった。これは書物などではなかなか理解できない点で、現地を訪れてみて初めて気付くことなのである。海舟はアメリカの身分制度に新鮮な驚きを持ち、さらにその、民主主義、資本主義の制度に関心を向けた。新しい日本の姿が、海舟の中に芽生え始めていたのである。
  約2ヵ月の滞在を終え、帰国後老中(諸大名を監督する国政のトップ)との謁見の際、「何か眼に付いたことを詳しく申せ」と言われ、「アメリカでは、政府でも民間でも、およそ上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思います」と答えたら、老中から「この無礼者」と叱られたと冗談めかしに語っている。

幕府を見限る

  帰国後、勝海舟は横井小楠という思想家に会い、彼の思想に傾倒する。「俺は、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲(隆盛)だ」と海舟をして言わしめた人物である。「公」の政治を説く小楠によって、海舟の政治思想が具体的な言葉となり、幕府に対する彼の立場も明確になった。つまり幕府の政治を「私」から「公」に切り替えること。つまり、「徳川家のための日本」から「日本のための徳川家」への転換である。具体的には、幕府と諸藩が一つとなって、この難局に対処することに他ならない。
  しかし海舟の期待に反し、幕府は「私」を貫くことに終始していた。少なくとも彼にはそう見えた。日本という「公」を優先するため、海舟はついに幕府を見限ることになる。幕府の中枢におりながら、幕府抜きの新しい日本を目指し始めるのであった。
  1864年9月11日、勝海舟は薩摩藩の西郷隆盛と会う。日本の運命はこの時に決まった。薩摩の西郷は、海舟と会うまでは必ずしも倒幕を意識していたわけではない。むしろ幕府と組んで、幕府に反旗を翻す長州を討つための兵を挙げていた。そこに海舟が現れたのである。海舟は、「幕府にはもう天下の政治を取り仕切る力がない。むしろ諸藩の尽力で国政を動かさなければならない時が来た」と語り、幕府を除外した諸藩連合構想を西郷に示したのである。西郷は驚いた。幕府の最高幹部の一人が、幕府抜きの政治構想をぶち上げたのである。
  この会見を機に西郷の方針は大きく軌道修正することになった。長州の息の根を止めるのではなく、その力を温存させるという。いずれ幕府を倒さなければならない時が来る。その時には、長州は盟友になる可能性があるからだ。
  1867年10月14日、ついに最後の将軍徳川慶喜は政権を天皇に返還した。大政奉還である。続いて薩長主導の王政復古クーデター、そして官軍による幕府追討戦争(戊辰戦争)が始まった。この時、海舟は倒されるべき幕府の側にいた。海舟の幕臣としての最後の仕事が残っていたのである。すでに「私」を捨て、新政府に恭順を示している徳川家を救うことであり、江戸を焼け野原にしないことであった。

江戸城無血開城

  幕府の重臣の中には、主戦論を説く者も少なくない。総力を挙げて官軍と戦ったならば、勝算がないわけでもなかった。しかしその選択は、将来の日本のためにも、徳川家のためにも、避けなければならない。海舟は、体を張って慶喜に断固恭順を貫くよう説得した。当然命は狙われる。しかし恐いものは何もない。命はとっくに捨ててかかっているのだ。「命は天に任せてある」。海舟の口癖である。彼は信ずるところに従って、突進した。1868年1月、勝海舟は海軍奉行並、ついで陸軍総裁に命ぜられた。幕府の最高幹部である。ついに幕府と徳川家の命運は彼の手に委ねられたのである。
  海舟のなすべきことはたった一つ。江戸城総攻撃のため、品川まで押し寄せている官軍の攻撃を中止させることであった。総攻撃の予定日は、3月15日。その2日前の13日、西郷との会談のため、海舟は薩摩屋敷(品川高輪あたり)を訪れた。従者は一人だけ。護衛兵を連れて行けと言う意見もあったが、彼はきっぱりと断った。薩摩側を刺激したくなかったからである。
  会談は13日、14日にわたって2回行われた。1回目は様子見、2回目が本番で、総攻撃前日の14日。緊張はピークに達していた。官軍の要求と海舟の嘆願書の間には、まだ相当の開きがあったのである。官軍の本音は、武力による旧幕府勢力の打倒であり、徳川家の温存は考えられない。一方海舟の立場は、大政奉還した以上、徳川家は他の諸大名と同等であるべきという考えであった。この両者の溝は限りなく深い。
  しかし、官軍に西郷隆盛がいて、徳川家に勝海舟がいたことは、この日本にとってまたとない幸運だった。外国勢力の前で、日本人同士の争いはやめようと言う海舟の言葉は、西郷にも痛いほどよくわかる。それに、すでに恭順の意を示している徳川家に武力攻撃を加えることは、西郷の中の武士の魂が許さない。
  西郷は、ついに譲歩した。海舟を全面的に信頼し、江戸城攻撃の延期を全軍に告げた。そして総督府のある京都に戻ったのである。官軍側は、海舟の要求を全てのみ、江戸城の無血開城が決まった。勝海舟の一生一大の大仕事が完成したのである。
  晩年海舟は無血開城の成功について、次のように述懐している。「政治家として自分も多少は権謀術数を用いることもある。しかし、この西郷の至誠の前には、それは通用しない。浅はかな策を弄すれば、かえって自分の腹の中を見透かされるばかりであった。だから、自分も至誠を持って、西郷の至誠に応じたのだ」。海舟の至誠が、至誠一徹の西郷と共鳴して、日本を未曾有の危機から救ったのである。



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