山本権兵衛 
(やまもとごんべえ)

幹部97名解雇の大改革 
日本を救った日本海軍の父  知性と胆力の人

  山本権兵衛は、日本海軍の近代化のため、私情を完全に捨てきって改革を断行した。何度か欧米を見て回り、それに比肩する海軍が必要であることを痛感していたからである。改革はいつの世も、命がけである。既得権益との軋轢、抵抗勢力の妨害、これらをどう処理するか。ここにそのモデルがある。

日本海軍の父

  山本権兵衛は海軍士官であり、海軍大臣、首相を務めた政治家でもある。「日本海軍の父」と言われた。海軍を創設したわけではない。海軍の近代化のために、蛮勇をふるって諸制度の改革、人事の刷新を断行したからである。この改革が行われていなければ、日清、日露の両戦争に日本は勝てなかったかもしれない。日露戦争時の東郷平八郎の活躍も、山本がいなければあり得なかった。
  彼を「西郷隆盛と大久保利通の長所を兼ねたような男」と称する者もいた。西郷の徳、大久保の知性と胆力(度胸)、これらを有するというのである。海軍の改革をなすに当たり、彼は一切の私情を排し、それを断行したからだ。改革はいつの世でも痛みが伴うものである。当然、幾多の抵抗勢力が山本の前に立ちふさがる。しかし彼は一切妥協を許さなかった。清国(中国)、ロシアに勝てる海軍を作るという至上目的があったからである。

西郷隆盛に心酔

  山本権兵衛が生まれたのは1852年10月15日、薩摩藩(鹿児島)の加治屋町である。薩摩出身のほとんどの者がそうであるように、山本も西郷隆盛を尊敬し、彼に心酔していた。
  山本は幼い頃から、気性が激しく、喧嘩が早いことで有名だった。喧嘩している子供たちのところに彼が現れると、「権兵衛が来た!」と言って皆一目散に逃げたという。子供たちから恐れられる存在であった。こうした荒っぽい男が、西郷に心酔し彼から徳を学ぶことになる。大胆無比でありながらも思慮綿密、その上愛情豊かな人格の持ち主になっていくのである。
  明治の新政府ができた直後、16歳の山本は西郷の自宅を訪ねて、自分の進路について相談した。西郷の回答は、「海軍に行くのがいい」。山本の海軍行きが決定した瞬間である。「ありがとうございます」と礼を述べた山本に、西郷は勝海舟への紹介状を書いてくれた。勝は徳川幕府の幕臣でありながら新政府の成立に貢献した人物であり、海軍奉行(海軍大臣)を経験していた。海軍に精通していたのである。
  西郷の紹介状を携えて、東京の勝海舟宅を訪問して勝に会ってみると、予想外の返答が返ってきた。「海軍はやめたほうがいい。海軍の修業なんて並大抵のものじゃない」。勝に反対され、その日はいったん引き揚げた。しかし、海軍行きは西郷との約束である。そう簡単に諦められるものではない。勝宅への日参が始まった。ようやく勝が折れ、勝宅に居候を許された山本は、東京開成所(東京大学の前身)で海軍の基礎学ともいうべき高等普通学(数学、外国語、国語、漢文、歴史、物理、化学、地理など)を学ぶことになったのである。

ドイツ海軍のモンツ艦長

  山本権兵衛が心から尊敬していた人物は、西郷隆盛の他もう一人いた。ドイツ人のグラフ・モンツである。こんなことを述べたことがある。「日本人では西郷南洲(隆盛)、外国人ではグラフ・モンツ、これが世界広しといえども大人物だ」。
  このグラフ・モンツはドイツ海軍の練習艦「ヴィネタ」の艦長である。山本は24歳のとき、他の海軍少尉補7名と共に、この練習艦への乗り組みを命じられ、10ヶ月に及ぶ世界半周の航海に出た。この間、山本はグラフ・モンツから多くを学んだ。船の操縦や軍事技術はもちろんのこと、政治、経済、法律、哲学など多岐にわたる。そればかりではない。モンツは、服装、生活態度、礼儀、趣味なども、慈愛に満ちた態度で誠実にきめ細かく教えた。
  モンツはドイツの貴族出身で、高い教養と高潔な人格の持ち主だった。温情溢れる人柄、その中に鉄骨のような合理性が矛盾なく貫かれていた。「私の今日あるのは、まったくモンツ艦長の感化による」と山本が語っているほどに影響を受けた。軍人として、人間として、またリーダーとして、山本はモンツをモデルとするようになるのである。

妻トキとの出会い

  モンツから学んだことは他にもある。それは妻に対する姿勢である。ドイツの練習船「ヴィネタ」に乗る直前、山本は17歳の少女トキと出会った。場所は、海軍士官合宿所の向かいにあった女郎屋。新潟の漁師の娘で、家が貧しくて、最近売られて来たばかりであるという。山本はトキの身の上を聞き、心からいとおしく思い、何としてでもこの苦境から彼女を救い、自分の妻にしようと決心した。
  山本は同僚の協力を得て、女郎屋の二階からひそかにトキを綱で下ろして、知り合いの下宿にかくまったのである。トキを生涯の伴侶と決めた山本は、その後ドイツの軍艦「ヴィネタ」に乗り込み、一方トキは海軍士官の妻としての必要な心得を学びながら、彼の帰国を待つことになった。
  結婚してしばらくして、妻が山本の乗る軍艦を見学に来たときのこと。中尉であった山本は自分で艦内を案内した。その帰り。軍艦からボートに乗り、そのボートから桟橋に移ろうとするとき、山本は妻の履き物を持って先に桟橋に渡り、妻の前にそれをそろえて置いたという。
  これを見ていた他の将兵たちは、山本を冷笑した。当時の日本でこんなことをする者はほとんどいなかった。妻を軍艦に案内することが、まずあり得ない。まして妻の履き物を夫がそろえて置くなど、男として恥ずべき行為であったのである。しかし、山本は意に介さなかった。「敬妻(妻を敬うこと)は一家に秩序と平和をもたらす」と言ってはばからなかった。これもモンツ艦長から学んだ西洋の美風であったのだ。

大改革の断行

  山本権兵衛が後に「海軍の父」と呼ばれるようになる本格的な仕事を始めたのは、38歳で海軍大臣官房主事(後の海軍省主事)に抜擢されてからである。当時の海軍大臣は西郷従道、西郷隆盛の弟である。
  欧米に比肩しうる精強な近代海軍を作らなければならない。6年前の1887年10月から彼は1年間欧米に渡り、各国の海軍制度を視察して以来、特にその感を強く持つに至った。そのためには、海軍諸制度の改革と不要な人員整理は不可避であると考えた。
  改革案を練り上げ、海軍大臣の西郷に提出したとき、物事に動じない西郷も度肝を抜かれてしまった。将官(局長、部長級)8名、佐官(課長、課長補佐級)と尉官(係長、主任級)89名、合計97名の士官をクビにするという内容であった。西郷が驚いたのは、それだけではない。その中に薩摩出身者も大勢名を連ねていたからでもあった。
「こんなに整理したら、有事の際に、支障はないか」と西郷。山本は、「新教育を受けた士官が増えております。心配はありません。戦争になったら、整理した予備役の人を召集すれば十分です」と応えた。西郷は山本案でいく腹を決めた。
  山本の人員整理案には、明確な方針があった。たとえ同郷出身の先輩でも、明治維新当時からの勲功を積んでいても、現在将官級の地位にあっても、あるいは自分と親交があっても、海軍の将来の計画に対して、淘汰しなければならないと認める者は淘汰する。また、自分に対して、たとえ悪口を言う者でも、将来国家にとって有用な人材と認める者は残す。
  山本はこの方針を厳格に守り抜いて、一切の異議申し立てを認めなかったと言う。私情を殺し、将来予想される清国、ロシアとの戦いに勝てる海軍を作ることを至上目的としていたからである。

東郷平八郎を司令長官に選ぶ

  1898年、山本は第二次山県有朋内閣の海軍大臣に就任した。対ロシア戦を想定した海軍作りに辣腕をふるう中で、最も大きな決断は常備艦隊(後の連合艦隊)の司令長官として東郷平八郎を選んだことである。後にこの人事は、陸軍の児玉源太郎の参謀次長就任と並ぶ二大傑作と称された。しかし、山本にとってこれは辛い苦渋の決断であった。現長官である日高壮之丞を解任することを意味したからである。日高は山本の竹馬の友であり、海軍兵学寮に一緒に入り、親友と言ってもいい間柄であったのだ。山本は、ここでも私情を捨てた。
  日高は有能な海軍士官であることは認めていたが、自分の才気に溺れ、独断専行の傾向が見受けられた。対ロシア戦は、国運を賭けた戦争になる。その司令長官は上の方針に反する者であってはならない。その点、東郷には不安はない。その上、合理的かつ冷静沈着な判断と行動、それにきわめて強運である。山本は東郷こそ司令長官に相応しいと判断した。
  山本から解任を通告された日高は、腰の短剣を抜いて、「権兵衛、何も言わん。これで俺を刺し殺してくれ」と言った。竹馬の友からの通告に、誇り高き軍人、日高の怒りと失望は察してあまりあるものである。山本は日高の心が痛いほどわかった。彼は日高の性格が国家の大事に際して、不向きであること、東郷を選ばざるを得なかったことを諄々と説いて聞かせた。そして最後に言った。「二人は竹馬の友だし、少しも変わらぬ友情を今でも抱いている。しかし、国家の大事の前には、私情は切り捨てなければならないのだ」。
  日高も愛国者であった。目に涙を浮かべて、うなずいた。「権兵衛、よくわかった。よく言ってくれた」。山本も泣いた。そして日高の手を両手で固く握ったという。英雄、東郷平八郎の誕生の背後にはこうしたドラマがあったのである。
  1933年12月8日、山本権兵衛は81歳の大往生を遂げた。その年の3月30日には、73歳になる妻登喜子(トキを改名)を失っていた。登喜子の最期のとき、山本も病床に臥していたが、妻のいる2階に運んでもらい、妻の手を握って言葉をかけた。「お互い苦労してきたが、これまで何一つ曲がったことをした覚えはない。安心して行ってくれ。いずれ遠からず、後を追っていくから」。登喜子は目からポロポロと涙をながして夫の手を握り返したという。その日、登喜子は夫の愛を胸に抱きながら、あの世に旅立った。山本が他界したのは、その年の暮れであった。
  山本権兵衛の生涯は、海軍の大改革を断行して、日本を危機から救ったことで称えられている。しかし、それと共に妻を危機から救い出し、生涯愛し続けたその人生をもって、その偉大さを後世に残したのである。


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