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大原孫三郎 
(おおはらまごさぶろう)

孤児救済事業を全面的に支援
大原美術館が倉敷を救う  世界の為に与えられた金

  経済人・大原孫三郎の生き方、価値観は、マネーゲームにうつつをぬかす今日の一部経営者と対極にある。高い理想を持って経営に当たり、社会貢献こそが、経済人としての自己の役割と確信していた。孤児救済事業、留学生支援、工員の福利厚生など、どれも理想追求の結果であった。

日本最初の常設美術館

  大原孫三郎は、岡山県倉敷市を拠点として活躍した地方の一経済人である。彼は父から受け継いだ紡績会社を日本での指折りの大会社に成長させたり、中国銀行の初代頭取となったり、中国電力の創設に関わるなど、経済界での活躍がめざましい。
  しかし彼が歴史に名を残すようになったのは、むしろ経済人としてよりも、倉敷市に造った大原美術館のゆえである。昭和初期、まだ日本に常設の美術館が一つもない時期、孫三郎は、倉敷という一地方に常設美術館を造ってしまった。エル・グレコをはじめとする名画の数々が今なお並べられている。
  大原孫三郎は、欧米を見たことは一度もない。生涯において海外旅行は、40代で中国大陸を一度訪れただけである。そういう意味では、「世界を見た日本人」シリーズに相応しくないのかもしれない。しかし彼は自分の稼いだお金で多くの留学生を援助し、欧米に派遣した。「自分は勉強しない代わりに、他人に勉強してもらう」が彼の口癖だった。
  直接の欧米体験がなくても彼は留学生を通して、欧米の文化に触れ、その良きものを取り入れようとした。事実大原美術館も、彼が留学生としてヨーロッパに派遣した児島虎次郎の尽力がなければ、決して存在していなかったであろう。大原孫三郎は間接的ではあったにせよ、世界を見た日本人の一人であったのだ。

義兄の死

  1897(明治30)年16歳の時、大原孫三郎は倉敷を出て東京での生活を始めた。東京専門学校(現・早稲田大学)に学ぶためである。しかし岡山県下でも名の知れた大金持ちの息子である。同郷の友人やら、知人やらが放っておくはずがない。彼らから金をせびられたり、遊びに連れ回されたりの遊蕩の日々を過ごすことになってしまう。
  金はいくらあっても足りない。当初は父に無心していたが、それも限界となり、とうとう高利貸しにまで手を出す始末であった。高利貸しも相手が大金持ちの息子ということもあって、未成年者ではあったが、金を出し続けた。孫三郎の負債は1万5千円にのぼったという。今の感覚では億を越える額である。
  この高利貸し問題の処理をまかせられたのが、孫三郎の義兄(姉の夫)である原邦三郎であった。邦三郎は妻(孫三郎の姉)を伴い、高利貸し相手の交渉のため上京した。その交渉の打ち合わせの最中、突然邦三郎は倒れ、意識を失った。脳溢血であった。意識はそのまま戻らず、32歳の若さで帰らぬ人となってしまったのである。
  義兄の突然の死が孫三郎に与えた衝撃は計り知れないものであった。自分の不祥事の後始末で奔走中の死。自分が殺したようなものである。倉敷に帰る列車の中、義兄の遺体を入れた棺を前にしながら、悲しみにうちひしがれる姉にかける言葉がなかった。孫三郎は姉にただ詫びるしかない。そして自分を責め続けた。
  多感な少年が突然背負う羽目になった十字架。この重荷に耐えなければならない。それには義兄の供養しかない。その供養として、彼が選んだ道は、倉敷に残り倉敷と共に生きるということである。人生最初の転機であった。

石井十次との出会い

  義兄の死からまだ1年しか経っていない1899年の秋、孫三郎は彼の生涯を決定するような人物と出会った。石井十次というキリスト教の宣教師である。出会った場所は、倉敷の小学校の校庭。10人ほどの少年による吹奏楽の演奏会であった。少年は全員孤児たち。演奏する孤児たちの顔はどれも明るく輝いていた。それだけでも、十分衝撃的であったが、孤児の演奏後に演台に立った石井(岡山孤児院院長)の演説に孫三郎は圧倒され、すっかり魅せられてしまった。石井の孤児救済運動に感動した孫三郎は、財布の中のお金を全部寄付金箱に入れて帰宅した。
  この出会いを機縁にして、孫三郎は石井の事業を全面的に応援し、同時にキリスト教を学び始めるようになる。石井の孤児救済事業は半端なものでなかった。医学生のころ、7歳の孤児をたまたま引き取るはめになったことがきっかけとなり、それ以来、孤児を見るとすべて引き取ってしまう。当然、周囲は反対する。すでに結婚していた石井は、進路を思い悩んだ。1年半近い煩悶の末、石井が出した結論は、それまで4年間学んだ医学書、講義ノート全てを焼き捨てることだった。「病人を救うのは誰でもできる。しかし、この孤児たちを救い、教育できるのは自分しかいない」。妻は気を失ったという。
  孫三郎と出会った頃、孤児の数は300人を越えていた。「一人でも多く救いたい。少しでもいい環境で育てたい。そして孤児救済軍を作って、日本以外からも孤児を救って、3万人を育てたい」。石井は孫三郎の前でこう語った。孫三郎は、まさかと思いながらも、石井の気迫に圧倒され、戦慄を覚えた。そして何かしら奮い立つものを感じた。19歳の青年の心に火がついた。石井と夢を共有しながら、孤児救済の二人三脚が始まったのである。

「金は使うためにある」

  石井は本気だった。1904年に東北での凶作が伝えられると仙台に向かった。東北各地から子供を引き取ってほしいという問い合わせが殺到したからである。孤児の数は一挙に千人に達した。その上、石井には理想がある。ただ形だけの収容では満足しない。孤児たちに人並みの生活をさせてあげたい。食事、医療、教育、衛生などの面で少しでも理想に近づけたかった。義捐金も多く集まるようになっていたが、こんな調子であるから、お金はいくらあっても足りない。
  そんなとき石井は常に孫三郎を頼りとした。孫三郎も石井の求めるままに応じた。孫三郎の応援は、石井自身をも驚かすものであった。石井は日記に記している。「大原兄はほとんど毎月のように孤児院の会計の欠損に対して、一回も小言を言わず助力してくれる」と。
  孫三郎には信念があった。金は使うためにあるのであり、金に使われてはならない。そして彼もまた日記に書いている。「私がこの資産を与えられたのは、私の為ではない。世界の為である。私はその世界に与えられた金をもって、神の御心により働くものである」。彼は金を出すことが生き甲斐であるかのように、金を求めるままに出し続け、そして石井の救済事業を助けたのであった。
  石井は長年の過労がたたってか、48歳の若さで膨大な借金を残して死亡した。孤児院側は借金の利息分を石井の死で免じてもらうよう債権者の了解を取り付けていた。しかし、孫三郎は「それでは石井先生の名誉を最後に傷つけてしまう」と言って、元利全額を自ら支払ったという。
  石井の死後、孫三郎はまるで石井の夢を自分の会社で実現しようとするかのように、紡績工場で働く工員の福利厚生に力を注いだ。石井が孤児を迎え入れ、教育を受けさせ、一人の自立した人間として世に送り出したように、孫三郎は工員を人間として扱い、お金をもらうだけではなく、教育も受けられる環境を作った。社長でありながら、人事課長を兼ねてそれらを遂行したという。石井から学んだ精神を自分の会社経営で生かそうとしたのである。

大原美術館設立

  大原孫三郎を語る上で、もう一人忘れてはならない人物がいる。児島虎次郎である。二人の出会いは、1902年の夏、児島が大原邸を訪ねたことが始まりである。当時、児島は東京美術学校(現・東京芸大)の学生であり、岡山出身で美校きっての秀才と言われていた。その彼が大原家に奨学金のお願いに訪れたのである。大原家では父の代からこれはと思うような同郷の苦学生に奨学金を支給していた。
  孫三郎は児島の実直でまじめな人柄に惹かれ、支援を約束した。その後孫三郎は児島を生涯にわたり支援し、二人は生涯の友として親交を重ねることになる。この時、孫三郎22歳、児島21歳であった。
  二人が出会って6年後、孫三郎は児島をヨーロッパに留学させた。留学は5年に及んだが、帰国に際し児島は孫三郎に手紙を書いた。その手紙には、洋画の本場で直接本物に接する幸運を喜びながらも、自分一人だけが喜ぶのではなく、日本にいる大勢の画家仲間に本物の絵に触れさせてあげたい旨がつづられていた。
  もともと洋画にさほど関心を持ち合わせていたわけではなかったが、孫三郎は児島の志に共鳴し、洋画買い付けを許可した。最初の作品がアマン・ジャン作の「髪」。これがきっかけとなって、次々と買い付けが始まった。結局児島は計3回渡欧し、数多くの作品を持ち帰った。その中にはモネ、マチス、エル・グレコなどの名画が含まれている。買い付け資金は膨大なものとなったが、ほとんど無条件で孫三郎から送られてきたという。
  1929年、児島は47歳の若さで命を落とした。15年前に精神の師とも言うべき石井を失い、この度は心の友を失った。かつて石井の死をきっかけに、その供養として理想の会社経営に乗り出したように、児島の死を契機に、彼が供養としてやるべきことは明らかであった。児島が集めた絵の常設展示場を作ることである。全国でまだ常設の展示場が一つもなかった時期である。多くの者が反対したが、孫三郎はそれを押し切って断行した。そして児島の死の翌年には大原美術館を設立してしまったのである。
  1932年、日本が引き起こした満州事変の是非を判断するため、リットン調査団が国際連盟から派遣され、その一部が倉敷まで訪れた。彼らは大原美術館にエル・グレコをはじめとする数多くの名画が並べられているのを見て仰天した。倉敷の名は、こうして世界に知れ渡ることになり、太平洋戦争中、京都や奈良と同様に倉敷は爆撃対象から外された。世界的な名画を焼いてはならないという判断だったと言われている。大原美術館が倉敷を救ったのだ。
  人は言う。「金を儲けることにおいては、孫三郎よりも偉大な経済人はたくさんいた。しかし、金を散ずることにおいて、高い理想を掲げながら、それに成功した経済人で、孫三郎ほど成功した人物はいない」と。俗事で稼いだ金を世の中のために生かす。これが孫三郎の信念であった。1943年1月18日、孫三郎は戦時下の倉敷で62歳の生涯を閉じた。公共のために桁外れの金を投じながら、金を超える価値を示した人生は今なお語り伝えられている。



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