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東郷平八郎 
(とうごうへいはちろう)

国家存亡の危機を救った英雄
部下との運命共同体  真面目こそが勝利の要因

  東郷平八郎は、日露戦争にて卓越したリーダーシップを発揮し、日本を勝利に導いた。日本の危機を救ったこの不世出の英雄は、軍人になるつもりはなかった。彼の人生を変えたのは、7年間のイギリス留学である。この留学は、海の男・東郷平八郎を作り上げた。

戦争を嫌った軍人

  日露戦争の陸戦の英雄が、乃木希典、児玉源太郎であるとすれば、海戦の英雄は東郷平八郎である。第二次世界大戦以前の日本において、最も尊敬された軍人の一人であった。乃木と同様に軍神とあがめられ、東郷神社まで存在する。しかし、戦後教育の現場で東郷の名を聞くことがほとんどなくなった。軍人を英雄視し神格化することは、軍国主義につながるということでタブー視されたからである。今や東郷平八郎の名は、日本人において忘れられつつあるのである。
  しかし、東郷の精神とその生き方は、軍国主義とは程遠いところにある。そもそも彼は戦争が嫌いであった。幕末、薩摩(鹿児島県)藩士として多くの戦争に参加し、その悲惨さをいやと言うほど味わった。自分は軍人向きの人間ではない、鉄道技師として国家に奉仕したい。これが若い頃の東郷の夢であった。
  東郷は戦争を嫌悪した。残酷無比な戦争の現実を知り抜いていたからだ。部下が次々と死んでいく。そんな戦場の現実に平然としていられるタイプの人間ではなかった。しかし彼は常に国家への忠節、愛国心に溢れる人間でもあった。国家が生きるか死ぬかの瀬戸際での勇気と決断力は今なお語り伝えられている。慈悲の中に勇気があり、冷静沈着でありなお大胆でもあった。東郷平八郎は理想的リーダーとして尊敬されたのである。

箱館戦争で見た武士の心

  東郷の青春時代は戦争の連続であった。鹿児島湾でのイギリスとの砲撃戦。幕府崩壊後、官軍として臨んだ旧幕府勢力(会津藩をはじめ東北諸藩)との戦争。そして榎本武揚軍との戦い(箱館戦争)。
  幕臣であった榎本武揚は艦隊を率いて、蝦夷地(北海道)の箱館(函館)に立てこもり、共和国の設立を宣言した。政府は、榎本軍鎮圧のため急遽、軍を派遣することにした。東郷は三等士官として政府軍の軍艦「春日」に乗り込むことになる。明治2(1869)年、22歳の時である。
  箱館港への総攻撃が始まったときのこと。味方の軍艦の一つに敵の砲弾が命中し、大爆発を起こした。船体は真っ二つに折れ、東郷の乗る「春日」の目の前で撃沈した。瓦礫と化した軍艦の残骸。手足が引き裂かれた遺体。助けを求める怪我人の絶叫。海は修羅場と化していた。東郷は無我夢中で怪我人の救助に当たった。敵艦を見る余裕はない。
  こうした修羅場の中で唯一の救いだったのは、榎本軍によって示された武士の魂であった。榎本軍の軍艦は沈没地点に接近していたが、攻撃はしなかった。東郷たちの救助活動が続けられている間、それをじっと見守ってくれたのである。東郷は敵である榎本軍に仏の心、武士の心を見た。

イギリス留学

  軍人になるつもりのなかった東郷が海軍に入ることになったのは、西郷隆盛の説得による。西郷は同郷の先輩であり、明治維新の立役者であった。鉄道技師になろうとしていた東郷は、西郷を訪ねてイギリス留学を相談した。しかし西郷の返事は、「鉄道技師では当面、留学の計画はない」というものであった。西郷は、日本がこれから世界に伍して行くには海軍力が不可欠であること、さらにこの海軍に東郷が必要であることを断固たる口調で説得した。
  東郷の心は揺れた。イギリスに留学したい。しかし、鉄道技師にこだわっていては、そのチャンスを逸する。東郷は思い悩んだ末、尊敬する郷里の先輩、西郷に人生を預けようと思った。そしてこの時に海軍を生涯の仕事とする決断をしたのである。
  明治4(1871)年3月、東郷は横浜港を出発し、イギリスに向かった。23歳の時である。当初カレッジにて、英語を始め、数学、理科などの基礎知識を学び、2年後、入学を許された学校は、「ウースター」という商船学校であった。ここは校舎も宿舎もなく、「ウースター」という名の練習船があるだけ。学生はこの船で授業を受け、寝泊まりする。船が校舎であり、宿舎であった。常に実践を伴う船上での授業は実に厳しいものであったが、2年後優秀な成績で「ウースター」を卒業した。教官や学生仲間からの東郷の評価は、「学術優秀、品行方正、礼儀正しい」という非常に高いものであった。
  卒業後、恒例に従って東郷は帆船「ハンプシャー」に乗り込んで世界一周の遠洋航海の途についた。学んだ知識を実際の場で試すためである。7ヶ月に及ぶ航海で、東郷はすっかり海の男になっていた。マストに登れば、風の強さと方向を即座に判断し、天候や波の変化を予測した。操船に関しても、ここまで叩き込まれた男は、日本海軍にはいないとまで言われた。
  イギリス留学で得たものは、単に海と船に関する知識や技術ばかりではない。イギリスの船乗りと生活を共にして、彼らのプライドを垣間見ることもしばしばだった。彼らは愛国心に溢れ、国家に忠誠を尽くす心構えができていた。たとえ商船といえども、ひとたび戦争となれば戦場に赴くのである。その愛国心が彼らのプライドの源であったのだ。

連合艦隊司令長官に

  ロシアの脅威が現実的なものとなり、日本は国家存亡の危機にある。これは当時のリーダーに共有されていた認識であった。ロシアとの戦争を想定して、海軍大臣の山本権兵衛は、連合艦隊の司令長官として東郷を迷いなく選択した。同じ薩摩の出身であったからではない。山本は、日本海軍の歴史の中でこれほど強力な大臣はいないとまで言われた逸材であった。年功序列や薩長の派閥人事を排除し、能力のある人材を登用したことで知られている。その彼があえて同郷の東郷を選んだのは、東郷のリーダーとしての資質を評価してのことであった。
  東郷を選んだ山本の判断は間違っていなかった。日露戦争の最大の山場、ロシアのバルチック艦隊との日本海決戦において、それは証明されることになる。1904年10月、ロシアのバルチック艦隊はフィンランドから日本に向かう1万8千キロの大航海に出発。これを東郷の連合艦隊は日本海で迎え撃った。翌年の5月27日のことである。
  この海戦は、連合艦隊の圧倒的な勝利で決着がついた。東郷自身の言葉によれば、「この海戦は戦闘開始30分で決まった。われに天運あり、勝利したのだ」。数字を見れば一目瞭然である。バルチック艦隊の死者1万1千人(日本側発表)に対し、連合艦隊の死者は116名にすぎない。
  勝利の要因は何であったのか。高度な戦略戦術。半年以上の長旅によるロシア側の戦意の喪失。砲撃の命中率の差などいろいろあげられている。しかし、何と言っても決定的な差は士気の差にあったことは間違いない。東郷にとって、この戦いは単に自己の名誉に関わる問題ではなかった。日本が消滅するかどうかの戦いであり、命を投げ出す覚悟ができていた。
  日本の命運を背負う司令長官東郷の緊迫感は、この戦いに臨む全ての将兵に伝わっていた。「この戦争は国家の安否に関わる決戦であり、諸君と共に粉骨砕身、敵を撃退して天皇の御心を安んじ奉らん」。決戦に際し、艦隊の将兵に語った東郷の言葉である。厳粛にして、決然たるこの言葉は艦内に凛として響き渡り、涙を流す者も多かったという。国家を消滅の危機から守るため、将兵と運命を共にしょうという覚悟が伝わった。
  戦闘の間、東郷は敵の砲弾が乱れ飛び、吹きさらしの艦橋に立ち続けた。いくら部下がすすめても、分厚い鋼板で固められた安全な司令塔に入ろうとはしなかった。命の危険に直接さらされている兵士たちと運命を共にしたかったからである。いかに砲弾の雨が降ろうが、艦橋からは絶対に退避しない。東郷はこう堅く誓っていた。全軍の兵士は、波しぶきを受けながら、艦橋で果敢に指揮を執る東郷の姿を見て奮い立った。国家のために命を懸けて戦おうとしている司令長官の姿を見たのである。兵士は東郷と共に戦うことを誇りに思い、彼と共に国家のために命を投げ出そうとしたのであった。
  東郷の偉大さは、この海戦においてのみ示されたわけではない。常日頃の勤務ぶりは、海軍内では知らぬ者はいなかった。海軍の幹部にのぼりつめても、誰よりも早く起きて素足で甲板を洗い、便所掃除まで行った。暴風雨の時なども、自ら寝ずに警戒に当たったという。部下だけに辛い思いをさせることはなかったのである。
 一つの船に乗る海の男は、運命共同体である。ひとたび船が沈没すれば部下も上官もなく、みな海に投げ出される。死ぬも生きるも一緒である。連合艦隊は、司令長官東郷を中心として、一糸乱れぬ組織となって戦ったのだ。
  東郷のもとで、部下は自らの能力を最大限発揮することができた。東郷は自己を厳しく律しながらも、部下への誠実な態度、思いやりに溢れていたからだ。日本海海戦は、東郷平八郎という一人の偉大なリーダーを日本人の心に刻みつけた戦争でもあった。

「勝って兜の緒を締めよ」

  東京湾で行われた連合艦隊の解散式で、東郷は「勝って兜の緒を締めよ」と語って、その演説を締めくくった。この言葉の通り、東郷には勝者の驕りはまるで見られない。もともと寡黙であった東郷は、戦後さらに寡黙になった。新聞などの取材に一切応じなかったという。彼は元来が戦争を嫌った人間である。たとえ防衛という意味があろうとも、生身の人間が殺し合うのが戦争である。勝利したからといって、自慢すべきものとは思えなかったからだ。
  晩年の東郷の生活は、国家の危機を救った英雄とはおよそかけ離れたものであった。東郷大明神などと称賛されることを極端に嫌った。清貧な生活を貫き、いつも周囲に思いやりを寄せたという。常日頃、彼が語っていた言葉がある。「人間に一番大切なのは真面目ということである。少しばかりの才気など、何の役にも立たないものだ。たとえ愚直と誹られても、結局は真面目な者が勝利をおさめるのだ」。
  1934年5月30日、87歳の東郷は家族に見守られながら静かに息を引き取った。国家に忠節を尽くし、真面目にそして誠実に生きたその生涯は、今なお輝きを失っていない。



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