吉田茂
(よしだしげる)
戦後日本のレールを敷く
英米との協調路線 外務省の「裏街道」勤務
外交官であった吉田茂は、国際的な視野から日本の現状を眺める眼を持っていた。その鋭利な国際感覚と合理主義的感性にとって、軍部の独走は耐え難いものであった。彼は信念を持って、英米との戦争回避に奔走し、警鐘を鳴らし続けた。その時得たアメリカの友人との信頼関係が、戦後日本の出発点となった。
信念の政治家
戦後の廃墟の中で、国の方向性を明確に見据えていた政治家がいた。それが今回の主人公、吉田茂である。戦後日本の形を整えた人物と言っても決して過言ではない。
吉田茂は信念の政治家であった。その信念のゆえにワンマンとか頑固親父とか揶揄され、敵も多かった。日本の行くべき未来を彼ははっきりと描いていたからこそ、安易な妥協を断固として拒絶したのである。
彼は明治維新の功労者、大久保利通を尊敬していた。明治維新を第一の開国と呼ぶとすれば、大久保はこの第一の開国をリードし、日本の進路を決定した大政治家である。吉田は戦後の第二の開国をリードした政治家であり、大久保に匹敵する大政治家と言えよう。
奇しくもこの二人は姻戚関係であった。吉田は縁あって大久保の孫娘と結婚した。妻の父は大久保利通の次男であった。もちろん結婚当初、吉田に待ち受ける将来のことなど知る由もない。彼は外交官試験に合格した一若手外交官にすぎなかったのだ。しかし不思議な運命の糸は、第二の開国をリードする位置へと彼を引き上げていくのである。
三人の父
吉田茂の人物像を語るとき、三人の父親から受けた影響に触れないわけにはいかない。実父、養父、それと岳父(妻の父)である。実父は竹内綱といい、明治期の自由民権運動の闘士であった。自分の意見を発表する場として新聞を創刊するほどの活動家である。この新聞創刊の折りに知り合ったのが吉田健三で、茂の養父となる人物である。吉田健三は竹内綱と一緒に新聞を創刊したのち、実業界に転じ横浜の貿易商として大成功をおさめた。竹内家の五男として誕生した茂は、子供のいなかった吉田家に生後10日目に養子として行くことになった。
三番目が前述した岳父。明治維新の立役者大久保利通の次男牧野伸顕である。吉田はこの岳父に深い尊敬の念を抱いていた。思想、理念、教養、さらには人間としての全人格に共感し、心から信頼していたのである。吉田の皇室重視の姿勢は、多分にして宮内大臣を経験して宮中側近グループの重鎮として政界に隠然たる影響力を保持していたこの牧野に負うところが大きい。
また経済を重視する徹底した合理主義、内政に無関心にいられない体質、鋭敏な国際感覚。これらは実父、養父から受け継いだものであろう。吉田が最も嫌った政治家は、知識教養がなく粗野な政治家だったという。また小手先の権謀術数を弄する政治家も同様に毛嫌いした。こうした一種の貴族主義的傾向も、吉田家の一人息子として何不自由なく育てられた結果であろう。
裏街道の外交官
1906年、吉田茂は28歳で外交官試験に合格した。日本は日露戦争の勝利に沸き上がっていた時期である。有為な若者は外交官を目指したのである。
外務省での吉田は、決して出世コースを歩んだわけではなかった。吉田自身の言葉によれば、「裏街道」勤務が多い。表街道が欧米の主要都市の勤務を指すのに対し、裏街道は中国をはじめ途上国勤務を言う。自分流の生活を守り、自説を譲らず、上司にも一言いわなければ気の済まない性格。そんな吉田は「風変わりな生意気な奴」という見方をされていた。出世コースにはおよそ遠いところにいたのである。
中国勤務が長い彼の外交官生活の中で、何度か欧米勤務があった。イギリスとイタリアでの勤務である。特にイギリスのロンドン勤務は後の政治家吉田茂に多大なる影響を与えることになる。外交官としての最初の任地、中国奉天(現瀋陽)で勤務した後、吉田は30歳の時ロンドン在勤を命じられた。
ロンドン在勤は1年ほどの短い期間であったが、吉田はイギリスとイギリス人がすっかり気に入ってしまった。この国には立憲君主制の伝統があり、イギリス人はジェントルマンの気品と誇りを漂わせていた。もともと貴族主義的傾向を持ち合わせていた吉田にとって、イギリスの雰囲気は肌に合っていた。イギリスに対するこの好印象が、後々彼の外交政策の大きな柱を形作っていくことになるのである。
1936年、吉田茂は駐英大使に就任した。吉田58歳。日本は軍部ファシズムの台頭を抑えきれず、戦争への道を突き進んでいた時期であった。ロンドンから見ていると陸軍の中国大陸での暴走がはっきりと見通すことができた。吉田には信念があった。軍部、とりわけ陸軍の暴走を止めなければならないということ。それと日本は英米協調路線の外交を貫くこと。しかし吉田の意に反して、大陸での戦役は拡大し、37年には日中戦争が勃発してしまう。
この間、吉田は日独防共協定阻止と日英同盟復活に奔走した。彼はヒトラーの危険な体質を見抜いており、軍部の中にヒトラーに心服する者が多いことに強い懸念を抱いていた。出先の大使、公使などの大半が日独防共協定に賛成したが、吉田だけは頑として反対し続けていた。孤高にして孤独な戦いであった。熱病とも言うべき軍部の暴走をもはやくい止めることはできなかった。吉田の主張は無慈悲に葬り去られたのである。
吉田はその信念のゆえに、軍部から蛇蝎のごとく嫌われた。しかしその信念のゆえに、英米に親友を得た。そしてその信念のゆえに、戦後廃墟となった日本の復興を成し遂げるリーダーとして登場することになる。
駐日米大使グルーとの親交
戦争回避に向けて必死に努力していた時期、吉田は一人の人物と出会う。アメリカの駐日大使グルーである。グルーとの交流は単に大使同士という関係を越えていた。家族ぐるみの付き合いであり、心を許しあった親友と言うべき関係であった。
1941年太平洋戦争に突入しようとする直前の10月7日に、吉田の妻雪子は癌で死亡した。雪子の闘病生活の間、グルー夫人アリスと娘エルシーはほとんど毎日、手作りのスープを持って見舞いに駆けつけた。死の直前の雪子はこのスープしか受け付けなくなっていたという。日米関係が最悪の時期、そこには国の壁を越えた互いの信頼関係が生まれていたのである。
12月8日、日本の真珠湾攻撃、太平洋戦争の勃発である。吉田もグルーも深い絶望感を味わった。吉田はグルーに対し密かに書簡を送った。「あなたの我が国と我々に対する友情を、決して忘れない。そのことは確信を持っていただきたい」と書き、最後に「亡き妻がかくも悲しむべき終結を生前目撃しなかったのは、彼女の幸福です」としめくくっている。
グルーは吉田からの書簡の内容をそのまま彼の日記に書き留めたという。それはグルーの明確な意思表示であった。日本の中にも軍部とは一線を画する存在があったことをアメリカ国民に示そうとしたのであり、吉田の友情と役割を歴史の中に残しておこうとしたのであろう。
1945年8月の終戦時、グルーはアメリカの国務省次官になっていた。日本の戦後にとってこのことの意味は決して小さくはない。この二人の信頼関係が、戦後の日米関係を作り上げる出発点となったからである。
三つの信念
1946年5月22日に第1次吉田内閣が成立して、54年12月7日に第5次吉田内閣が総辞職するまで、約8年半吉田茂は総理大臣として戦後の日本をリードした。戦後日本のレールを築き上げたと言ってもいいだろう。この間、吉田が固守してきた三つの信念があった。一つ目は、「英米との協調路線」。二つ目は、「天皇制の維持」。三つ目は「反共」である。
吉田には一つの単純とも言える歴史観があった。それは英米を「世界史の中での本流」と見る見方である。日本は本流である英米と協調し、近代国家をアジア諸国に先駆けて建設しなければならない。戦時中、英米を敵に回して、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んだのは、一時の気の迷いであり、一時の変調にすぎないと考えていた。単純明快である。
戦後、一番微妙な問題が天皇制の問題であった。吉田でなければ、天皇制が果たして現在のような形で残ったかどうか疑問である。吉田は天皇制維持のため、渾身の力を傾けた。グルーを始め英米の有力者に、天皇は本来英米協調論者であったことを書き送っている。また天皇制維持のため、憲法問題などの政治課題でマッカーサーと妥協もした。そしてマッカーサーから「天皇には戦争責任はない。この国でもし天皇を裁くとなると、100万から200万の軍隊を必要とするし、それこそ100年戦争も覚悟しなければならなくなる。その愚を犯すべきではない」という言葉を引きだしている。
さらに吉田は「反共を国是とせよ」という終生変わらぬ信念を持っていた。吉田が共産主義者を嫌ったのは、その思想より行動であった。モスクワの指令を最優先する行動様式は、日本の安定と繁栄を妨げることになると感じていた。さらに共産主義者の宣伝工作に扇動される大衆の姿に、かつて軍部に煽られた国民の姿を重ね合わせて見ていたのである。
吉田はこの3点に関しては絶対に妥協を許さなかった。だからこそ荒廃した日本に明確な指針を示すことになった。日本の復興と繁栄は、吉田が敷いたレールの上でなされたものである。戦後の約60年間を振り返ってみるとき、吉田の信念と選択は間違っていなかったことは明らかである。今日の日本の不幸は、吉田茂を超える政治家を得ていないことなのかもしれない。
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