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鈴木大拙 
(すずきだいせつ)

坐禅で無の境地を開拓
禅を西洋に伝える使命感  「一つの世界」の可能性

  鈴木大拙は、21歳で禅寺に入り、27歳で渡米した。この二つの体験が彼の人生を決定した。禅を英語で語るという、それまで誰もなしえなかったことに挑戦する。さらに彼が夢見ていたものは、東洋と西洋が一つになる世界であった。

禅を英語で語る

  鈴木大拙は仏教思想家である。それも禅仏教の思想家である。また禅の修行者でもある。彼の偉大さは、修行者としてたどり着いた内面の世界に求められるだけではない。坐禅を通して、悟りを開いた禅の僧侶は数多くいる。彼の真の業績は、禅を英語で世界に向けて発信し、解説したことにある。英語を通して禅の本質を西洋人に説明できる人物は滅多にいるものではない。大拙はそれを生涯にわたってやりぬいた数少ない人物の一人であり、その思想、人格、英語力において卓越していたのである。
  1960年代、禅がアメリカをはじめとして世界的ブームとなったことがある。これは大拙の講演や著作が、火付け役となって起こった現象であった。60年末、アメリカの雑誌『ライフ』で、「世界に現存する最大の哲学者は誰か?」という世論調査の結果が報じられた。アメリカ人の圧倒的多数が「ドクター・ダイセツ・スズキ」と答えたという。仏教学者で京大名誉教授の上田閑照氏は、鈴木大拙の業績は鎌倉時代、日本に禅仏教を広めた道元に匹敵すると述べている。道元がその著書『正法眼蔵』で初めて禅を日本語で語ったように、大拙は、禅を英語で語ったのである。これは大拙にして初めてなしえたことであった。

禅との出会い

  鈴木大拙には生涯を決定する二つの大きなできごとがあった。一つは、当然のことながら、禅との出会いである。もう一つは、10年以上に及ぶ最初のアメリカ生活であった。
  大拙は明治政府ができたばかりの1870年、加賀藩(現石川県)の金沢に生まれた。6歳で父を失い、その後高等中学校(後の第4高等学校)に在学したものの、経済的事情で中途退学を余儀なくされた。しばらく英語の教師をしていたが、1891年21歳の時、東京に出て、東京専門学校に学び、翌92年東京帝国大学哲学科に入学した。
  21歳で金沢から上京した頃、自分自身の救いの問題が彼の内面の中心的テーマになった。そして思うところがあって、禅寺として有名な鎌倉円覚寺の門をたたき、老師(僧侶)の指導のもと、真剣に禅の道を歩み始めた。
  禅の道の修行には、主に坐禅と参禅がある。坐禅は心落ち着けて静かに坐り、無心の境地に入ることで、心性を究明する修行法である。何も見ず、何も考えず、心を無の状態にするがゆえに、逆に自分が見えてくる。囚われがないからである。つまるところ、坐禅は自己発見に至る一つの方法なのである。
  さらに参禅とは、坐禅を通して得た新しい自分と自分を取り巻く世界との新しい関係を築くことである。具体的には老師との問答であり、その問答を通して世界との新しい関係を学ぶことに他ならない。
  若く純真な大拙は、自己の救いを求めて、禅の修行をひたむきに実践した。その彼がある境地に到達した時に、円覚寺の釈宗演老師から与えられた名前が「大拙」であった。「拙」は「つたない」とか「劣る」という意味であるが、むしろ「繕わない」「企てない」というような意味で命名したものであろう。つまり何物にも囚われない境地の中に大いなるものが現れるということだ。その後の大拙は、まさにこの名前が示す通りの人生を送ることになるのである。

27歳で渡米

  1897年、27歳で鈴木大拙は渡米した。きっかけは釈宗演老師の推薦である。93年にシカゴで行われた万国宗教会議に参加した宗演は、そこでアメリカの著名な宗教学者ポール・ケーラス博士と知り合いになっていた。博士は『仏陀の福音』という本の著者として有名であるが、この本は彼が宗演老師と話している時、一つのインスピレーションを得て書いたものと言われていた。
  その後、ケーラス博士が中国古典を英訳することになり、その手伝いをする人材を宗演老師に依頼してきたのである。大拙は、『仏陀の福音』を翻訳したことがあるという縁で、老師の推薦を得たのであった。
  97年に渡米し、1909年に帰国するまで約12年間の外国生活(最後の1年間はヨーロッパ)が始まった。それは大拙の合計25年にも及ぶ海外活動の始まりでもあった。具体的な仕事は、先に述べた中国古典の英訳の手助け。それとケーラスが関係する出版社の雑誌編集・校正などの手伝いである。
  これらの仕事とアメリカでの生活を通して、大拙は後の彼にとって大切な2つのことを得た。一つは英語が外国語ではなくなったこと。晩年、日本での生活でも猫に英語で話しかけるほどに、英語は自分自身のものになっていた。もう一つは、長年の雑誌編集によって培われた知的作業への習熟である。
  アメリカでの長期生活を通して、大拙の中に一つの使命感のようなものが醸成されていった。禅の精神、あるいは東洋思想を西洋に伝えなければならない。西洋人に是非とも東洋思想を理解してもらいたい。そうしないと地上にいつまでも戦争はなくならない。大拙はそう信じていた。

大拙の新しさ

  さて鈴木大拙が切り拓いた禅の新境地とは一体何だろう。禅は、本来ドグマ(教義)を持たない。言葉や文字に信頼を置かず、言葉を超えた本質へと坐禅などの修行を通して、直接的アプローチを試みようとする。それを自己の中の霊性の自覚と呼んだり、悟りと呼んでもさほど大きな誤りではないだろう。禅は、宗教行為の中でも最も大切な一つだけに価値を置き、それ以外を切り捨てた例外的な宗教なのである。
  言葉に信頼を置かないという禅の特質により、伝統的な禅は「思想」というものを断固と拒絶してきた。しかし大拙は言う。「世界的見地において、禅にしっかりした思想がなくてはならない」と。大拙によってはじめて禅は思想の衣を帯びることになる。これは禅を西洋に伝えるという彼の使命感、および情熱がなしえた作業と言えるだろう。
  さらに大拙の新しさは、単に禅を西洋に伝えるということだけにはとどまらない。西洋人には東洋的知を教え、東洋人には西洋的知を教える。西洋的知とは、主体と対象をはじめから分離して考える。例えば花や木や石は、あくまで主体である人間の対象にすぎない。しかし、東洋知は自分が花や木を見たとしても、その花や木も同時に自分を見てくれなければ、本当の「見る」ということは成り立たないと考える。つまり主体と対象が未分離なのである。そうした東洋的知の急進派といえるものが禅である。
  大拙は、西洋世界の中で東洋人として生き、日本の中では西洋人として生きながら、東洋と西洋をつなぐ「一つの世界」の可能性を模索していた。そしてまるで自らをその「一つの世界」の実験台に据えるかのように、一人のアメリカ人女性と結婚した。1911年、12年間の海外生活を終え帰国して2年目、大拙41歳の時である。
  彼らの結婚には、はじめから一つの目標が定められていた。それは、「東洋思想または東洋感情とでも言うべきものを欧米に伝え、それによってたとえ極微ではあっても東西文化の了解に寄与したい」というものであった。

自然体で生きる

  鈴木大拙は生涯、坐禅を欠かすことはなかった。禅の研究者であり、思想家ではあったが、その前に一人の禅の修行者であった。禅体験の伴わない禅の研究は、禅と無縁であると常に考えていたからである。
  在米日本人で、15歳の時に鈴木大拙の講演を聴いて、その後大拙の秘書のような立場で、付き従った岡村美穂子という女性がいる。彼女は講演での81歳になる大拙の印象を「一つ一つの動作に迷いがなく、実に自然なのである」と語っている。
  多くの西洋人が禅に関心を持つようになり、世界でブームまで引き起こしたのは、彼が語る禅の思想のゆえばかりではなかった。むしろ禅の修行が作り上げた鈴木大拙という一つの個性に対する驚嘆と感動が契機となったことは間違いない。
  大拙と出会った当初、岡村は大拙にこんな質問をした。「人が信じられないのです。生きていることが空しいのです」。大拙は一言、「そうか」とうなずき、「手を出してごらん」と言った。大拙は彼女の手を広げながら、「きれいな手じゃないか、美穂子さん。よく見てごらん。仏の手だぞ」、こう言って大拙は涙を浮かべたと言う。
  1966年7月12日、大拙は95年の生涯の幕を下ろした。大拙の死を見とどけた岡村美穂子は、「先生は、あたかも本来いなかった人のように、どこにも跡を残すことなく、消え去られました」と寂しい胸の内を語っている。彼女は大拙の面影を探そうと彼の自宅でいろいろと取り出してみるが、どこにも師の気配を感ずることはできなかったと言う。
  何とも慰めようもない気分になって、外に出てみると、庭は何事もなかったかのように自然のままであった。玄関の脇でたたずみ、ふと、そばにある松の木を見た。その枝が風に吹かれている姿を見た瞬間、「ははあ、これだ。先生は」と悟った。以来、心静かにしていると、あそこにもここにも大拙の姿を見つけられるようになったと言う。
  坐禅を通して無の境地を切り拓いた大拙は、無のゆえに何ものにも囚われることがない。それゆえに全てを包摂した。自然を包み、人々を包み込んだ。だからこそ、大拙は死んで自然の中で、あるいは彼と出会った全ての人々の中で蘇生したのである。



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