乃木希典
(のぎまれすけ)
留学で日本軍の範となる決意
日露戦争で息子二人失う 夫婦で天皇に殉死
軍人として後に多くの尊敬を集めた乃木希典は、決して幸福な人生を送った人ではなかった。戦場での失態は彼を一生苦しめることになる。研ぎ澄まされた彼の良心が彼自身を決して許さなかったからである。この良心ゆえに苦しみもし、この良心ゆえに彼は窮地に活路を開いていく。彼の最大の転機はドイツでの留学体験であった。
精神としての「乃木希典」
乃木希典は明治時代の軍人であり、日露戦争の英雄である。乃木神社ができ、軍神と仰がれるほどに、国民から絶大な尊敬を集めた。しかし軍人としての乃木の現実は、軍神のイメージとはおよそかけ離れたものであった。明治政府に反旗を翻した薩摩軍との戦い(西南戦争)で、敵軍に軍旗を奪われるという失態を冒し、日露戦争では、乃木の無策のゆえに数万の兵士が犬死にを強いられたと言われた。
それにもかかわらず乃木が軍神と称賛され、国民の尊敬を集めたのは何故だろう。もちろん、後の政府が戦意高揚のため乃木を利用した面もあることは事実であろう。しかし、単にそれだけではない。乃木の生き方、死に方が多くの日本人に感銘を与えたからである。
乃木の一生は、表向きは栄光に彩られている。陸軍では大将、皇族の教育機関であった学習院の院長、さらには伯爵にまでのぼりつめた。しかし、表の栄光とは全く裏腹に、彼の内情は苦渋に満ちたものであった。
戦争を美化してはならない。しかし戦争という極限情況は、先鋭化された人間精神の形を作り上げるということも事実なのだ。明治という時代情況が作り上げた精神としての「乃木希典」。ここには、日本人として、人間として持つべき普遍性があるように思えるのである。
軍旗を奪われる
乃木希典の苦悩の人生は西南戦争に始まる。軍旗(連隊旗)を敵軍に奪われたのである。合理主義的な現代社会では、およそ想像もつかないことだが、軍旗を奪われるということは、当時の軍人にとって捕虜になること以上に不名誉なことであり、屈辱的なことであった。軍旗は大元帥陛下を象徴するものであり、軍隊団結の核心であり、神聖なものであったからである。
この時以来、乃木は常に死ぬことを考え続けることになる。しかし、軍旗を奪われたとはいえ、乃木の連隊はよく耐え、よく戦った。敵軍(薩摩軍)の北上を食い止め、政府軍の勝利に大いに貢献したのである。乃木自身、体に弾痕11個も受けながら奮戦した。その活躍は超人的であったと言われている。
軍旗喪失という失態に対し、極刑に処すべしとの意見も出たが、乃木の活躍に対する評価がそれを上回った。結果的に乃木は昇進する。しかし罪を許されることで、かえって乃木の苦悩は深まった。国が乃木を許しても、彼の良心は自分自身を許すことができなかったのである。
乃木は自決(切腹)を決意する。それを止めたのは、同郷の友人児玉源太郎であった。乃木が今まさに軍刀を手にして、腹を切ろうとしている。間一髪、児玉は乃木の部屋に飛込み、乃木を怒鳴り付けた。「死んで責任が逃れると思うか。死ぬことぐらい楽なことはないんだ。何故、一生かかって死んだつもりでお詫びをしないのか」。乃木は自決を思い止まった。しかし、それは自決の中止ではなく、延期にすぎなかった。そして、死にまさる苦しい生の始まりでもあったのである。この時、乃木は28歳であった。
酒びたりの日々と結婚
乃木の精神的な苦痛の日々が続いた。それを紛らわすかのように酒に溺れていく。泥酔したあげく、朝帰りもめずらしくはなかったという。死に場所を得られない悶々とした思い。磨ぎ澄まされた良心が、必要以上に自身を責め苛む。まるで記憶を消し去ろうとするかのごとく、彼は酒をあおり続けた。
乃木の荒れた生活は、母寿子を心配させた。息子の内情など知るすべのない母は思い悩んだ末、妻を持たせようとする。妻帯をして、暖かい家庭を築くようになれば、息子はもとの優しく真面目な人間に変わるものと考えたのであった。
しかし、乃木にとって妻帯は考えられないことであった。軍旗喪失の罪を詫びようと、国家のため死ぬ時期と場所を考え続けていた乃木である。若くして妻を寡婦にすることになる結婚は、想像すらできない選択であったのだ。彼は母の申し出を断り続けた。しかし、彼は元来が親思いである。母の執拗な見合い話に抗し切れず、しぶしぶ結婚に踏み切った。これが生涯の伴侶となり、死の道までも共にすることになる静子であった。
結婚は、乃木の生活に何の変化をも引き起こさなかった。毎晩のように酒をあおり、泥酔して帰宅した。むしろ、乃木は結婚により苦悩を深めることになった。結婚すれば、当然子供が産まれる。嬉しくないはずがない。しかし、死に場所を考えている乃木は、妻や子にいつまで守ってあげられるかと不安になる。そして無責任に結婚し、子供を作ってしまったそのことを後悔して、自らを責める。この苦悩から逃避するかのようにまた酒を飲む。荒れた自堕落な生活が続くのである。
ドイツ留学
乃木にドイツ留学の話が持ち上がったのが、結婚8年後のことである。陸軍の兵式をフランス兵式からドイツ兵式に切り替えなければならないという意見が台頭したため、その視察を目的としてドイツ留学を命じられたのであった。この留学はわずか1年半にすぎないものであったが、乃木の人生に決定的な転換をもたらすことになった。
乃木は別人となって帰国した。自堕落な生活を捨て、謹厳な乃木となっていた。帰国後、酒杯はほとんど手にしなくなる。宴会に出ても、芸者が現われるとすぐさま退席するような始末であった。そこには生まれ変わった乃木の姿があったのである。
いったい何があったのか。ドイツに行ってみて、まず驚いたことがある。ドイツは、文明開化の持つ華やかなイメージとは全く異なっていた。質実な生活態度。自国の伝統を重んずる精神。国王と国民との間にある親愛の情。これらは、幕末から明治維新にかけて日本の武士や軍人たちが共通に持ち合わせていたものであり、乃木自身の内面に深く根を下ろしていた武士道的精神そのものであった。
ドイツ留学は、乃木の愛国心を呼び覚まし、それに磨きをかけた。同時にドイツ軍人の奢りをも見逃さなかった。将校や士官たちは高級な煙草を好み、女性の気を引くため香水をつけ、奢侈に流れていた。ドイツ軍人の心はおごり、伝統精神から乖離を始めている。これが乃木の実感であった。ドイツの伝統精神に学び、その兵式を採用しても、おごりや奢侈を取り入れてはならない。乃木の心には深く期するものがあった。「日本軍の範となる」。乃木はこの決意をもって帰国した。
日露戦争
1904年2月、乃木希典54歳のとき、日露戦争が勃発した。5月に第三軍の司令官に任命され、日本を出発することになる。このときすでに、乃木の二人の子供、長男勝典と次男保典は父親に先立って前線に出ていた。司令部を率いて東京の新橋駅を出発し、広島に到着した段階で、乃木に不幸な知らせが届いた。長男勝典の戦死である。
その知らせを受け、乃木は一瞬ぐっと瞳を見開いた。そして静かにうなづいただけだったという。それから、妻に「勝典の名誉の戦死を喜べ」と電報を打った。乃木はこの戦争で、自らの死と二人の息子達の死を覚悟していた。それ故、親子3人の柩が揃うまでは、葬式を執りおこなうなと妻に手紙を出した。乃木は一家をもって、真っ先に国民全体の鑑になろうとしていたのである。
次男保典の上官にあたる第一師団長は、乃木の長男の死に同情し、保典を後方勤務にまわそうとした。しかし保典本人からの強い申し出で前線にとどめざるを得なかった。12月1日、次男保典が203高地にて戦死。保典戦死の知らせを報告に来た参謀に、乃木は涙を見せまいとして、ローソクの火を消した。
乃木の悲劇はこれにとどまらない。旅順の要塞に対する攻撃で、5万7千の兵隊の内1万5千以上の命が失われた。乃木の愚直なまでに繰り返される戦法の誤りだと指摘された。このことに国内の軍人、国民から非難の嵐がわき起こり、激高した人々は乃木邸に押しかけ、投石し窓ガラスや屋根瓦が壊されたという。
当然、乃木更迭の話しも持ち上がる。これを止めたのが明治天皇であった。「乃木を替えてはならぬ。そのようなことをしたら、乃木は生きておらぬであろう。誰が引き受けても同じである」。大山巌元帥の意見も天皇と同じであった。「旅順のような困難な要塞を破るには、将兵がこの人のもとでなら喜んで死のうと思うようでなければできないものだ。乃木はその信望を得ている」と言って乃木の更迭に反対した。
乃木の偉さは、言い逃れや弁解を一切しないことである。弁解の余地はいくらでもあった。しかし、すべて自らの不覚としたのである。
明治天皇と乃木
戦争後、宮中に参内し明治天皇に戦争経過を報告した。乃木の頬肉はげっそりと落ち、顔には深い皺が刻まれ、髭は真っ白になっていた。乃木は自らの不覚を天皇に詫び、涙と共に報告を終えた。乃木の報告が終わるやいなや、天皇は「乃木、卿の奉公はまだ終わっていないぞ。朕が命令を待ち、すべからく自重せよ」。天皇のこの言葉を聞いて、乃木は肩を震わせて嗚咽した。乃木を死なせたくないという天皇の気持ちが痛いほどに伝わってきたからである。その後、天皇は乃木に学習院院長の職を与えた。
1912年7月30日天皇崩御(死亡)。9月13日が御大葬(葬式)と決められた。乃木はようやく死に場所を得たと感じたのであろう。殉死することで、天皇へのご恩に報い、国家に奉仕できると。
乃木ははじめ一人で死ぬつもりであった。死の前日書いた遺書は妻静子の生を前提として書かれている。おそらく、乃木の死の直前、静子は一緒に死なせてほしいと頼み込んだのであろう。遺書を書き換えることもできない程の直前に。
乃木は妻を先に死なせた。女性の身として、万一死の苦しさに身もだえして、衣服が乱れることがないようにという、夫としての最期の優しいいたわりだったと言われている。乃木は妻の死を見とどけたうえで、自ら割腹した。乃木希典63歳、静子53歳。公に生き、公に殉じた乃木の生涯は、明治の日本精神として語り伝えられ、精神としての「乃木希典」として昇華した。
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